少年の恥
「ねえ、僕達どこに向かってるの?」
洞窟に入ってすぐ、少年は言う。
「これ以上は危ないんじゃない?」
僕達は浜辺で波の音を聞きながら、この洞窟へたどり着いた。
「あはは……、まさかの海辺だぜ。こんなとこにある洞窟が、そんなに危険なわけないよ」
そんなことを言ってた二人の少年が、いつしか洞窟で遭難していた。
「えっと……ここって一体どこ?」
洞窟の岩肌はつるつるすべる。足元を流れる水は冷たい。
ただ、暗闇ではない。天井は低く、いたるところで崩れ、穴が空いていて、外気と光が差し込んでいる。
どこにいるのかはわからなかったが、そんなに深刻に迷ったとも思えなかった。
いざとなれば大声を出せば、聞きつけた誰かに助けてもらえる。そう考えていたのかもしれない。
二人はおしっこをすませて岩陰から顔を出すと、洞窟の奥へとゆっくりと進んでいった。そこは薄暗く、ジメジメしていると思っていた。
けれど僕の予想とは、まったく違った。
「うわっ」
君は大声を出した。
「……んっ? なんだこれは? 水が……、あ、熱い!?」
温泉でも湧いているのか? ぬるんだ水は冷えた体には心地よかったが、熱いと言うほどではない。
「あっ! 早く逃げないと!」
君がいきなり足踏みをする。
「なんだよ……。マジか」
洞窟の壁がえぐれたような凹みに、水に浸かって、小さな円盤が突き刺さっていた。
「空飛ぶ円盤だ!」
君が言った。
僕らは水の上に落ちた。二人、同時に足を滑らせたのだ。
「あっぶないな」
僕らはまた、同時に言った。
「円盤って、何だよ」
僕が文句を言うと、
「これは空飛ぶ円盤だよ」
君は言った。
「僕が見たのと、同じ形をしているもの」
「見たの? いつ?」
「おととい……」
君が首を振る。
「……じゃないな。もっと、ずっと前」
円盤が、僕達をじっと見つめていた。その表面には、びっしりと文字が書かれている。すごく弱い光を放っていて、周囲が他の場所よりも明るい。水も、そこでぬるくなっている。
「なんて書いてあるんだろうな?」
「読めないよ。でも……」
君は嬉しそうに言った。
「円盤は、この言葉を話しているんだ!」
――バシャッ!
後ろで、水音が跳ねる。
「うわっ」
「えっ」
僕達が振り返ると、体長一メートルは越えそうな、――オオサンショウウオが泳いでいた。
「おわっ、何考えてんだよ!」
「大丈夫」
君はそう言って、両棲類に手を伸ばす。
凸凹した黒っぽい肌に触れると、粘液が滲み出した。
「あ」
粘液に触れて、君の手が白く変色した。
「痛いの?」
「ううん、なんともないよ」
君は首を横に振る。君の眼差しの下で、オオサンショウウオはおとなしい。
僕の方は円盤を持ち上げようとした。
重くて、びくともしなかった。
「な、こら。持てないや」
「どうするんだよ、それ」
「だって、空飛ぶ円盤だなんて、証拠がないと信じてもらえないじゃないか」
「そうか……、うん、そうだね」
少年は、僕にすりよる。
「……えっと、手、そっちを、こうかな?」
君の手が、僕の手に触れる。
「うん、うん、いい」
君に、円盤をひっぱられる。
僕は、足をとられ、両棲類の背中に尻餅をついた。
「ありがとう。やっぱり、無理みたいだ」
君は、その細い指で、円盤の表面をなぞり、触って確かめる。
「文字を書き写せば、どうだろう?」
君は僕を見ながら、言った。
「どうやって?」
僕達はシャツと海水パンツしか身に着けていなかった。
「書くものがないよ」
そうこうしても、サンショウウオは僕達の足元から離れない。
「こいつは?」
僕は、両棲類の白い粘液を指して言う。
君は、白くなった両手を見つめて、少し考えてから、
「……大丈夫そうだね」
と言って、シャツを脱いだ。
円盤の線状痕の感触が、僕の指にもまだ未練たらしく疼いていた。
僕は指先で、オオサンショウウオの頭を押した。
滲み出た粘液を指につける。
その指で、僕は君の背中に円盤の文字を書き写した。
指でなぞったところだけ皮膚が白く脱色されて、君の背中が、読めない文字でいっぱいになる。
これは、もしや粘液を媒介として、円盤が文字を書いている?
そうとしか思えない。僕は、君の背中から円盤に視線を移す。円盤の線状痕と白い線が、まるで僕の指を中心にニューロンのように繋がって繋がって……。
「痛い?」
君は前屈みになり、僕に後ろ手を差し伸べた。
「痛くないよ」
項にかいた汗が玉になっている。
……僕は、その手を強く握る。
「ありがとう」
僕が君の背中に書いた文字、その下で、君の体は少しずつ透けていく気がした。
「こんどは、僕が書く?」
僕らは、互いの背中を離して、水に映る文字の上で向き合った。
君が、円盤の線状痕を指でなぞると、僕の指先に痛みが奔った。思わず、僕は叫んだ。
「痛い痛い痛い」
不意に、少年の姿が消えた。
脱ぎ捨てたシャツと海パンだけを残して、君はいきなりいなくなった。
僕は後ろを振り向き、左右を見て、君を探した。僕と君の足元にいたオオサンショウウオは、もういない。
僕が円盤を見つける前に、予想もしない大波が僕を引っさらったように、洞窟の壁が消えた。
僕の体は浮遊感に包まれる。
「な、何が」
そこにいるのは君なのか? 君か?
僕は慌てて、その影を追う。
僕が君を見失い、辺りを見まわすと、砂浜のずっと端まで僕は駆けていた。
息を切らして、僕は立ち止まった。
君が僕を振り返った。
「どうしたの?」
少年の体は隈なく全身を覆った白い線条痕で光っている。
僕達は、顔を見合わせ、互いに笑った。暮れかけた夏の空の下、僕は君に問うた。
「ねえ。僕の手、どうしてこんなものを握ってるの?」
「さんきゅー」
君は答えた。
「それがないと帰れないもんな」
君は自分の海水パンツを受け取って、さっさと
「ちゃんと持ってきてくれるの、君らしいや」
僕は
それからは何も言わず、家に帰った。
僕達はこのことを誰にも話さなかった。
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