罠の町

この町にやって来てから早くも十日近くが経過しようとしていた。

その間、俺と女は一度も、町の外を歩き回ってはいない。

この町は田舎なので、周りの土地とは別に隔離された場所に畑が存在する。

俺たちが暮らしている小屋のある場所から、さらに歩いて、歩いて、歩いて、その畑に至る。

その畑には、よくある魚に似た生き物が死んでいる場所が多く、よくある泥に似た生き物が死んでいる場所が多く、よくある木の枝に似た生き物が死んでいる場所が多く存在していた。

ここで暮らす前に暮らした俺の村も、そのような風景だった。

ただ、俺の村は、それほどでもなかった。

俺たちの村は町の外にある荒野で生活をしている。

何もない荒野。

だが、その土地には、人が住んでいて、人々が暮らしている。

その人々の生活を守るために俺たちは戦っていた。

誰も、俺たちが何者なのかを疑おうとはしない。

俺たちは人身売買をして、金を得ている。

人身売買という名目ではあっても人身売買ではない。

よくある人に似た生き物がよくある人に似た生き物が死んでいる場所にたどりつく前に捕まえて、売買する。

荒野ではすべての取引は公正で、よくある人に似た生き物を売ったり、買ったり、商売はただ人身売買、つまり、人身売買をするためだけに荒野は存在する。

だが、町には、よくある人に似た生き物がまだ生きているうちに売買することを禁じる者たちがいて、そして、その者と、俺たちは戦っている。

今まではそこそこに誰も文句を言ってはいなかった。

ただ、俺をここに案内してくれたのは、町の土地の住人で、荒野にある村の存在を知らない。つまり、あの土地の住人ではないことは、わかっていた。

だから、俺は俺たちが人身売買をしていたということを、町の住人が知らなかったことも知っている。

なのに今、俺という存在を知らない住人が、俺が人身売買をしていたということを、知っている。

俺たちがここにいること自体を、知っているわけではないが、俺は、この地の住人ではないことを、知っている。

そんな中、俺は今日、少し遅くなってしまった。取引の時間に遅れるなんて、最低なことだ。

だが、こういうときは仕方がない。俺は自分の家にいるのではないのだから。

取引を持ちかける相手とは、荒野に於いてのみ存在する俺たちと彼らの関係であって、よくある人に似た生き物と俺の関係ではない。女は自分が人身売買されていたという事実を知ると、よくある人に似た生き物が、それでも自分で生きようとするという強い意志を感じた。

あの男たちが俺を受け入れてくれるのならば、受け入れようと思っている俺がいつ、あの男たちと俺に迷惑がかかるかを確認する必要があるだろうか。

俺は今まで、何度も自分に迷惑をかけてきた人間を受け入れようとも、そう思ってはいなかった。

この件を俺に知らせようと思う者がいるならば、それは、俺の仲間ではない人間。俺の味方ではない人間。

俺はそんな奴らを、受け入れることはできなかった。

俺が受け入れられないのは、俺自身でもある。

俺は人身売買が終わるまで、決してあの男たちと関わらないと決めたのだ、と思いこめば、女はそれをわかっていて俺の前に現れてくれた。

だから、俺たちの関係が、俺と町の住人、のみならず俺と女の関係にまで影響を及ぼすとは、考えたこともなかった。

俺は誰かに聞くこともできず、その事実を知ったこの土地の住人が、俺を受け入れてくれるとは、とても考えられない。

俺は人身売買をしていたということを、住人に知られていることからまず受け入れようと思ったが、逆に人びとは、俺が人身売買をしていたということを、あえて知ろうとしないのではないか、あるいは無理にも知ってしまうとすれば、ここでは生きていけないのではないか、とすら思った。それは、俺の思い過ごしではないだろうか。それともこの土地の住民は、俺たちのことを知ることの恐ろしさを、知っているのだろうか。

この先に起こることも、分かっている。きっと、俺がどうなるかは……

「……あ……う」

目を覚ました俺は、その目の前に見たことのない天井を見た。

俺の小屋は二階建てで、窓が無い。家の前は庭で、空はあるが、塀が高いので、空は見にくい。

「あのですね」

俺はいきなりそう声をかけられ、びっくりした。見知らぬ、見知らぬ女性であった。長い髪に、赤い唇。顔は、まるで宝石のようだ。まるで宝石のように輝いて、美しいこの女が、いつも見知らぬ女であることは、俺にはわかっている。

ここは、どこだろうか。

俺は見知らぬ女に身支度をしてもらうこともなく、俺の記憶は、女と一緒に、どこかへ行ってしまったらしい。

もしかすると、よくある魚に似た生き物も、よくある泥に似た生き物も、よくある木の枝に似た生き物、よくある人に似た生き物も、どこにもいなかったのではないか。

そして、なぜ俺はこんなにも、頭がぼんやりするのかが理解できない。

俺は何がしたかったんだろう……

取引にはもう、永遠に間に合わない。

そもそも、あの風が強い、あの砂だらけの場所で、人身売買が可能だとも思わない。

口笛を吹いていた、――一度だってその音色が俺たちの耳に届いたことはなかったが、あの男たちも姿を消した。

戦争が近いのだ。

「……っ!」

俺は急いで、頭を上げると、またもや、頭の中が真っ白になっていた。

「え……あ……」

夢だ。

これは、ただ単に夢じゃない。夢というよりも、俺は今、部屋の窓から外を見ている。窓のない部屋に描かれた窓の夢を見ているだけなのに、外の世界を見ていることが、なんだか自分自身で分かる。

俺が人身売買をしていなければ、もう、自警団につき纏われることもない。

人びとから見張られることもない。

だが、そこからは、違う。俺たちは、人身売買をしていた。俺たちは、人身売買に巻き込まれ、そして、俺たちだけこの世から出られなくなった。

「……………」

今も、そんな疑問が頭から離れない。

いや、その疑問で頭が埋まることは絶対にない。だが、それでも、どこか、頭から離れない。なぜだか分からない。俺は、ここにくるまで、いつも一人だった。

荒野に建てた見張り櫓から見えるのは荒野だけだ。

俺たちの村に家はない。見張り櫓は風に負けて三日とたたずに倒れるが、見飽きた眺望が、変わることはない。

外を見ていただけのはずだったのに、俺は、この世界で人身売買を行うことで、本当に一人きりになっている。

俺の中の感情は、そこから溢れ、窓に映った景色に重なり、そこで全ての感情が溢れ出していた。

「……ぅッ、ぅう……ぅぅ……!」

俺は、震える両手で、俺自身を掴み、どうしてこんな事になってしまったのか……なんて思い、しかし、それでも、不安が押し寄せてきて、それを拭うことができない自分がいた。

今頃、この町は、強風が巻き上げた砂に包まれているだろう。

窓の向こうに広がる、空。

そして、遠くに見える赤い海。

全ては幻だ。

そして、俺は、この世界を見捨てることにした。

「……ぅぅッ、ぁぁッ、ぁぁ……ッ!」

――――俺は、世界を諦めたわけではなかった。ただ、俺には、この世界に生きたかった。それだけは、間違いじゃなかった。

その時、俺の頭が、殴られたように鈍い痛みが走り、頭の中が、真っ白になった。

「……ッ! ッッ!」

体中が砂まみれだった。

「……ごめんなさい。ごめん、……」

俺は、謝った。

「やっと目を覚ました、かな?」

振り返ると、そこにいたのは、昨日俺が取引相手に話した、あの少女だった。

「無事だったのか……」

だが、そんなことを思っているのは、俺だけの話で、しかも、俺はその時、少女に自分の顔を見られているのに気がついた。

「えっと、あなたは?」

その少女に訊くと、俺の問いに答えず、ただ、俺の目の前、町の方角に向かって、手招きをした。何をするのかと、そんな不安を抱いていると、扉を開ける音がした。

「……やっと、会えたよ!」

そう言うと、少女は少し嬉しそうに笑った。

「そう、よかった」

「……なにが?」

「いや、なんでもないよ」

俺は、それだけ言うと

に戻ろうとしたがその時、少女がこちらを見た。

「え? あ、いやさ、君はここに置いといてもらわないといけないからね」

そこで、少女が俺の元に戻ってきた。

「なんか、今日の人身売買って人身売買のこと、聞きたいことがあったんだけどさ。それに、昨日と違う場所にいるし、あたしがこの家に来てなきゃおかしいだろ?」

そう聞いてくる少女の目つきは、少しがっしりしていて、少し怖い。

よくある人に似た生き物である少女は、やっぱり、よくある人に似た生き物が死んでいる場所へ行かなくても、死んでしまうのだろうか。

よくある人に似た生き物は、よくある泥に似た生き物とどこが違うのか。

崩れてもよくある骨に似た何かが残るのが、よくある人に似た生き物の方だろうか。

よくある家に似た俺の小屋のよくある部屋に、よくある砂漠の砂に似た何かが流れ込んできて、風に舞い、床に波紋を描きながら広がって、よくある木の枝に似た生き物の死体のように掠れた音を立てた。

よくある魚に似た生き物は、もう何年も前に絶滅した、と聞いている。

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