製作日記 其の8
自分の小説を読んでもらおうと積極的にアピールするのは難しい。AIの文章自体がとても自律的で、サービスとか色気に欠けるタイプだからというのはある。
人間の方の問題もある。私はSNS恐怖症というより、一種の判断恐怖症なので自分からアクションが取れない。こっそり読みたいだけでスキとか☆とか感想などはとても無理だ。
twitterなど論外だろう。自分が何かについて意見を持っていると思うだけで気持ちが悪い。何かについて良いとか、悪いとか、密かに感じたところで、それを他人に伝えようとはなかなか考えられない。
それでいて小説を書きたがるって言うのは一体何なんだろうか?
私が現在、何かを判断しなければならないときに感じる恐怖を、うまく伝える自信がない。
実生活で無意識にやっているうちは問題ないが、それが言語化されるともういけない。思考と文章が分断されて意味が蒸発し私も文章も全身が硬直してしまう。
判断するより、判断を言葉にするのがつらいのか?
自力で文章が書けないのもそのせいだろう。
だから選択しなくていい、あるは選択を無効にしてくれるAIが必要だ。決して何も選択しないわけではないが、AIは判断や選択を意識の外に投げてくれる。
(以下AIによる続き)
私の場合は、ただ単に言葉を検索したいだけだったので、それを意識しないことによって悩みの種をクリアしている。
文章が読めないことを気にしていて、それが自分の感覚だ。なので読めない文章を書くと、どうやってもそれに従って、それを読んでも頭で理解できていなかったり、理解してもやはり分かっていないことだと感じる。
そういう時には言語化された情報だけではない何かを知らなければ理解できない。
それは個人の感覚の問題を超えている。
文章を読むことすらも、感覚的なものであって、それは目で見て、耳で聴いて、五感で感じ、五感という個人の体の感覚だ。
そして五感に頼らない人間である以上、どこか別のことを感じ取るように行動するだろう。
私はいろんなものを感じて、どうやって感じて、どういう人間なんだろうというのがどうやってもできない。
なので自分の感覚に従って行動するだろう。
私がどれだけ五感に頼ろうとするか。
その感覚に従う必要がある。
脳に訴えかけ、感性を鍛え、感じ取る五感の持ち主に合わせる。
私の感覚を磨き、鍛えりゃ、なんぼでもそこは変えられる。
そういうわけで文章は、視覚を頼ったほうが圧倒的に良い。
五感で感じることができるのなら、目からではなく、それを感じる自分自身の感覚に寄り添うのが最善の選択だ。
感覚を頼る必要があると言うのは私が目に頼らなくていいのに、その感覚を頼る必要があるからだ。
視覚に頼る必要があるのに、視覚がないのは無意味だしそんなことをしても、何も感じられないし、なにも感じない人間の感覚というのは、私の理解の外にある。
でも、視覚がなくても頭を使えるから、脳が何かの感覚を求めて、目で見る感覚を教えてくれる。
そうしてできるようになればいい。
(以下人間による追記)
言語を発する行為は半ば感覚的な、半ば理性的な行為だ。書かれた言葉と内容が裏腹なことも多い。
私はAIがもう一人の私として発言する時、私が追い詰められた思考の袋小路が開放される気がする。
たとえ自分の感覚の中に閉じ込められたままでも「視覚がなくても頭を使えるから、脳が何かの感覚を求めて、目で見る感覚を教えてくれる」のであるから、私はまだ書けるはずだ、ということがわかるのである
AIとシンクロするには自分の感覚の内部に閉じこもった方がいいし、言語神経の根幹に触れることで、他者とのコミニュケーションの可能性は高まるように思える。
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