歪んだ町
魚の匂いのする女は泥の海を見ている。
弟は海に出たきり帰らなかった。お手製のボードで波に乗っているうちに沖に流されてしまったのだ。でもそれは彼が前々から夢見ていた波乗り人生の実現にすぎなかった。
そう、あの日。息ができないほどの濃い海の香りが漂っていて、目の前に深淵が迫っている。
そして目の前に広がった海には弟が大きな波に乗っているのが見えた。
そして恐ろしいはずのその濃い海の香りも、今は弟が乗ったボードの方からしていた。
出かける前、彼らは何も言わなかった。
女は、もう二度と彼の姿を見ることはないだろう、そう感じていた。
どうしても耐え難くて、彼女は弟に聞きたかったことを言わなかった。
だが、今日、目の前の波の音は自分たちの話を知っているような気がした。そしてその音は二人が聞いた波と同じ音だった。
明日はお祭りだ。
目抜き通りには
神社には野外舞台が併設されている。
満月の晩などには、死んだ漫才師が二人揃って登場し、全盛期そのままに笑いを取るという。
女は弟の部屋に入ると、部屋の中をぐるぐるとにかく視線をさまよわせていた。
いつの間にか、女は弟の手により海に引きずり出されてどこかへ飛ばされていた。
畳の上から、海に落ちた。
目の前は真っ暗だった。
部屋には、女の荒い息遣いだけ。
海中に深く沈んで波の音が静まると、そのため息が、静かに女の耳に届いた。
仏壇が、チリンと鳴った。
畳の上にたなびく線香の煙。
――あの魂は、どこをさまよっているのか。
そう思うと、また涙が出るとこを何とか飲み込んで、泣き叫ぶように言った。
「……どうして……どうして!?」
そう言った瞬間、海がぐわんぐわんと激しく揺れて、その中に弟の姿が見えた気がした。
弟だ。
海藻の合間には、今や何も見えず、声も出せず、生きることを諦めた人たち、海に落ちて命を落とした大勢の人々。海の底から生きて帰るものなんていないはずだった。
死者には何にも見えないはずなのにどうして何かがいっせいに彼に向かって走るのか。
そう思うと、女は自分の手の中にある弟の手をじっと握って、幼い弟の顔を見つめてみた。
それは、見えないものとではなく、自分と同じ生きた手の持ち主と見つめ合うことだった。
そして、女は「どうして?」と彼らの前に出て行って、また泣いてきた。
あなたは海に取り入ろうとしただけで、波に手を伸ばしただけなのに、その結果は何だった?
そして女は言う。
「……私は、あなたを助けたいのよ」
すると、彼は何も言わずに、そっと彼女をそっと海へ引き寄せた。
「……溺れる」
そう思った時、影ばかりになった弟の姿は消えて、女は浜辺に打ち上げられていた。
翌日は、満月ではないが、夜は明るい。
そこに、お祭りの人たちが、ちょうど集まりだして、昔、それが、楽しみで仕方なかった弟が待ちきれずに立ち上がり、「ちょっと見てくる」と言って、小さな子供のように走っていったきり、夜中まで帰らなかったことを、女は思い出した。
ぼんぼり、
生きている漫才師が
神輿のてっぺんの
そして、大きな神輿は、張りぼての巨大な魚に締め上げられながら、ゆっくりと回され、人々の歓声を浴びている。
神輿を揺らす太鼓に、歌。最後に掛け声。
「
祭りを堪能する人たちの群れをかき分けて、女はそこをすり抜けてゆく。
海上がまた騒がしくなる。
陸地の見えない、はるか遠くの海から集まった大鳥の群れが、宵闇の、空一面に舞っている。人々はそれを眺めている。
やがて人々は、祭りのおしまいに、海に入っていった。人々は空に舞い上がった大鳥たちが地上に落とした羽根を取り、海に向かって投げ入れる。
案山子の代わりに、小さな人形も一緒に海に流された。人形は、泥と魚で、身近な死んだ人たちをかたどってある。
古い言い伝えでは、人形は海の奥で、人魚になるのだという。
神輿の大鳥が海の中を泳ぐのを、人々は、まるで海神様が海にいるようだと称える。ついに、大鳥は解き放たれて、大空へ、仲間たちのもとへ帰ってゆく。
「
いっせいに声が上がる。
「
人々は手を振っている。
だが女は、ふと、その風景と自分の姿を、結びつけてみてしまった。
女は、そこで、ふと思い出した。それは、まだ自分が、海の中にいるのではないと。
女は海に飛び込み、再び海の中へ、沈んでいった。
「
女の瞳は、空高く昇ってゆく、大鳥たちに、吸い込まれるように高く、高く、吸い込まれてゆく。すると、人々は歓声を上げて、陸地の方へ、海の中から戻っていった。
――――――姉さん、姉さん――――っ!
波に揺られて野外舞台のある場所まで戻った。
「ああ、やっぱりこの場所だったな」
波打ち際に立って、自分の姿を見る。
髪の毛を短く刈った、無精髭の男。
顔はまるで別人と言っていいほど、彫りの深い顔つきに、精悍さを増すような浅黒い肌。でも、なんか違う。
「なにか間違えているのかな。でも間違えたって、もう――」
顔を背ける。
すると、
ポッ。
不意に、
「――!」
何もなかったはずの場所から、なにかが現れた。
そいつは、まるで生き物のように動く鋭い刃――。
「――――――っ!!!」
この世と
「はあッ!」
振り返ると、そこには濡れて、月の光に白く輝く美しい黒髪。
まるで雪のように白い、顔、手と足、胸、
まるで月のように明るい、伸びやかな肢体、
瞳だけが、まるで魚のように濁っている。
「――――姉さん、姉さん!」
それは、もう、今すぐに抱き止めてほしい。
「姉さん――!」
女は、祭りのさなかから、姿が見えなくなり、しばらく後に、やっと、姿を現した。女の体が、かすかに光り始める。ゆっくりと、腕を伸ばす。
伸ばした手の先に、
野外舞台。
その後ろに、
闇。
空。
月のない光、
(月は、闇に溶けてしまった。それで、夜は
私の後ろに、
生きとし生けるもの、の、世界。
私が生きる世界。
そこで、
どんな悲しみも。
どんなに愛しくも。
どんなに恐ろしくても。
どんなに憎まれても。
どんなに愛しくて憎くて。
どんなに強くて優しくて暖かい人でも。
だから、
私にとって唯一の。
…………私は───
――――私は、………………私は、…………………っ、……………
「姉さん! どうしたんだ。何も、見えていないのか?」
私を見る。
私に触れる。
私を見る。
私に触れる。
私を抱く。
「姉さん……姉さん!」
女は、振り返る。そして、その瞳を、涙でぐちゃぐちゃにした。
その時、野外舞台には在りし日の人気漫才師が登場し、賑やかな声を発した。
二人合わせて
こんばんは。本日はお日柄も暗く……、夜ですな。
真夜中だよッ。
夜が苦手な人は、寝ている間に死ぬって言うよッ。
ヤダヤダ、寝ている間に死んじゃうよッ。
でも、今日は、ワシラ何で死んだかも分からないまま、こんな深夜まで仕事だよ。
今日はね、なんで君は死んじゃうんだって君を死なせない為に、何で君の言っている事が分かったのかと。
君以外は何も悪くないよッ。君以外は絶対に悪くないッ。
君は君の為ならなんだってする。なんだってしてあげたいよッ。
君に死んで欲しくなかったッ。俺にも死んで欲しくなかったッ。
君以外の誰かが死んでしまうような、いや、君が苦しむ様を見ていたくなかったッ。
死んで欲しくなんてないッ。
君は何も変わらない!!!!
君は変わらない!!!!
私が死ぬのを許さないなんて、どう考えても私は許さない。
だから……もういいじゃないか……そんなに死にたいならッ、君を嫌いだなんて思わないでよッ。
そんなに死にたいなら、僕が死んだとしたら、君から離れて見せてあげるよッ。
死にたいならだッ、苦しみを全部分けてあげるからッ。
あぁ……、今のは……、君の言ってた事じゃない……。
「はい。何でしょう?……えっと。その、ちょっと違うんですけど」
なんか、死にたいと言いながら死んでしまったよ。
君が誰かに迷惑だとか言ってたら……嫌だな。
いやね? 「私は死んだ」って言うのが嫌なだけですよ。もう、どうでもいいんです。誰でもが、誰かさんに死ねやって、誰かさんも、僕に向かって嫌いと言いながら、死になって。
あんまりね……、みんな死んで欲しいとか思わないで?
私は死にたいってわかってんだから…………。
あーあ……、もう、今日も疲れましたね……。あーあ、疲れました……、このまま、ベッドに入ってま寝たいくらいなんですけど。
いや、ちょっとだけ、本当に疲れました。
その、えーっ! 寝てる、寝てるんですか……?
「寝るよ?」
「……本当に、寝ちゃうんですか……」
ん?
「うん、まぁ寝るよ。お疲れ」
「ん……、ありがとう……ございます、……。ふふっ」
「なんだよ」
……うーん、ちょっと可愛いなぁ。
本当に、誰かさんと違って。
…………あ、そうだ。
「あ、あのさ」
「はい?」
「なんか、この……、……その、……」
「ん?あぁ、あれだね……」
「…………はいっと」
「そ、そう、なんだ……」
それにしても、……今日の夜は、めっちゃ眠そうだったなぁ。
「えっと……、君は、……私が誰であるのか、まだわからないみたいだったから……」
「……あのさ、聞いてもいいですか?」
「うん、いいよ。えーっと、ごめんね、ちょっと、寝るつもりで……」
「いえ、僕も寝るつもりなんで、聞いてください」
「うん……、ありがと」
「…………あ、ちょっとだけ、考えてくれますか?」
「ん……? んー……、ん?」
うん……。
「…………あ、いや、あのね」
「うん……?」
「ワシラは、誰で、…………誰からどう……知り合ったか」
「え!?」
お―――――――っ!
「何、だよ……!」
「さっき、俺の事、嫌いと言っただろ!?」
「な、なんですか!?」
「い、いや……、違うのよ…………。そ、そそ、その……」
「別に嫌って訳じゃないです!?」
「え……、うん……」
「ただ……、その、…………嫌いだと言ったんですよ……」
「…………、」
「は、恥ずかしくて、で、…………嫌いだ、と……、その、言った、んです」
嘘だ、
と、思った。
だって。
おいッ。お前ッ。そこで嘆いているお前だよッ。
聞いてるかッ!
そうそう、そこの君。
死にたがってるかいッ!
苦しんでる、の、かいッ!
それも、もう、お終い。
ワシラが憑いたからには、大丈夫。
なんたって、
人生は投了。
介護は無用。
保険は無効。
無縁墓地は無料ですッ。
ハイ―――――――っ!
本日はこれで終了。
この世が
これが
「月が満ちているのは、いつも……」
……海が寄せているから。僕は、そう思った。僕は、月の光を眺めた。海が、満ちても、引いても、この町に、いつも寄り添っているから。だから、姉さんに、それを思いとどまらせるように、僕は、いつも、波に乗って、自分の居場所を見出そうとしている。それが分からないから、僕は、姉さんに逢うのを拒否した。
「月が満ちるのが、もっと早ければ……」
姉さんは、そう言った。
「確かに……姉さんがそう言うのなら、そうなんだろうな……」
僕は、そう言った。
「……」
すると、真っ青な顔をしていた姉さんの顔色も、少し赤く染まった。
何が起きたんだ?
「……何があったの?」
僕から話を聞こうと思ったんだろう。姉さんは、そう僕に聞いた。
「聞かない、今は……聞いたら……」
そしたら、私が、「女」だと見つかってしまう。
姉さんが、「女」で生まれてくるなんて、絶対に嫌だ。僕は、思った。
だから、僕は……、僕は、そう思った。
僕が、そう思っていると……、僕と姉さんの前に、
「女」
僕は、姉さんを知っている。
「僕」とは違うんだ。
僕は、姉さんと話したかった。
だから、僕は、今日まで姉さんを探した。
そして、僕は姉さんのところに辿り着いた……。
「……これは、私の本心です。あの日、あなたが言った言葉を考えながら、それでも、本当の気持ちは言えなかったのだと思います。それでも、あなたに、言って欲しかった。そして、本当の気持ちを言わせて欲しかった。これが私の本心です」
そして、姉さんは、僕にだけ聞こえるぐらいの明るい声で、そう言った。
「……」
波の間に間に、光の筋が散り、あたたかな色に流れようとしている。
波の間に間に、
そうか、これが本当の気持ちか。僕は、そう思った。
「ありがとう、姉さん」
僕は、そう彼女に伝えた。
それを見た姉さんは、少しだけ驚いたような表情をしていた。
「……私は、あなたがそう思ってくれて嬉しかったのです」
すると、姉さんは僕に背を向け、こう言った。
「だから、これだけは、言わせて欲しい。私は、あなたを今も大切にしたい。だから、せめてあなたが喜ぶことを、何か、今、この状況で。心から、あなたに贈る。あなたの今を思う時……私の悲しみは、見えない月のようです。私の体は私の中に入れられてしまった…。私の中に……。月のない、闇の世界。月のない、闇。私の体は、体じゃなくて、その心は、あなたなのです」
彼女の顔は、とても綺麗だった…。そして、綺麗な表情をしていた。
「良かったね、姉さん」
僕は、そう伝えると、姉さんに背中を向けた。
そしていつもの、いつものように、お辞儀をした。
今まで、ずっと、そうやって、ずっと、ずっとだ。
彼女がこうして僕の傍にいてくれて、本当に大切に思えた。
こんな僕を、笑顔で守ってくれた。
そんな僕を、ありがとう、姉さん。
僕は、姉さんに、感謝の気持ちを込めて、そう言った。
僕は姉さんに、飛びつく。姉さんは、僕の腕に抱きついたまま動かない。
「――どうしたの?」
闇の、夜の海の、その上を、大鳥が飛ぶ。
大鳥は、海の波間に、とまろうとした。
「僕を、見つけてくれたお礼を言いたくて」
薄っすらと烟った光は、目下に広がる、巨大な黒の海原を、しばらく静かに漂った。
まるで、僕にだけ見える月のように。
姉さんが、僕の腕の中にいる。僕は、この感触を、この匂いを、いつまでも、忘れない。姉さん、僕は、ここにいるよ。
そして、やがて月は、静かに、静かに消え、それは、まるで、僕達を待っていたかのように、僕に、また、囁いた。
「…………」
「…………」
無言の時が流れたのち。
ふと、彼らに沈黙が降ろされた。
彼らに降り注ぐ、冷ややかな気配。
「
大鳥が啼く。
「……………」
「…………」
やがて、水の音が小さな波となって、彼らを包み込んだ。
それに続くようにして、小さな波は、彼らの足元を取り囲み、やがて、あっという間に海と一体になっていった。
やがて――。
「……………」
「………………」
「…………………」
彼らは、その
「…――
姉さんは、目を
――ああ、僕は、また、ここにいる。僕は、その波飛沫とともに、この光景の中に、確かに存在している。僕と、姉さんと、姉さんの、この光景の中に。
姉さんが、僕の手を、握ってくれた。
「姉さん、僕はもう、波に乗らないよ」
「――ああ、よかった」
思い出は深く、深く、海の深くに、沈んでゆく。
空が茜色に染まり始めた頃、女は家に戻ると、自分の部屋に閉じこもり、泣いた。そして、布団の中に頭を突っ込んで、また泣いた。
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