第255話 大人げないな
サッカー、いや他のスポーツと陸上100mでは、走り方が根本的に違う。
世界クラスで約10秒前後、しかしそのたった10秒間の中にとてつもない技術が隠れている。
一番の違いはスタートだ。
スターティングブロックは全て自分でセッティングする。
故障でも無い限り、セッティングミスは自己責任になってしまう。
そしてピストルによるスタート、これも他の走るスポーツと全く違う点だ。
例えば野球の盗塁、相手投手の癖等を盗み自らタイミングを合わせて走り始める。
しかし、陸上のスタートは完全に他人任せだ。
審判の癖を盗みタイミングを合わせてスタートを切ろうと試みる選手も以前はいたが、音が鳴ってから0.1秒未満のスタートはフライングになってしまう。
鳴ったと同時では駄目なのだ。これは音を聞いてから反応出来るスピードが0.1秒以上掛かるとされており、一か八かでの勝負出来ない様に設定されている。
しかも現在フライングは一発退場、一度やっただけで失格となってしまう為に、それはあまりにリスクが大きすぎる。
スタート練習は、どんな選手でもかなりの頻度で行う。
それだけ技術が伴うと同時にスタートでの遅れは致命的と言っても良いくらい重要なのだ。
そしてスタートが上手く行っても、文字通りそこから始まる。
延々とも思える10秒間、一歩一歩に神経を使う。
数ミリ単位の足運び、腕降り、完璧なフォームを目指す。
100mは全力で走っていると思われているが、本当の意味での全力はその中で数パーセント、数秒間しか使えない。
100mは無酸素運動だからだ。
良くそう言われているが、実際無酸素運動とはどういう事なのか?
まず大前提として、筋肉を動かすには糖分と酸素が必須だ。
長距離では吸った酸素を血液に取り込み筋肉を動かす事に使われるが、短距離では時間が短すぎて肺から取り入れた酸素を血液に流す前に走り終えてしまう為に、供給が追い付かないのだ。
故に、筋肉に蓄積している物で補わなければならない。
難しい言葉で言うと、ATP(アデノシン三リン酸)という物質を供給する為に、クレアチンリン酸という筋肉に貯蔵してある物質を分解し供給されるのだが、これは本当に短時間、数秒間で失われてしまう。
つまり100mを全力で走れる人間は存在しない。
だからどこで自分の全力を使うのが良いのか? という問題が生じる。
俺の場合骨格体重から考えて早い段階でスピードに乗せた方が有利となる。
軽いので早くトップスピードに乗せられる。
低い体制から得意のスタートにあわせて一気に加速して後続を引き離す。
足の回転速度を上げ、転ぶ寸前まで身体を前傾させ自分の体重も利用するのだ。
世界で誰も出来ない……それが俺の走りとなる。
ずっと考えていた……自分の理想の走りを。
怪我をし走れなくなっても、何度も夢に出てきた。
片足でのトレーニング、そして走り幅跳び、その全てが今の走りに繋がっている。
そんな俺に、それだけの技術を持った俺に……陸上選手でも無い奴が勝負を挑んで来たのだ。
サッカーの有名選手か知らないが、相手になる筈もない。
そうでなければこの先……なんてあり得ない。
俺はトレーニングウェアに着替えると部室を出た。
さっきの男は既にウォーミングアップを開始している。
サッカーのユニフォーム姿、やはり有名人なのだろう、後から来た1年生の女子達が羨望の眼差しで彼の動きを追っていた。
俺はそいつの身体をじっと見つめる。
太い足、特にふくらはぎの筋肉が異常に太い。
盛り上がった肩、大きく膨らむ胸板。
その姿に残念な気持ちになる。
「勿体ない」
俺はそうポツリと呟いた。
さっきも言った様に、大きな筋肉はクレアチリン酸の貯蔵に対して非常に有効だ。
しかしだからと言ってむやみやたらに筋肉を大きくすれば良いって物じゃない。
それならば、ボディービルダーが世界で一番速く走れてしまう。
無駄な肉は重りになってしまう。
坂道なら体重が重い方が有利になるが、平地や上りではただの重りだ。
出力とのバランスが非常に大事になる。
節制節制の毎日、脂肪が殆どついていない身体を作り上げる。
そして練習練習の日々。
陸上のトレーニング、いや、アスリート全般のトレーニングは、楽しい事なんて……1日も無いのだ。
キャーキャーと騒ぐ女子を横目に、俺もウォーミングアップに入る。
ウォーミングアップしながらも俺はそいつを見続ける。
走りは綺麗だ。
やはりボールを扱う為か頭が全く動かない。
タックルされる為か重心は低く、膝も伸びきらない。
普段ランニングしていると、すれ違う相手がなんとなく何のスポーツをやっているかわかる。
それぞれ癖があるのだ。
そしてその癖は他のスポーツをするとマイナス要素になってしまう。
最近流行りの二刀流、普通の野球選手の野手が、ピッチャーをやると立ち投げになってしまい直ぐに投手では無いって事がわかるのと同じだ。
守備では素早く遠くに強く投げる必要がある為に立ち投げは必要事項だが、一球一球投げ込むピッチャーとしてそれは駄目な投げ方となってしまう。
陸上でも同じだ。
どんな競技でも足の速い奴はいるが、その誰もが陸上競技場で走れば、実力差が出ざるを得ない。
俺は少し大人げなかったのかも知れないと後悔しながらそれ以上そいつを見ずにウォーミングアップを続けた。
そして異種対決が始まる。
サッカーのユニフォームを来たそいつと、陸上のユニフォームを来た俺と二人並んでフィールドに立つ。
タイム測定の準備はしていない、今回は記録勝負では無いからだ。
「いよいよお前をた倒す時間が来たぜ」
一々芝居がかったセリフを吐くそいつ……ただ今の俺は相手を見ずにゴールを見続ける。
100mのスタートラインに立つ、とどんな時でもスイッチが入る。
競走馬が本馬場に入った時と同じだ。
相手が誰であろうと、自分の調子がどんな状態だろうと、俺は全力を出す。
いや、出さなければならない。
一回でも転んだら、俺は引退するって決めているから。
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