第241話 メフィストフェレス

 

 タイミングを失ったまま、合宿は佳境に入ってしまった。


 宮園先輩は殆んど練習せずに全員のコーチに徹していた。

 そして勿論一人で全員なんて無理、だから私が必死にフォローする。



 私は宮園先輩の指示でタイムを計測したり、記録を付けたり、ビデオ撮影したり等々、様々の仕事をこなす。

 夜のミーティングでは書記を務め、先輩の言葉をホワイトボードに書いていく。

 そして一人その場に残り自分の書いた文字を全てノートに書き写し翌日の用意と全員の練習内容を把握し自分の動きを仕事を予習する。


 はっきりいって激務だった。

 同時にいくつもの事を、こなさなければいけない。


 私は毎日毎日グラウンドを駆けずり回った。


 練習よりもキツかった、でも、物凄く勉強になった。



 陸上を始めてからずっと、努力していた。

 でも記録は平凡、何をやってもタイムや記録は頭打ち、選考会には漏れ、後輩には追い抜かれ、そんな自分の才能の無さを呪った。


 平凡平均普通……只野如子(ただのゆきこ)、読み方変えれば(ただのじょし)

 そんな平凡な、普通な自分にやる気を失って行った。


 惰性だけ、憧れの先輩に合いたいだけ。


 どうせダメだから、最後に憧れの宮園翔に直接会ってみたい。


 それだけの理由で陸上部に入った。



 ただ、それは誤りだった。

 私の努力は自分の中だけの事だと、この合宿で知った。


 はっきりいって……自分の努力は努力じゃなかった。


 ここにいる人達は、一見綺麗でスマートで、才能だけで記録を伸ばして行ったと……私はそう思っていた。


 だって……特に部長は綺麗で清楚で頭も良く優しい、しかも生徒会長で皆から慕われて……別世界の人、才能溢れる人だってそう思っていた。


 でもそれは、間違っていた。


 恐らく普段は見せていない……恐らくいつも隠れて努力しているのだろう。


 しかし、1日中一緒にいる為に合宿では隠れられない。


 いや、隠すなんてそんな余裕さえ無いだろう。


 その練習は、はっきり言って想像を絶した。


 涙を流し、汗を流し、時には転び血を流し、時には倒れ嘔吐する。

 それでも……ボロボロにドロドロになっても練習を続ける。


 宮園先輩のアドバイスに、言葉に必死に食らいつき、時には意見を言う。

 しかし先輩にことごとく撃破されてしまう。

 頭の良い先輩がまるで子供扱いだ。



 全員だらだらしてる所なんて一瞬も無い。


 ここに来ていない人達の普段の練習とは雲泥の差だ。


 限られた時間、どれだけ追い込めるか……そんなトレーニングだった。



 そして宮園先輩は……鬼だった。


 ううん、違う……悪魔かも知れない。


 先輩はアドバイスこそするが、怒鳴る事も怒る事も貶す事も無い。

 ただそれは優しいわけでは無い。


 人間ずっと集中なんて出来ない、

 疲れもあるだろう、体調だって良くない日もある。


 でも先輩はその人にやる気を感じられないと判断すると、途端に覚めた目になり興味を無くす。


「じゃあ続けて」

 それだけ言うと別の人の所に行ってしまう。


 まるでテレビで見たホストクラブの人のように、お金がなければ一人で飲んでろと言わんばかりの態度だ。


『俺に貢げ、やる気を貢げ、死ぬ気で働いて(練習して)俺に貢げ』

 そう言っているかのようだった。


 普段のおっとりして、臆病で卑屈な所は微塵も感じない。


 いや、ホストなんて生ぬるい、まるで悪魔だ。

 先輩のその姿はゲーテのファウストに出てくる悪魔メフィストのようだった。


 お前の死後の魂(全てのやる気)と引き換えに、全ての快楽を悲哀をお前の望みを(全国へのキップを、全国上位の成績を)くれてやろう。


 そう言っているかのようだった。


 そして、それは勿論強制では無い。


 皆わかっているのだ、魂と引き換えだという事を。



 そんな先輩の姿に、私は戸惑っている。


 7種競技をやりたいだなんて……。


 そんな事を言ってしまったら、それこそ『死後に』では無い。


 直ぐに魂を捧げろと、言われるに違いない。


 あんな綺麗な人達が泥まみれ、汗まみれでボロボロになって練習をしている。

 私だったら……どうなってしまうのだろうか……ボロ屑のように練習している自分の姿を想像する。



 そう思ったら、そう想像したら……胸がドキドキしてしまった。


 違う! マゾなんかじゃない!


 だって、だってだって、皆……綺麗なんだもん、美しいんだもん。

 普段のスマートな姿より何倍も何百倍も美しいんだもん。


 格好いいんだもん。


 それが羨ましくて恨めしかった。


 これが宮園先輩の力なんだ……ってそう思った。


 恋愛とかどうでもいい、そうだよね、こんな姿……好きな人に見せられないよね……。


 ううん、違う……逆だ……好きだから、本当に好きだから見せられるのか。


 自分の美しい姿を、一番美しい姿を見せられるのだ。


 大好きだから……大好きな人に一番の姿を見せられる。


 だから私は羨ましいって思ったんだ。


 恨めしいって思ったんだ。


 狡いって……皆狡いって……そう思ったんだ。


 私も見せたい……自分の本当の姿を、それがたとえ魂と引き換えだとしても。



 今夜話そう……いつもの場所で、先輩が練習しているあの公園で。

 笑われるかも知れない、止められるかも知れない。


 でも、話してみよう。


 自分の気持ちを、自分のやる気を……魂と引き換えに。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る