第232話 すれ違い


 「しばらく距離を置こう」

 円のその言葉に全身が痺れるような感覚に襲われる。


 こんな事……今まで言われた事は無い。

 説教のように俺を諭す事はあるけれど、こんな突き放すような言葉を円は今まで一度も言った事は無かった。


 悪い冗談かと円を見直すも、その大きな目は、瞳は真剣そのものだった。


 その視線に足元がふらつく、治っている筈の足の感覚が再び無くなるかのように。


 そして円が本気だとわかったその瞬間、俺の中で沸々と怒りが込み上げる。

 なんで今なの? 何でこのタイミングなんだ?


 やっぱり……あいつか、橋元か? あいつの方が良いのか? 俺よりも橋元を選ぶのか?

 

 俺を……見捨てるのか?


 嫌だ……そんなの嫌だ! と、そう言えば、そう懇願すれば円は考え直すかも知れない。


 いや、ひょっとして円は俺を試しているのかも知れない。

 

 言え、嫌だって、一旦話し合おうって……。


 しかし、その一言は言えない。

 それはあいつに対して敗北したも同然だから。

 まだ俺は終わっていない、また戦ってもいない。


「…………そ、そうだね、それがいいかも知れない」

 俺は惨めにも少しだけ考え、そして、諦めたようにそう言って円の提案を受け入れた。



「ちょ、ちょっと待って、翔くん? 白浜さん?」

 その俺の言葉に一番驚いたのは会長だった。

 俺の後ろにいた会長は慌てて俺たちの間に割って入る。


「……居たんですか? 会長」

 円は底意地悪く、会長に向かってそう言い放つ。


「ちょっと待って、違うの私たちは今から只野さんとの誤解を解きに」


「本当に誤解なんですかね?」

 円は会長から俺に視線を移すと、俺を睨みながら会長に向かって被せるようにそう言う。


「……そ、それはこれからちゃんと確認を」


「まあ、仮にそうだとして、翔くんは皆にちやほやして貰いたかったんじゃないんですか?」


「ま、円……?」

 

「だってほら、こうして会長さんと一緒にいられるし、他の部員に注目されるし、それに悪名は有名って言葉の通り学校内でも再び注目されるし」

 

 その言葉に俺は円に裏切られたような気持ちになる。

 

「そ、その最たるものが円、お前と一緒にいる事なんじゃ……」

 俺がそう言うと円は凄惨な顔でニヤリと笑った。


「わかってるじゃない……って事で、あとは宜しくお願いします……か、い、ち、ょ、う……さん」

 円はもう興味ないとばかりに俺の横を通り過ぎ、会長に近付きそう言った。


「……円さん……それって……」


「えっと私……これから忙しくなるんです、神戸に行かないといけないので、だから……翔君を……お願い致します」


「円さん、あなた……そ、そう……わかった」

 俺の後ろで二人がごそごそと話している。

 しかし俺はもう円を見る事が出来なかった。


 これ以上見ると………俺は……。


◈◈◈


「……だ、大丈夫」 

 暫くすると会長は俺にそう声を掛けてくる。

 俺はようやく振り向くとそこには既に円の姿は無かった。


「だ、大丈夫ですよ……」


「そ、そう……そうよね、別に別れたわけじゃないんだし」


「まあ、距離を置こうは、別れる前の常套句ですけどね」


「そ、そうなの?」


「……多分」

 俺も会長も恋愛経験が乏しいのでこんな曖昧な返事しか出来なかった。

 体育会系あるある……。


「じゃ、じゃあ……これってチャンスなのかな?」

 会長は馴れ馴れしく俺の首に手を回し男友達のように絡みながらそう言った。


 会長の髪が俺の顔にかかり、円とは違う少し汗の混ざった甘い香りが俺を包み込む。

 まるでアロマのようにその匂いで俺の中の怒りが不安が少しずつ和らぐ、


「……す、すみません」

 俺は気を使って貰っているのを実感して会長に謝る。


「な、何よ素直ねえ、そこは暑苦しいじゃないの?」

 確かにまだ昼過ぎ、真上に登った太陽は校舎の日陰を作る事なく燦々と照りつけている。

 ジットリと会長の腕が汗で濡れており、俺の首筋の汗と混じりあう。

 ふと……宮古島の夜の生々しい円の感触が頭に浮かぶ。


 俺はその感触を振り払うように言った。

「……じゃあ……汗臭いっす」


 俺がそう言うと会長は慌てて俺の首から手を外しそのまま3歩後ろに下がる。

 そして、自分の腕をくんくんと嗅ぐと真っ赤な顔で俺を睨みつける。


「し、仕方ないでしょ! シャワー浴びる暇なかったんだから!!」


「……ふふ」


「なにがおかしいのよ!」


「いえ……あれだけ設備が整ってるのにシャワールームがないってのがちょっとおかしくて」

 俺はそう言って笑った理由を誤魔化した。

 本当は会長の仕草があまりに可愛かったから。

 そして、円と離れた事により今まで浮かれていた自分の気持ちがあからさまになった事に。

 俺が陸上以外で夢中になるなんて。


 

「一応シャワー取り付けの申請はだしてるけど……」

 会長は今の陸上部ではいくら会長でもそんな予算が通る筈ないという言葉を飲み込んだのはすぐにわかった。

 このままでは、野球部の活躍でごっそり予算を削られる。

 このままでは、競技場も……陸上部で使えなくなるかも。


 「とりあえず、行きましょか」

 俺は会長に向かってそう言った。


 「そうね」

 


 「色々すみません」

 只野さんの事、円の事、その他色々含めて俺は会長に頭を下げる。


 「いいのよ」

 会長はそう言うと女神のように、俺に微笑んだ。

 気を使っているのか、いつも以上に笑顔で俺に優しく対応してくれている。


 俺は頷くと荷物を背負い歩き出す。

 

 円と離れ一人で、陸上は一人でやる物だから。

 


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