第201話 それはそれとして


 今は、とりあえず今は、この暖かい感触に浸っていよう。

 俺は円に包まれ、柔らかな感触に浸っていると、円は俺を強く抱きしめた。


 強く……強く…………、あれ? ちょっと強くね?


 円の胸に顔を埋め、その柔らかさと甘い香りに天国かと思えた時間はあっけなく過ぎ去る。

 円のある意味とてつもない包容力に俺は今までも何度か戸惑って来た。しかし今のこの力強さは包容力を誇示しているわけじゃなく、完全に俺の頭を割りに来ている。


「えっと……円さん、痛いんですけど……」

 円の胸は決して大きくは無いが、アスリートとは……特に会長とは違い、それなりに脂肪を蓄えかなりの柔らかさを感じ取れるのだが、それがかえって俺の頭をギリギリと締め付けることになる。

 拳で直接叩かれるのと、ボクシングのグローブで叩かれるのの違いと言えばわかるだろうか?


 円の胸と腕がギリギリと万力のように俺の頭を圧迫していく。


「ま、円さん?」


「なーーに?」

俺の問いかけに優しく返事を返すが、腕の力はどんどん増して行く。


 ある意味ても女性とは思えないその力強さに俺は「ぐ、ぐええ」と呻くも円は力を弱めることは無い。


「あ、あのですね、な、何を……されているんでしょうか?」

 まだ痛みには耐えられるがあまりのことに俺は思わず敬語でそう聞いてしまう。


「えーー? うんとねえ、加圧トレーニング?」


「いや、あの加圧は頭にはしないと……」

 円の胸のおかげで苦しいがまだそこまで痛くはない、だがその苦しさは限界に近い。

 天国から地獄に、そしてまた再び天国に行きそうになったその時、円の腕の力が弛んだ。


 その瞬間俺の肺に新鮮な空気が入ってくる。

 まるで100mを走った後のような、いや、昔走った400m走の直後のような、酸欠の苦しみから解放された快感が俺を襲う。


 ああ……生きるって素晴らしい。

 北海道の時の俺はバカだったなと心の底からそう思わされる。


 円さんありがとう……。


 そう思ったが、円は俺の手首を両手で掴むと、そのまま俺の腕を自らの太ももで俺をソファーに押し倒しながら腕を挟み肘を逆方向に曲げてくる。

 飛び付き腕がらみ? いや、これは腕ひし逆十字固め?


 ちなみに円は制服姿、一瞬円の下着がチラリと見えたが直ぐにそんなことは気にならなくなる。

 

 なぜなら、さっきと違い今度は俺の肘に激痛が走ったから。


「い! 痛い、いたたた」


「そっかー」


「いや、円さん痛い、ギブ、ギブ」


「そっかー」


「いや、まじでギブ、ギブアップ!」


「まだまだ頑張れ」


「いや、無理! お、折れる! な、何を急に?!」


「えーー? えっとね加圧トレーニング?」


「ち、違う違う、そうじゃない」

 加圧されて無い!


「そうなの? じゃあもっと絞めないと」

 円はそう言うと俺の腕を太ももで強く絞めさらに腕に力をかける。

 完全にきめにかかっている。


「ぎ、ぎぎぎ」

 あまりの痛さに声が出ない……一見バカップルがじゃれあっているかのような光景に見えるが、マジて痛いから、めちゃくちゃきまってるから!


「あはははははは」

 そんな俺を見て円は笑った。痛がってる俺を見て笑うなんて、サイコパスかよ?!

 ひょっとして俺はとんでもない人と付き合ってしまったのかもしれない。


「ご、ご、ごめんなさーーい」

 俺は最後の力を振り絞り大声で円に向かってそう言った。

 心の底から……。



「はあ、はあ、お、折れるかと思った……」

 痛みが和らぎようやく落ち着いてくる。

 円は乱れた服と髪を直し俺の目の前で何事も無かったように俺の反対側でコーヒーを飲んでいた。

 俺は恨むように円を見つめゆっくりとソファーに座り直す。


「大丈夫、折れるまでは力は入れてないか」

 

「な、なにが大丈夫かわかんないよ!」


「まあ、さっき置いといた物を回収しただけ」


「ぐふっ」


「あーーんは……駄目だよね?」

 コーヒーカップ越しに俺をジロリと睨む。


「はい、すみません……」

 それにしてもやりすぎじゃないか……とは言えない。

 しかし円は俺の心を読んだかのように、そしてこの先起こる事を見てきたかのように言った。


「まあ、これで済めばやすいものよ」


「え? それってどういう……」


「まあ、考えすぎかもしれないけど……只野さんの表情がね……」


「表情?」


「まるで……浮気がバレたような顔してたから」


「え?」


「ああ、そんなことより、今日翔君が只野さんとカラオケに入って行ったのを見た人がいるんだけど?」


「え?」


「まあ、それも含めてね……今後色々ありそうだなあ」

 円はそう言うと深くため息をつき、冷めたコーヒーをぐいっと飲みほした。

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