第181話 全力スタートダッシュ……そして……


 いよいよ翔君が走る。全力で……。

 結局練習では100mを最後まで走る姿は見れなかった。


 でも翔君は心配するなって……そう言っていた。


 その言葉を聞いて、私は期待以上に不安とそして恐怖を感じていた。


 翔君の完全復帰……それが私の本来の目標だった筈なのに。


 私は私が奪ってしまった物を返したいって、初めはそう思っていた。


 返せる物は自分自身、翔君の人生を奪ってしまったのだから私の人生を対価として返すって……そう思っていた。


 でもそれは自惚れだった。そして、それは私にとって都合の良いものに過ぎなかった。


 翔君は多分……私を必要としていない。


 だからもしも、ここで翔君が復活したとしたら、目標を達成してしまったら……もう私と翔君を繋ぐ物はなくなる。


 翔君は私の元から飛び立ってしまう。


 そしてその考えが、思いがさらに加速する出来事があった。


 会長と翔君の関係だ。


 一度は私から会長に鞍替えしようとした。

 でもあの時のそれは、私を思っての事……多分……。


 でも……あの秘密の練習の日から、何かおかしい。

 翔君の様子も、会長の様子も、そしてついでに新入生の只野さんの様子も何かどこかおかしい。


 会長はどこか悔しそうな、どこか悲しそうな、そしてどこか嬉しそうな……そんな複雑な表情をしている。

 只野さんは何故か頬を赤らめ、私と目を合わさないようにしている。


 一体あの日に何があったのだろうか?


 結局私は今日までそれを聞けなかった。

 怖かったから、はっきりさせてしまう事が……。


 そしてそれは今日わかってしまう。

 翔君が走り終えれば……恐らくは……。


 ウォーミングアップする翔君を私は遠巻きに見ている。

 

 昔の歌にあったな……走る貴方を見つめているって……そんな歌詞が。


 初恋……そう私の……初恋の人。はじめて会った時からずっと好きだった人。


 気が付いたのは最近だけど、ずっと秘めていたこの思い。


 もう隠す事は出来ない……誰にも……。


 


 そしていよいよ100mの記録会が始まる。

 記録会なので予選や決勝は無い。一発勝負だ。


 もうすぐ彼の出番がやってくる。

 彼の目標は多分10秒6……。


 でも、もしも達成してしまったら……その時は……。



 私はゴール近くのスタンドから彼を見つめる。

 

 彼の登場に周囲がざわめく、しかし私の耳には何も入って来ない。

 今日はマネージャーの仕事も休ませて貰った。


 何も手につかないから、何も考えられないから。


 彼の事以外は何も……。



 100m先に彼がいる。

 小学生の頃と何も変わらないかのように、自信に満ちた表情でこっちを、ゴールを見つめている。


 私は祈った。手を合わせて、祈った。


 無事に走りきってくれる事を、ただそれだけを祈った。


 

 彼がゆっくりとスタートラインに着く。

 手と足を何度かブルブルと振りゆっくりとしゃがむ。


 昔と変わらないルーチン。


 そしてスターティングブロックの後ろに左足をセットし、続けて右足を前にセットし、手の位置をスタートラインに置く。


 そしてもう一度こっちを、ゴールをじっと見つめ彼はニヤリと笑った。


 嬉しそうに、楽しそうに……。


 スターターが全員スタートラインに揃ったのを確認すると、ゆっくりと手を上げる。

 それと同時に彼は顔を伏せ腰を上げる。


「パン!」という乾いた音と共に8人のランナーが一斉に飛び出した。


「いけ!」

 私のその声と同時に彼は一気に前に出た。


 物凄いスタートダッシュで周囲をみるみると離して行く。


 同時に歓声が上がった。聞き覚えのある声、多分灯ちゃんだろうか?


 ゴール間近から見ていてもわかるぐらいの完璧なスタート、そしてとんでもない加速力。


 30m付近で周囲の選手を置き去りにする。


 とんでもないダッシュ力……。

 小学生の頃の彼の走りとは真逆だった。

 後半追い上げるのが彼のセオリーだった。

 

「か、翔君」

 私はスタンドから身を乗り出し彼を見つめる。


 このまま行けば、もしかしたらとんでもない記録がってそう思った直後、彼に異変が起きた。


 50m付近で彼はバランスを失った。


 細かく左右に身体がぶれる。

 隣のラインを越えそうになるのを堪えて走っているような、そんな走りになる。


 足の、右足の感覚があまり無い……彼のそんな言葉を思い出す。


 骨も腱も繋がるが神経だけは……後からは繋がらない。

 人間というのはそういう物だ。と、キサラの言葉を思い出す。


 100mは単純に見えて、実は繊細だって翔君は言っていた。

 平均台の上を全力で走るのと同じ感覚だって、そう言っていた。


 つまりはそうなのだろう、つまり……彼の足は完全には治っていない。

 100mを走るのにはやはり耐えられない。


 30mで築いたリードは一気になくなる。


 ゴール手前で彼は全員に抜かれてしまう。


 そして翔君は、よろよろとよろけながら……ゴールラインを越えた。


 記録は聞くまでもないだろう……それよりも最後まで転ばずに走れた事を喜ぶべき。


 でも、でも……。

 私はその場に塞ぎ混む、そして両手で顔を覆った。

 涙が止まらなかったから。


 悲しかった。苦しかった。辛かった。そして、安堵した。

 この安堵した事に、涙が止まらなくなった。


 こんな事を思ってしまう自分が情けない。

 彼の復活を期待しているなんて、心からそう思えなかった事に私は泣いた……人目も憚らずにずっと泣き続けた。


 翔君翔君翔君……翔……。


「……さん、白浜さん……円さん、円!」

 どれくらいの時間が経ったか、私を呼ぶ声が聞こえる。


 私はゆっくりと顔を上げると、そこには会長が立っていた。


「円さん、こんな所にいた」


「え?」


「来なさい」


「ど、どこへ」


「良いから早く!」

 会長に腕を捕まれ無理やり立たされると、ずるずると引っ張られる。


「か、会長? 私は今日は休みで」


「知ってるわよ部長なんだから」


「じゃ、じゃあどこへ」

 周囲を気にする事なくずるずると引き摺るように会長は私を引っ張って行く。

 そしてそのまま正面スタンドの真ん中付近に私を連れてくる。


 そこには、只野さんが不安そうに立っていた。


「た、只野さん?」


 私がそう声を掛けると只野さんは1度私を見ると再び目線を正面に戻した。


 一瞬無視されたのかと思いつつ、只野の視線を追うと、そこには……翔君の姿が。


「え?!」

 私はその姿に、その場所に驚愕した。



 


 


 



 

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