第173話 解呪が始まる
早朝5時、俺はいつものトレーニングウェアに着替えると、妹を起こさないようにそっと家を出た。
外に出るとまだ少し肌寒い。
俺は家の前で何度か屈伸をし、そしてゆっくりと歩き出した。
膝の状態はかなり良い……しかし未だに足先の感覚は完全には戻ってはいない。
なので一歩一歩確実に、そして慎重に歩を進めなくてはならない。
それでも杖を使わずに歩ける事に、俺は感動し、感謝した。
いよいよだ。今までは序章に過ぎない。
今日から本当に始まる。
どこまで行けるだろうかと……俺の中で不安と期待が入り交じる。
俺は少しずつ歩くペースをあげる。
太ももを振り上げ膝から下を振りだす。
踵で着地しそのまま体重移動、同時に逆足の太ももを振り上げ同じく膝下を前に振り出す。
これだけ時代が進んでいるにも関わらず、ロボットの二足での自立歩行は未だに人間には及ばない。
転ばないようにバランスを取りつつ足を振り出し体重移動しながら前に進むという複雑な処理。
通常ならば当たり前に出来る行為なのだが、怪我や障害、加齢等で出来なくなると、この歩くという複雑な行為が身に染みて理解出来る。
そして歩くと走るは違う、陸上ではそこにルールがある。
陸上競技には、競歩という種目がある。
文字通り歩く事を競う競技だ。
歩くと言っても普通に歩くとはわけが違う。
20キロ競歩の世界記録は1時間16分、フルマラソンに換算すると3時間を大幅に切ってくる計算になる。
歩くのだから勿論走ってはいけない。
当たり前の事を言っているようだがでは改めて走ると歩くの違いは何かと聞くと答えられる人は少ない。
しかし競歩は歩く競技、走ってはいけないのだ……つまり走るのと歩くのでは厳密に違いがある。
競歩ではそれを区分けする為の二つの反則がある。
一つは『ロス・オブ・コンタクト』歩いている最中どちらかの足が必ず地面に着いていなければならない。
つまり走るという事は身体が一瞬空中に浮いている瞬間があるということだ。
そして二つ目『ベント・ニー』前方にある足が着地した際膝が曲がってはいけない。
そしてその膝は身体の真下に来るまで真っ直ぐのままでなければいけない。
この二つの反則が累積すると失格となる。
だから競歩は少し特殊な歩き方になる。
勿論俺もあの歩き方は一応出来るが、競歩の選手になるわけじゃないので遊び程度にしか出来ない。
着地の際に膝に衝撃が掛からないのでトレーニングの一環として取り入れてはいる。
結局何が言いたいかと言うと、俺は今日から走れるのだ。
歩くと走るの違いは、前述したようにはっきりしている。
いよいよだ。いよいよ走れる時が来た。
あまりの嬉しさに足取りが軽くなる。ついつい走ってしまいますそうになる。
まだだ、まだ我慢だ。
俺はロス・オブ・コンタクトの反則を取られないように、早歩きで向かう。
円マンションに……向かっていた。
そして、マンション前には約束通り円がこっちを見て立っていた。
円は半袖の白いランニングウェア、腰に薄手のウインドブレーカーを結び、黒のランニングタイツにピンクのランニングパンツを履いていた。
全て某有名ブランドで統一しており、その姿はスポーツ店のマネキンのような、ランニング系雑誌のモデルのような出で立ちだ。
そして……あまりに似合っているその円の姿に俺は思わずドキドキしてしまう。
どんなにお洒落な服よりも、それこそ水着姿や下着姿よりも、俺はその姿にドキドキしてしまう。
「おはよう、お待たせ……」
「おはよう」
「きゃうん!」
円の挨拶と同時に足元にいた円の愛犬のチックが俺に向かって鳴いた。
「……えっとチックも行くのか?」
久しぶりに登場……俺の事故の一番の原因、俺の怪我の根元。
「その方がいいかなって、ね?」
円はそう言いながらチックの首輪から繋がれたリードを俺に渡す。
「え?」
「お願い出来る?」
「俺が?」
「うん!」
満面笑みで円はリードを俺に手渡す。
チックは円の足元にキチンと座り微動だにしない。
「じゃ、じゃあ……」
俺は恐る恐るそのリードを受けとるとチックは一瞬戸惑うも、円の足元から俺の足元に移動し、そしてピタリとくっつきそのままちょこんと座った。
「おおお?」
今までも円の家に行くとちょくちょく顔を合わせていた。
初めは噛みつかれたが、最近は噛みつかれる事もなくなっていた。
「トレーニングしたんだよ、ねえ~~」
円は俺とチックの前にしゃがむと、チックの頭を撫でながらそう言った。
「そうなの?」
「うん、いつか一緒に……散歩出来たらって……」
「そか……」
「じゃあ……行こうか」
円は立ち上がり感慨深げに俺を見てそう言った。
「ああ」
「ウォーミングアップは良いの?」
「ああ、大丈夫……軽くだし」
「そか」
円はそう言って俺の横に立つ。
俺とチックと円が横一列に並ぶ。
「じゃあ」
俺が真っ正面を向いたままそう言う。
「うん、行こう」
円がそう返事をする。
そして、二人同時に一歩足を踏み出す。
それに連れられチックも立ち上がり俺の歩に合わせて歩き始める。
一歩二歩三歩と足を運び、そして……両足が一瞬地面から離れる。
顔に風の流れを感じる。踏み出した足に自分の重さを感じる。
まるで初めて自転車に乗った時のような、そんな爽快感が俺を襲う。
走った、俺は遂に走ったのだ。
早歩きとほぼスピードは変わらない。だけど、俺は走っている。
足を振り出し後ろ足で軽く地面を蹴る。
身体が一瞬地面から離れ膝を曲げ着地、そのまま体重を乗せ身体を運ぶ。
そしてまた足を振り出す。
「へっへっへ」
チックはそう息を吐き俺に合わせ小走りで走り出す。
チックに負けずと、もっとスピードを上げたくなるのを我慢し、ゆっくりとゆっくりと走る。
俺は走っている……そう感じた途端、嬉しさと感動がこみ上げた。
そして俺は隣を一緒に走る円を見ようと視線を移すと、円の姿がそこには無かった。
俺はゆっくりと立ち止まり後ろを振り返る。
円は俺の少し後ろで立ち止まっていた。
口を抑え、目からポロポロと涙を溢して。
「なに泣いてんだよ」
そう言って円に歩み寄る。
「だ、だって……だっれ……うえええええええん」
俺は苦笑いしながら円に近付くと、円は俺の肩に顔をくっ付けワンワンと泣き始める。
嬉しさ、安堵……そんな感情が円から伝わって来る。
「泣くなよ、まだ始まったばかりなんだから……」
「らって……らって……」
円は声を漏らして泣いた。そして俺もポロリと涙が……痛さに……涙が……。
「ガルルルルルルル」
「えっと……円さん……チックをなんとかして」
「え?」
チックは俺が円をいじめて泣かせたと勘違いしたのか、俺の足にがぶりと噛みついている。
「こ、こら! チック!」
「がふがふ!」
チックはそういう円にどうだと言わんばかりに、俺の足をガブガブと噛み続けている。
「あ、あの……痛いんですけど……」
とりあえず……こいつはやっぱり敵だったと、俺はチックを見て再びそう認識した。
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