第169話 円の思惑


 練習を終え、制服に着替えると天に言った。

 今日は久々に円のマンションに寄ると……。


 本日は円との勉強日、いつもなら俺の家でやるんだが、部活も始まり円の帰りが遅くなるからと天を説得する。


「ふーーーん、じゃあいいもん! 私はキサラ先生の家に行くから~~今日はお泊まりかな~~?」

天は頬を膨らませながらそう言うと、さっきまで素直に話を聞いていた円を一睨みし、そのまま職員室に向かって走って行った。


 スキップするかのような妹の走りを後ろから眺めていると一抹の不安を感じざるを得ないが、まあ……多分平気だろう……円とキサラ先生の話を信じるならば……。


 妹を見送ると、俺と円は揃って学校を後にする。

 後ろから灯りちゃんと只野さんの刺すような視線を感じていたが……とりあえずスルーした。


「どうだった?」

 帰り道、俺は隣を歩く円にそう聞く。

 

「どうって言われてもまだよくわかんないかなあ?」


「だよね」

 そう言うも新入部員二人にしっかりと説明していた円に俺は驚きを隠せないでいた。

 やはり地頭がいいんだろう。

 

 そのまま陸上の話をしながら。今までとは違い二人で普通に歩いていると、あっという間にマンションに到着する。

 足が悪かった頃は倍以上の時間が掛かっていた。


 そのまま部屋に入ると、俺達は久しぶりに二人きりになり……なーーんて考える事もなく、直ぐに勉強に取りかかった。



「へえ、凄い、出来てるじゃない」


「そして気付けば2時間経過していた。


 その一言でようやく一息つくと、俺の集中力になのか? それとも正解がいつもよりも多かったからなのか? 円は少し驚きつつ俺を見ながらそう言った。

 

 

「そうかな?」

 俺はそう謙遜するも、自分の中でも確かな手応えを感じていた。


 円の出す問題にすらすらと答えが浮かぶ。


 だからと言って、急に学力が上がったわけではない。

 1年もの間積み上げて来たものが、ようやく発揮できるようになってきたって事なのだろう。

 そして自力で歩けるようになったせいなのか? 自由に身体が動けてストレスがかからなくなったせいなのか? はっきりとはわからないが、ここのところ集中力がかなり上がっている事を実感している。


「……迷いが無くなった……からかな?」 


「迷い?」

 俺がそう言うと円は可愛く首をかしげそう聞き返す。


「そう……もう決めるしか無いから」


「決めるって?」


「あははは、まあ、ね……それよりも円はなんで陸上部に?」

 俺は円のその問いに笑って誤魔化した。

 まだ内緒だ。今はまだ……確実では無いから……。


「えーー? そうねえ、まあちょっと普通かな? って思ったからかな」

 円は持っていたシャーペンを器用にくるくると回す。

 

「普通?」


「うん、普通の高校生」


「どういう事?」


「そうね、翔君に言われて少し考えてみたの、私のやりたい事を……私はずっと貴方のそばにいて、貴方を助ける。貴方のして欲しい事をしてあげる。ってそう思っていた……でも貴方に大丈夫って言われた時、凄くショックだったの……私はもう必要無いのかって……」


「そ、そんな事は!」


「うん、大丈夫……わかってるから……ううん、わかったから」

 円は微笑みながら俺を見つめる。


「わかった?」


「うん! そうか、翔君は走り始めたんだって……あ、目標に向かってって意味ね、そしてそれが私の一番見たかった物」

 隣に座る円は俺の手に自分の手を重ねる。

「どん底だって、そう思っていた貴方はようやく自分の手で、ううん、その足で這い上がろうとしている。前を向いて目標に向かって歩き始めてる貴方に、今の私は邪魔になるだけ……」


「そんな、邪魔なんて思ってないよ!」


「……うん、ありがと……でね、考えたの……今、私のやりたい事ってなんだろうか? って、勿論貴方を見続ける、どんな……結果になろうとも貴方をしっかりと見続ける……やっぱりそれが一番やりたい事なんだけど、あともう一つやりたい事が見つかったの」


「それって……」

 

「普通の事がしたい……の」


「普通の事?」


「うん、普通の高校生……お喋りしたり、買い物したり……そうね、もう過ぎちゃったけど、春にお花見して、夏になったら花火を見て、海に泳ぎに行って、お祭りなんかもいいな、秋には紅葉狩り、冬はスキーとか、そんな季節を感じながら、普通の生活がしてみたい」

 円は寂しそうにそう語った。

 有名人の為にずっと人目を気にしながら生活してきた円。ここに住み初めても、休みの日は基本部屋に閉じ籠っていた。

 出掛ける時はバレないように変装、学校では誰とも交流する事なくずっと一人ぼっち。


 俺は手のひらを上に向け、俺の手の上に置かれた円の手を握った。

 柔らかくて、少し冷たい手。


 そして円の顔をじっと見つめた。


 一点の曇りも無い決め細やかな白い肌、円の端正で整った顔を白い肌でより美しく見せている。

 でも、それは幼い頃からずっと、家の中にいた証でもある。


 俺も事故に逢ってから、殆ど家に引き籠っていた。

 約3年の間自由に動く事を制限されていた。


 正直それが一番辛かった……走れなくなった事よりも。


 でも、円は有名人の娘としてずっとそうやって生活してきた。

 そう……ずっと制限されて来たのだ。俺なんかよりも長い間ずっと。


「行こうよ、花見でも花火でも、なんでも、その俺と……さ」


「いい……の?」


「当たり前だろ?」

 少し寂しそうな、不安そうな顔で話していた円は、俺のその言葉を聞いて満面の笑みに変わる。

 

 そして俺はその顔を見て改めて思った。早く円の呪縛を解かなくてはと……。

 俺は円の手を少し強く握り、それが出来るのは俺だけだ……と、そう自分に言い聞かせていた。

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