第170話 夏樹の思惑


 円のマンションを後にする。

 ユニフォーム等が入っているバックを肩にかけ、鞄を手に持ち普通のスピードで歩く。

 端から見たらなんでもないような光景だろうけど、俺の中ではこんな事でも一つ一つ感動に浸ってしまう。


 一人で歩く……それが、そんな事がこんなに素晴らしい事だったなんて、事故に遭わなければ思う事はなかっただろう。



 トレーニングウェアを着て競技場に立つ。

 トラックのタータンが日に照らされゴムが焼けたような匂い。そして、フィールドの芝生から草の香りがする。

 そこに消炎剤や制汗剤、そこに汗の香りが合わさる。


 そんな懐かしい匂いがした。それが陸上部の匂いだ。


 「4、5、6」と設定タイムの秒数を読み上げる声と「ファイットーうえ↑」という少しイントネーションのおかしい甲高い声が響く。


 フィールドからは円盤行きます、槍行きますという大きな声での注意喚起、もう……どれをとっても涙が出るほどに感動できた。


 そして至極懐かしく思った。

 

 もうすぐだ、もうすぐ走れる。

 焦ってはいけないのだけど、身体がうずく、心が躍る。

 この呪縛がら逃れる為に、円の呪縛を解くために……早く走らなければならない。


 心と同時に身体が弾む。それと同時に走りたくなる。少しだけほんの少しだけ走っちゃおっかな……。


 俺は歩くスピードを徐々に上げ……そして……。


「……まだダメでしょ?」


「うお!!」

 競歩の様なスピードから一歩大きく足を踏み出そうとしたその時、後ろから声を掛けられる。


「まだ走っちゃだめでしょ?」


「その思いっきり聞き覚えのある声に俺は慌てて振り向くと、そこにはやはりと、赤いトレーニングウェア姿の夏樹が立っていた。


「な、夏樹?!」


「なんで驚くの?」

 声でわかるだろ? って顔で俺を見ている。


「いや、驚くでしょ? 何してるって、まあ見ればわかるか」


「そ、今日さあ、久しぶりに跳んだけどやっぱし鈍ってるからさ~~」


「鈍ってるで1.7mって……」

自分の身長よりも高く跳ぶって……。


「え~~2m飛ばないと通用しないでしょ?」


「誰に? とは言わないけどさ……」

 高校生でもなく、日本でもなく、復帰早々世界が相手って言ってるよ……こわいわ~~この娘こわいわ~~。


「やっぱり目指すなら2m10cmだからね~~」

 夏樹はそう言いながら俺の前で屈伸をして、そのまま上に飛び上がった。

 飛び上がると同時に夏樹のトレーニングウェアからおへそかチラリと見え俺の目の前を通過していく……まるでロケットが発射したかのように、高く力強く跳ぶ。


 夏樹のおへそが立っている俺の目線を超えたって事は……まあ、つまり少なくとも1m以上飛び上がっているって事だ。

 そのおへそが見えた事よりも、軽くジャンプしただけでそこまで跳べる跳躍力に俺は改めて驚く。


「ステフカ・コスタディノヴァですか……」

 女子走り高跳びの世界記録は2m9cm、ブルガリアのステフカ・コスタディノヴァが1980年代に記録し、今現在も超えられていない大記録。

 夏樹は30年以上超えられていない記録が目標だと言っているのだ。


 まだ少し肌寒いせいか、夏樹の身体からは湯気が立ち上っている。

「ハイジャンの選手は練習そんなにいらんだろ?」

 どれくらい走ったのか? 俺は当然知っているだろうがと、夏樹にそう言って注意を促す。


「え~~考えが古いなあ」


「古いって……」

 どちらかというとハイジャンプは無駄をそぎ落とすのが練習だと俺は思っている。

 あくまでも俺の考え方だけど。

 無駄な贅肉、無駄な筋肉、そして無駄な練習、とことんまで削ぎ落す。

 高く飛び上がる以外は全て切り捨てる。それがハイジャンプ。

 跳躍力、踏切、タイミング、空中姿勢。それが全てだ。


 陸上でもっとも才能とセンスが必要な競技、ボルゾイ犬のような高くて細い身体に生まれ持ったバネが必要。

 こんな事をもしSNSで言えば炎上するかもしれないけど、はっきり言って練習すれば強くなるって競技ではない。

 そして、身長はやや低いも、超人的なバネの持ち主、卓越した運動神経の持ち主の夏樹にもっとも合っている競技。


 そして……俺はずっと夏樹に、夏樹の……その才能にずっと憧れている。


「なんで……戻ってきたんだ? 良いのか? バスケは」


「うーーん、先輩には激怒されて、後輩には泣かれた」


「それって……」

 高1ならまだしも、高校2年……しかもシューティングガード、絶対的エース。

 そんな存在がいきなり陸上部にだなんて……てか、俺へのヘイトの一部は夏樹のせいなのでは?


「でも、でも、やりたかったんだ……本当は」

 夏樹は俺の目を見て、そして真剣な面持ちでそう言った。


「……そか」

 その言葉に、夏樹のそんな目を見て、俺は改めて気付かされた。

 俺への呪縛は円だけじゃないって事に、夏樹もそして会長も、灯ちゃんも……。


 同情という名の呪い。


「まあさ、私が前を走ってないと、かー君頑張らないからね~~」


「そんなこと……ない事もないかな?」


「あははははは、なに? 怪我してから素直になったじゃない?!」


「べ、別に……」


「遠回りは遠回りじゃない、一番の近道。それも必要な事か」


「誰のセリフ?」

 俺がそう言うと、夏樹はバットを構える格好をして、足を振りながらゴルフクラブを振るようにスイングをする。


「あはは、似てる」

 

「あはははは」

 二人家の近所で、俺と夏樹は声を出して笑い合う。

 お腹を抱えて、子供の頃のように笑った。


 もうすぐまた追いかけられる。

 夏樹の後を……また。







 

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