第165話 マネージャーのお仕事



「ご、ごめん」


「……円が謝る事は無いよ」


「で、でも……私が無理に来たから」

 整備された競技場、トラックの中は芝生が敷かれている。

 俺は芝生に入ると足を伸ばして座った。

 久しぶりの感触、そして匂い……改めて帰ってきたと実感する。


 円は買ったばかりの白とパープルのトレーニングウェアを来ている。

 なるべく身体の線が出ないように着こなしているが、隠しきれない美しさの為か周囲はウォーミングアップをしつつもチラチラと円を見ていた。


 円は俺の前にちょこんと女の子座りをするとこっちをじっと見ている。


「マネージャーがやりたかったの?」

 

 キサラ先生のかなり厳しい言葉、でも……それは言われなくてもわかっている事。

 そして今は何も言い返せない……。


 

 それよりも今は円の事だ。


「うーーん、まあそれも、あるかも」


「それも……か」

 俺は足を真っ直ぐに伸ばし座ったまま前屈をし柔軟を始めながらそう言った。

 ウォーミングアップに柔軟やストレッチは逆に怪我の原因になったりするが、今の俺は走るわけでは無い。

 手術後の為、癒着があったり、皮膚や筋肉が突っ張ったりしている為にまずはそれを解すようにこうやって歩く前には柔軟をしなければならない。


「えっと……押す?」

 円は立ち上がろとしながら俺にそう言う。


「え? あ、いや、大丈夫あまり負担はかけられないから」


「え? 負担になんか思ってないけど」


「え? あ、いや円への負担じゃなくて……俺の足への負担だよ」


「あ! そか、あはははは」

 円は俺の言動に少し疑心暗鬼になっているのか? 自分の勘違いを笑って誤魔化している。


「マジでマネージャー……やるの? てかマネージャーの仕事ってわかる?」


「マネージャーって……送り迎えとか、スケジュール管理とか?」


「いや、それは芸能界のマネージャーで……」

 いや知らんけど。


「うん、知ってる……ボケてみた」


「……」


「あ、引いた?」


「いや……円でもボケるんだって……」


「えーー、私アイドル時代は面白キャラだったんだからね!」

 ケラケラ笑いながら俺にそう告白する。


「そう……なんだ」

 でも俺は円の事を、面白いって思った事は無い……ちなみに今のも……。


「……えっと、それで、陸上部のマネージャーって何をするの?」

 円は俺の心を読んだのか誤魔化す様に話を元に戻す……。


「ああ、えっと……まあ基本雑用だよね、メインはタイムの読み上げや記録係かな?」


「かな? って知らないの?」


「知らないよ、やった事無いもん」

 ちなみに陸上部のマネージャーってのを実際見た事は無い。


「ふーーん」


「まあ、やってほしい事は色々とあるから」


「エッチな事?」


「……それもボケ?」


「うん!」


「……真面目にやる気ある?」


「勿論!」

 円はあくまでも面白くするかのように俺に向かって笑顔でそう言う。

 

 しかしその言葉を聞いて、俺はこの1年で円の事をなんとなくわかって来ていることを実感する。


 そう、円がこういうはしゃぎ方をした事が今まで何度かあった。

 一番は北海道の時だ。俺が色々と抱えていればいるほど、円はこうやってお茶を濁すように、その場の空気を和ませるかのようにこういう事を言ったりする。


 俺にあまり深刻にならないようにと、円はそう態度と言葉で示しているのだ。


「うーーーん、まあいいや、じゃあ俺のわかる範囲で……」

 そう言うと俺は柔軟を終わらせ、ゆっくりと立ち上がるとトラックを横切る様に歩き出す。

 そしてまずは競技場、トラックの外にある倉庫に行き、そこの扉を開くと円に説明を始める。


 まずは器具の説明。

 記録計測用のピストルや電光計測機、スターティングブロックの準備及び使用方法、走り幅跳びの粘土板、メジャー、トンボ等の準備、走り高跳びのマットとバー一式……。


「ちょ、ちょっと待って、え?」


「ん?」


「この倉庫にあるの……全部陸上用?」

 

「そうだね」


「……こ、こんなに?」


「奥に棒高跳び用の物がまだあったかな?」


「あの長い竿?」


「ああ、そうそう」


「この一杯あるのは?」


「ハードルだね、ここで高さを調整する」

 俺はハードルを1台引き出しバーの高さを調整する。


「110mハードルでこれくらい」


「たか!」

 円のお臍辺りの高さまで上げて見せる。


「1m6.7cmだね」

 

「こんな高いの跳んでたんだ……」


「オリンピックとかだと身長高い選手が多いから跨いでる感覚だよね」


「あの大きなハードルは?」


「ああ、あれは障害用、こっちは91.4cm短距離のハードルと違って倒れない、そしてあそこにあるのが障害の水濠」

 俺は倉庫を背にトラックの外側を指差す。


「あの穴見たいな奴?」


「そう、あそこに水を入れる」


「へええええええ、そんな物まであるんだ」

 円は感心そうに見ている。


「実際、高校の競技場で水濠まで揃ってる学校は早々無いよ」


「そうなの?」


「うん」


「じゃあ練習は?」


「ぶっつけ本番……」


「……マジで?」


「うん……だからここは凄いんだよ……相当……お金を掛けてる」


「そう……なんだ……」

 円は俺の話を聞いて、そして今俺が置かれている立場を理解したかのように悲しそうな顔で、そしてすまなさそうにそう言った。


 ここのグラウンドは、この競技場は高校ではあり得ない位の設備だった。


 そしてその設備を作ったのは俺が入学するから……そして俺はそれを、学校からの期待を完璧に裏切ってしまった……。


「だから……俺が陸上部に入り直すってのはさ……学校側に対してかなり逆撫でする行為になるんだ……茨の道なんだよ……」


「……それで……辞めちゃった人が続出したんだ」


「そうだね……去年の夏合宿に参加してなければ今頃全員から拒否されて、足を踏み入れる事さえ出来なかった」

 会長の力無かったら、コーチとして参加する事も、その夏合宿も行く事も出来なかった。


「そか……」


「そして円、君も俺と同じだ。この施設を無駄にした人物の一人……今はそう認識されている……だから正直……来て欲しくなかった」


「……私が側にいるのは……嫌?」


「違う、君まで学校から、皆から嫌われる必要なんて無い、円は成績優秀だし、大学の推薦だって、取れるだろうし」


「なーーんだ、良かった。そんな物いらない……私は私のやりたい事をやってるだけ、この学校に入学したのも……ここに来たのも……別に皆から嫌われたって、翔君の為なら……」

 円はうるうるとした瞳でそう言うと、俺の目をじっと見つめる。

 俺も正面に立ちじっと円を見つめる。そして1年間見続けても慣れる事の無いその美しい顔に思わず見とれてしまう……。


「えっと……ま、円……」


「……翔君」



「あのお、先輩達……そろそろ準備したいんだけど……」


「「え?!」」


 いつの間にかウォーミングアップを終えた部員達が倉庫前に集まり、呆れた顔で俺達を見ていた。


 そして一番前にはプルプルと身体を震わせの涙目で俺を見ている灯ちゃんが……いた。


「あ、ご、ごめん」


 俺と円は慌てて倉庫の前から飛び退くと、クスクスと笑いながら皆が中に入っていく。


 そして一人だけ、灯ちゃんだけ俺達の前に残ると、円に向かって言った。


「わ、私ぜっっっっっっっっっっっっったいに、負けないから!」

 その宣戦布告とも取れる台詞を残し、彼女は倉庫内に入って行った。


「ふーーーん、やっぱり近くで見てなきゃ駄目だね」

 円は満面の笑みで俺にそう言うと、皆の後ろを追うように倉庫内に入って行く。


「マネージャー……マジでやる気か……」

 俺はそう呟くと深いため息を一度つき、そして再び芝生の上をゆっくりと歩き始めた。

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