第145話 私の隠し事


 今日は色々ありすぎた、時間的にも遅くなっている。

 彼も昨日の無断外泊の件も含めて妹さんと話をしなければと言っているので、今日の勉強会は中止にした。


 私は彼を自宅まで送り届けると、急ぎ自分のマンションに戻った。

 そして、チラリと彼の部屋を覗くとそのまま自室に入り鍵をかけた。


「疲れた……」

 久しぶりに弱音のような言葉が口から漏れた。

 頭が一杯だった。感情の許容範囲が大きく超えていた。

 溢れる思いを抑えるのが辛かった。


 間接照明だけ点灯させ私はベッドに倒れ込む。

 そして薄暗い部屋の中、ぼんやりと彼の子供の頃の写真を見て心を落ち着かせる。


 私は右手の人差し指で自分の唇にそっと触れた。

 まだ、感触が生々しく残っている。彼の唇の感触が……。



 私は昨日彼を殺した……言葉で彼を刺し殺した。

 私を裏切ろうとしたから……。



 なぜあんな事を言ってしまったのだろうか? 私じゃなくても彼を守ってくれるなら、彼が幸せになるなら、それは私じゃなくてもいいって、誰でもいいって思ってた……筈なのに……。

 

 彼に裏切られる、彼が私から離れてしまう……そう思った瞬間私の中の何かが壊れた。


 彼が夏樹さんの事を好きなのは知っていた。

 彼自身が気付いていない事も知っていた。


 半年の間彼と一緒にいて彼と共に生活もして、彼の周囲にいる人達と話をして、私はある一つの結論を導き出した。


 彼はずっと昔から夏樹さんと対等になりたがっていた。

 いや、小学生で日本一になり彼女と対等になってもまだ彼は成長を止めなかった。そして夏樹さんとの関係も変わらなかった。

 

 彼は夏樹さんを越えたかったのだろう。彼女よりも強くなりたかったのだろう。

 彼女を守る為に強くそして逞しくなろうとしたのだろう。

 

 だから同じ程度では駄目だったのだ。だから中学でも日本一を目指した。それでも越えられなければインターハイ、そしてインカレで、それでも駄目なら日本選手権、それでも駄目ならアジア大会、そして世界大会、オリンピック、彼はどこまでも行くつもりだった。夏樹さんという天才相手にどこまでも追いかけそして追い抜こうとしていた。


 そう彼は一番になる事を目標にしていたわけじゃない。


 彼の本当の目的は……夏樹さんを越える事だった。


 そして夏樹さんを越えたと自分の中で認めた時、彼は気付く筈だった……自分の想いに夏樹さんへの想いに。


 それを私は彼から奪った。

 夏樹さんから彼を奪ってしまった。



 贖罪……それが私の一番の贖罪だった。


 私は悩んだ……言わなければって、その事実を言わなければって、そう思っていた。


 そしてそのチャンスが昨日訪れた。


 私は彼を殺した、言葉で殺した……あんな事言うつもり無かった。

 私はその事実だけを、彼の想いを夏樹さんに言えば良かったのに。


 言えなかった……彼の本心、夏樹さんへの想いを彼に気付かせるべきだった。


 でも、言えなかった。


 それだけは……言いたく無かった。


 酷いのは私だ、私は彼を独占しようとしている。

 妹さんから、夏樹さんから、袴田姉妹から彼を引き離した。


 彼を殺して、そして私に依存させた。


 彼は今、生まれたばかりの子供同然だ。

 必死に私にしがみつく子供なのだ。


 そんな彼に私は母親のように接する。


 あの後夏樹さんの事を言っていたら、私と夏樹さんが入れ替わっていたかも知れない。

 彼は夏樹さんの方を向いていたかも知れない。


 私は両腕で自分の身体を抱き締める。

 そして身体を丸め、誰にも聞こえない声でそっと呟く。


「可愛いよお……」

 愛しい、可愛い……この部屋の写真のように今の彼が可愛くて仕方がない。


『円は俺のものだ』

 あの言葉がずっと頭の中でこだまする。

 母親を独占する子供のようなあの言葉に私は震えた。

 嬉しくて嬉しくて嬉しくて……そして悲しくて。


 彼の事ばかり考えてた、ずっと彼の事ばかりだった。

 わかってるつもりだった、ううん違う彼の事はわかっている……私が誰よりもわかっている。


 わからないのは自分だ。自分の事がわからない。


「酷いな、私って」

 元々酷い女だって自覚はある。

 今回更にそれを自覚した。


 私は手段を選ばない……北海道の時だってそうだ。もし予想が外れて彼が死んだら私も死ぬって本気で思っていた。


 今回も……。


 でも彼だって酷い事をしてきた。妹さんに依存し、夏樹さんを束縛し、私を試し、袴田姉妹に保険を掛けた。


 だからこれは仕返しなのだ。彼が私を裏切ろうとした仕返しなのだ。


 だけど、もし彼の足が治ったら……彼はどうするのだろうか?

 それがわからない……ううん、わかろうとしていない。

 

 今は親鳥から餌を貰う雛鳥の彼、でも歩けるようになれば、もし走れるようになれば、そして自らの羽で翔べるようになれば、彼は私から飛び立って行くかも知れない。


 私から離れ再び妹さんの所に、夏樹さんの所に、袴田姉妹の所に……。


 翔……その名前のように自らの力で翔べるようになったら……彼は私から巣立って行く。


 痛い、そう考えるだけで心が痛くなる。胸が苦しくなる。

 毎回ここで思考が停止する。


 でもやらなければならない、例えそうなったとしても、彼が私の元から離れて行くとしても……。


 だから許して欲しい……後でいくらでもこの仕打ちは受けます。


 だから、今は、今この瞬間だけ彼を独占する事を……幸せな気分でいる事をどうか許してください……。

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