第76話 ご褒美は?
「集中しろおおおお!」
「うきゃああああああ!」
いつもの様に円の家での勉強会、期末試験に向けて本格的に始めた矢先、初手から円にノートをぶつけられ叱られた。
「ああ、もう! ようやく陸上から踏ん切りつけて勉強を始めたって思ったのに、またボーッと考え事してる! これじゃ前と一緒じゃない?!」
「ご、ごめん」
「元スポーツ選手なんだから、体力と集中力は凄い筈なのに、翔君はその集中力が全然無い、それが今まで学力アップしなかった原因でしょ? ってか陸上どんだけ好きなのよ!」
「ご、ごめんよおおお」
いつも優しい円が遂に切れてしまった……。
「どうせあの、灯って娘の事考えてたんでしょ?!」
「……うん」
「言ってたよね二週間の練習メニューを渡したって……本人に任せたんでしょ? だったらそれを信用するしかないでしょ?」
「そう……なんだけど」
やっぱり心配は心配だ……。
賭けの事はどうでもいいけど、あのつかさ部長の言ってる事は確かに正しい。
中学最後の大会、残り少ない日数のうち、二週間も基礎トレに費やすとかあり得ないって思うのは当然だ。
僕の計算が、才能を見る目が間違っていたら……灯ちゃんに迷惑が、一生残る傷がって思うとやはり不安がついて回る。
ああ、つかさちゃんの前で自信満々だったあの自分を殴りたい!
「──またボーッと、あのね、今、翔君は岐路に立っている……クラスの中で、ううん学校での貴方の見る目が変わりつつあるのは見てわかるよ。でもね、このままだと、その学校に残れるかわからないんだよ? 元々翔君は先生方にも、学校の中でもあまり良い印象は無かった。ここで留年なんてしたら元の木阿弥でしょ?」
「……うん」
「それにね、この先、翔君にやりたい事が出来た時、学力は重要だと思う……どんな学校にも行ける様に今から準備しておく方がいいって……私はそう思うし、そういう教え方をしてるの!」
「そう……だね」
「言ったでしょ!? 私は貴方の人生の責任を取りに来たの。甘やかして欲しいならとことんまで甘やかしてあげる。でも貴方はそれを拒絶した。そして死にたいなら殺してあげる。それも貴方は拒否した。そうしたら後は生きるのみ。私はとことん迄責任を取るつもりなんだからね? 留年回避なんてくだらない事で責任を取れるなんて思ってないんだから! わかってる!」
「は、はい!」
「わかった? だったら真剣にやる!」
「うん……ごめん……あ、でもその前に一つだけ。ぼ、僕ね、円には感謝してるんだ。こうして生きてる事、学校での立場も回復しつつある事、そして勉強を見て貰ってる事、その、ありがとって、感謝してる……それを伝えたくて、灯ちゃんの事だけじゃなくって、それを伝えたくて……タイミングを見計らっていて、つい集中出来なかったんだ」
「翔君……」
「だから僕頑張るよ、期末で頑張って、成績が上がったら、円に何かお礼をしたいって……そう思ってるんだ、だから……」
僕がそういうと、円は怒りに満ちた表情で僕の襟首を掴んだ。
「え? な、なんで? 怒った? ええ?」
そして、そのままテーブル越しに僕を自分の方に思い切り引き寄せると……。
「──チュ」
「………………ええええええええ!」
円は僕の頬にキスをした。
「じゃあご褒美の前払いね、さあ集中するぞ! 期末で成績アップしたら、ちゃんと残りのご褒美だからね!?」
「あ、ああ、うん」
前払いって、じゃあ本払いは一体何を?
僕は円にキスされた頬に手を添え、円を見る。
円は何事もなかった表情で椅子に座り直すと、少しずれた眼鏡を中指で直した。
円の柔らかい唇の感触が僕の左頬に残る。
円の良い匂いが僕の鼻腔を擽る。
集中しろって怒った癖にこれじゃ集中出来ないよ! って言いたくなるのを抑え、僕は円が投げつけたノートを拾い、机に広げ気を取り直し勉強を開始した。
そして集中する事2時間。
「そんじゃ一旦休憩しよっか」
円は数学の参考書を閉じると、椅子から立ち上がりコーヒーを入れ始めた。
「はふううううぅぅ」
疲れた……円の一言で身体が弛緩する。2時間の集中、出来たかどうかわからないけど、でも達成感はあった。勉強も進んだと思う。
「それで……その灯って子は二週間後にはどうなってる予定なの?」
コーヒーを入れながらさっきの続きとばかりに円は僕に聞いてくる。
「まあ、駄目になってるだろうね」
一日休むと二日無駄になるってよく言う。つまり二週間も走らなければ、丸々1ヶ月無駄になるって事。きっと走り方なんて忘れてしまうくらいに。
「駄目って」
「駄目にする為にそうしたんだよ」
「なんで?」
いつもの様にコーヒーにミルクを少しと角砂糖を2つ入れ僕に差し出す。
円はいつも通りブラックを自分の前に置いた。
「僕の真似なんかしてるからタイムが上がらないんだ。だから一度リセットして再構築する」
「ふーーんなんか妬けるなあ」
「ええ?」
「だってさあ、全部わかってるって顔してる」
「──まあ、陸上に関しては……ね」
「そか、羨ましい」
円は寂しそうにそう呟いた……。
そんな円を見て、僕は思わず手を伸ばす。
テーブルの上、コーヒーの入ったマグカップに添えられた円の手に自分の手を重ねる。
「ぼ、僕は……」
知りたい、もっと円の事を……さっき円にされたキス、頬に残る柔らかい感触が甦る。
僕は円をじっと見つめる。長い睫毛、大きな瞳、そんな表面的な事じゃない、もっと円の心を、円の気持ちを知りたいって……。
そして、さっきのあの唇の柔らかさを……もっと……知りたいって……。
「か、翔……君」
「ま、円……」
円の大きな瞳に僕が映っている。
さっきの前払い、その残りを今払いたい……そんな言い訳みたいな事が頭に浮かぶ。
僕はゆっくりと身を乗り出す、円もゆっくりと身を乗り出した。
そして……。
『ピルルルルルルルル』
「ひゃうううう!」
「ひううううう!」
突然鳴り出すスマホの音に二人揃って奇声をあげた。
「な?!」
僕は慌てて円の手を離しテーブルに置いてあるスマホを手に取る。
『なんか嫌な予感がしたんだけど、約束忘れて無いよね? 今カレー作ったから早く帰って来い!』
「……」
エスパーの様な妹のメッセージを見て、僕は思わずこの世界の神と妹が密接な関係でいるのでは? 等とわけのわからない事を考えていた。
「どうしたの?」
僕の顔を見て円が声を掛けてくる。
「いや……妹が、その、早く帰って来いみたいな事を」
「そっか、じゃああと少しやって終わりにしよっか」
円はグイッとコーヒーを飲み干すと、再び参考書を開く。
僕もそれを見て慌てる様にコーヒーを飲む。
「甘……」
溶け残った砂糖がカップの底に溜まっていた。
糖分補給とばかりに一気に流し込み、僕もノートを広げ、円同様に? さっきの事は無かった事として、再び勉強に集中する。
期末試験が終われば、直ぐに夏休みが来る。
円へのお礼、会長への感謝、灯ちゃんへの期待、何も無かった僕の心にはいつの間にかそんな楽しい事で一杯になっていた。
僕の大好きな夏はもうすぐそこに迫っていた。
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