第69話 天気と転機
じくじくと降り続く雨、止まない雨はないとは言うけれど、ここまで降り続くと気分も滅入ってくる。
結局、教室に入っても何も変わっていなかった。
相変わらずの好奇の目、こそこそと聞こえる声は、またうざい奴が戻って来たというニュアンスで僕の耳に届く。
またこの生活が始まるのかと、まだ僕の地獄は続くのかと……自分の中で再びあの感情が襲ってくる。
僕はいつになったら自分に自信が持てるのだろうか?
そしていつになったら、こんな思いをしなくなるのだろうか……。
しかし、そう思いつつ4日が過ぎたとある週末の朝、僕の転機となる事が訪れる。
「な、なんだ?」
教室に入ると、いや、もっと前だ、学校に来るや周囲の目が、そして聞こえてくる声が変わった。
好奇の目ではあるが、何か……優しさというか、生暖かさを感じる。
そして、その理由が昼休みにわかった。
「あ、あの……み、宮園君って、噂で聞いたんだけど……仔犬を助けて事故に遭ったって、本当?」
クラスメイトの一人が僕に近付きそう聞いてくる。
名前は知らない、少し地味な顔立ち、肩までの黒髪、身長も普通な女の子だった。
僕がゲームを作るなら育てたいって思う様なパッと見顔はいいけど、平凡な子だった。
「えっと……だ、誰から聞いたのかな?」
「なんか、メッセージで回ってきたんだけど、あと噂にもなってる」
「そ、そうなんだ」
「うん、それで本当の所はどうなのかなって」
どうする? でも、僕は口止めをされている……それはまだ有効だ。
そして、それをはっきりさせると僕と円との関係まで知られる事になりかねない。
噂話程度なら……。
僕は知らぬ存ぜぬを貫こうとしたその時……。
「せ! 先輩!」
1年の教室で慣れぬ呼び方をされ、僕と冴えない女の子に注目していたクラスの皆が一斉に教室の入り口を見る。
「あ、灯ちゃん?」
いや、なんで中等部の君がここに?
「や、やっと会えた!」
僕を見て梅雨の晴れ間の様な明るい顔で笑う灯ちゃん。
中等部の生徒は基本高等部の校舎に入るのは禁止なんだけど、今はそんな事を言ってる場合ではない。
「アアチョウドヨカッタ、ソトデハナソウ」
僕は立ち上がり彼女の元へ行くと、棒読み宜しく、そう大きな声を出して彼女を連れていく。
「ああん、せんぱい、そんなに乱暴にしちゃいやん」
「と、とりあえず早くって、僕のせいか」
廊下を走り去る事も出来ず、中等部の制服の女子と僕ではかえって目立つ。
かといって先に行けとも言えず、僕は出来うる限りの早足で校舎の外へ彼女を連れていく。
「先輩……こんな人気の無い所で……良いですよ、先輩なら」
校舎裏庭の片隅に連れてくると、灯ちゃんは手を胸の所で組み、目をつむった。
ああ、もう次から次とわけのわからない事が。
「しないから!」
「いえ、手付けがわりにどうぞ」
「手付けってなんだよ! てか、一体何でここに?」
「だってええ、中々会えないんだもん! 雨の日は朝練中止だけどお姉ちゃんに監視されてて無理だし、放課後も陸上部があるし」
「それにしてもいきなり教室に来るのはどうかと思うぞ、それで僕に何の用?」
「あ、あの! 私と、結婚してください!」
「……いや、しないから」
そもそも出来ない。
「じゃあ付き合って下さい!」
「いや、付き合わないから」
「じゃあじゃあ、練習を見てください! 私に走りを教えて下さい!」
「……はあ、それが本題か」
「ご、ごめんなさい、交渉は大きな事から小さくしていけばって教わったので」
テヘペロをする灯ちゃん、コロコロと変わる表情に彼女の心が全然読めない。
「ドアインザフェイスね、てか、僕が最初にOKしたらどうするんだよ」
「……そ、それはそれで……」
彼女はモジモジとしながら上目遣いで僕を見る。
くっ、その仕草を見て、小学生の様な容姿の灯ちゃんの事を思わず可愛いと思ってしまう。
違う、僕はロリコンじゃない……。
「…………と、とと、とにかくそれも無理だから」
「そんなぁ……せんぱいいいぃ」
「僕以外にも居るでしょ? 会長とか」
「ダメなんです! 先輩しかいないんです!」
「いないって言われても」
「そもそもうちの学校の陸上部に、指導者がいないのは先輩のせいじゃないですか!」
「それは……まあ、ごめん」
「……ご、ごめんなさい……お願いします……私、どうしても速くなりたくて……今度の大会で……どうしても勝ちたい人がいて」
僕を見て両手を合わせて懇願してくる……今度の大会って、この時期だと中体連だよね? もう2ヶ月無い……いや、そうじゃない、そもそも僕はコーチの経験無いんだ、出来るわけが無い。
「って、2ヶ月無いよね? でも、はっきり言うと陸上って積み重ねだから、僕がちょっと教えただけで急に速くなる事はないと思うぞ……」
「そんな事無いです! お、お姉ちゃんが先輩に指導されてコンマ3秒タイムが上がったじゃないですか!」
「──あれはたまたまで、誰しもがそうなるとは」
「お、お願いです! 私、何でもしますから!」
「な、何でもって言った? 今言ったね! なーーんて言うとでも?」
「ぶうううう」
頬を膨らませ口を尖らせる灯ちゃん、ヤバい益々可愛って、だから僕はロリコンじゃないっつーの!
「でも、何でそこまで言うの? どうしてそこまで急に速くなりたいの?」
そんな事を言われても、僕に魔法が使えるわけじゃ無い、短距離は特にそうだ。
一つ一つの積み重ね、平均台の上を全力で走る感覚、それを数ヶ月で僕がちょっと教えたぐらいで出来るわけじゃない。
「……私……そいつに2年間負けっぱなしなんです……」
「そうなんだ……でも、競争なんだし、勝ち負けは必ずあるよ、だから焦らなくても」
「だ、ダメなんです! 次が最後の勝負なんです!」
「最後?」
「先輩……二刀流って知ってますか?」
「えっと、まあ、昔は刀二本で戦う事で、最近はピッチャーとバッターを両方こなすって奴だよね」
「木本 葵 私が倒したい相手は、その二刀流なんです……」
「二刀流?」
「女子サッカーと陸上短距離の二刀流……」
「ああ、そういう……まあ、サッカー選手に足の速い人も多いし」
「で、でも、そいつ去年陸上は遊びだって言って都の総体を辞退したんです、サッカーの試合と被るからって、そいつに通信で負けて……タイムで……お情けで総体に出る事に……今年はどうしても葵に勝ってそれで、全国に行きたいんです! 今度こそ勝たないと駄目なんです!」
「そんな事を言われても……」
「来年、高校生になったら陸上はもういいやって、サッカー一本でって言われて……舐められっぱなしでいいんですか! 陸上よりもサッカーが上だなんて思われて良いんですか!」
「いや、まあ、実際サッカーの方が」
「先輩のばかあ! うえええええええん、びええええええええん」
灯ちゃんは、手を顔に当てうつ向きながら大泣きし始めた。
体育会系の大きな声が校舎に反響して、叫び声の様な音が周囲に響き渡る。
そしてその声に反応したのか? どこからかガラガラと窓を開ける音が聞こえてくる。
「わ、わかった、わかったから!」
ヤバい、また人が集まって来ちゃう、なんだか、今日はただでさえ周囲の様子がおかしいのに、こんな所で中学生を泣かしてる所なんて見られたら……。
「ほ、本当に!」
僕がそう言うと灯ちゃんは顔をあげ笑顔で僕を見た。
うーーわ、ま、また嘘泣きかよ! うーーわ僕ってちょろい?
「──はあぁ、とりあえず、僕は君の事を、走りを知らないから何が出来るかわからないし、それに僕は勉強しないといけないんだ……だから土曜日、明日僕に走りを見せてくれ、それ次第だから、僕が駄目だって思ったら諦めて欲しい」
「はい! やった、やったあああああ!」
満面の笑みで飛び上がる灯ちゃん……。
「はあ、なんかもう……妹と夏樹、円と会長、そして灯ちゃんにクラスメイトの子、なんだかごちゃごちゃと……一体どうなってるんだよ?」
飛び跳ねる灯ちゃんを見つつ僕はこめかみを抑えた。
何かの力で強引に動き始めて、いや、動かされ始めている事を僕は……実感していた。
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