1部4章 終焉

第49話 愛されたかった。


 

 僕は円の頭を、髪を撫でた。

 僕の足にキスをしてくれる円、僕と同じ物を好きになってくれたであろう、その人の頭をゆっくりと撫でた。


 そう、僕は円に言われ、円にキスをされ、改めて気付いた、気付かされた。


 やっぱり僕は自分の足が好きだって。


 だから痛かった、苦しかったと言われ、凄く嬉しかった。


 多分以前言われた言葉は僕に対して、そして今円は僕の身体に、足に対して言ってくれたのだと思う。

 僕の好きな物に対して言ってくれている事が、そしてそれにキスをしてくれた事に、涙が出る程嬉しかった。


「ありがとう……」

 僕がそう言うと円はゆっくりと顔を上げ、そしてニッコリと笑った。

 その笑顔はさっきまでの笑顔とは違った、いや、この旅でずっと笑っていたそれとは違う、いつもの、マンションの時、一緒に勉強をしていた時の笑顔だった。



 そして僕達は、手を繋ぎ外の景色を眺めながら浴槽の縁に座った。

 

「円は……どうして僕に、ここまでしてくれるの?」

 何でもしてくれる、一緒にいてくれる、そして一緒に……死んでくれる。

 どうしてなのか? たいして知りもしない僕の事を何故そこまで、いくら怪我の原因が自分のせいだって思っているとしても、そこまでするとは僕には到底思えない。


 そして何で僕の事を好きって言ってくれたのか? 1年前からってどういう意味なのか? 今なら聞ける、そして今なら信じられる……円の言葉を、その思いを……だから僕は率直に聞いてみた。


「……そうだね、隠し事は無しって言ったから……」

 円はそう言うと、僕の手をきつく握った。その手が震えているのがわかる。

 そして、少し間を開け、円はゆっくりと語り始めた。


「私……初めて翔君と会った時、貴方の走る姿がとても綺麗で、多分それを見た時から貴方の事が好きになった……ううん、その時は貴方の走る姿を好きになったって言う方が正しいかも知れない」


「僕の走る姿……」


「でも、あの事故で、貴方は走れなくなった……そしてそれを知ったのは事故の1年後、私ねそれから貴方の事一杯調べたって言ったよね?」


「うん」


「私の仕事がら、テレビ局や映像製作会社、出版社に顔が利くから、そこから頼んで貴方の子供の頃の映像とか探して貰った。そして一杯手入れた、写真とか記事とかも……それを見て思ったの……ああこの子は走る事が何よりも好きなんだなって、大好きなんだって……愛してるんだなって……そう思ったの」


「……うん」

 そう言われると照れくさいけど、確かに僕は走る事に命をかけていた、全部をかけていた。愛していた。


「周りの人達が顔をしかめて苦しそうに走っている中で、貴方だけは笑ってた、いつも楽しそうに、その笑顔がとても綺麗で、美しくて、そして可愛いって……」


「…………円って……しょた?」


「違うわよ!」


 小学生の僕を見て可愛いって言われ、思わず口から出でてしまった。


「ご、ごめん……それで?」


「──私ね……そこで思ったの……走る事に、自分の足に、あんなにも好きでいる貴方が羨ましいって。

 でも私は……その後に嫉妬した。私の好きな人は走る事を何よりも愛しているって事に……そして……私は思ってしまった。

 ……今、彼は愛する物を失ってるって、チャンスだって……」


「……え?」


「……私は最低なの……自分のせいで貴方は走れなくなったのに、そんな事を思ってしまった自分に、そして……そんな事を思ってしまう自分の境遇に気が付いたの」


「境遇……」


「ママの庇護下の元、ママに言われるがまま仕事をしていた。子供の頃からろくに構って貰うこともなく、誰からも愛される事なく生きてきた。そんな自分の境遇を呪った……だから……愛されたいって思ったの、貴方が翔君が走る事を愛したくらいに、陸上を愛してた代わりに……。

 もし私が貴方に愛されたら、あんなにも愛されたらどんなに素晴らしい事なんだろうって、そう思ってしまった。でも直ぐにそれはあまりにも自分勝手だって、最低な考えだって……そう思った……」


「……」


「だから、私は貴方の為に、そして……そんな最低な自分を戒める為に、貴方の元に行こうって、決めた……だから私は私の為に、貴方に尽くそうって……何でもしようって、そう決めたの」


「──そうなんだ……」


「ごめんなさい……私は自分勝手で、そして最低なの……だから私はその償いをしようって、そう思って貴方の元に来た……だから私は貴方から愛される資格は無い……ただ貴方の為に、好きな人の為にって、それだけ為に生きようって……」


「そんな……こと……」


「ごめんなさい……本当に……」

 円は僕から手を離すと、自分の顔を覆った。

 でも、僕はそんな彼女を見て、なんて言って良いかわからない。



 静まり返る浴室、コポコポと檜の浴槽に温泉が注がれる音だけが聞こえる。外の景色はゆっくりと闇に包まれていく。


「嫌いに……なった?」

 円は暫く黙った後、恐る恐る顔を覆っていた手から僕を覗き見て、そう聞いてくる。


「……ううん、びっくりしたけど、それは無いよ、むしろ少しだけ納得したって言うか、そうなんだって……」


「そうって?」


「自分の為って言われて、少し腑に落ちた」


「……腑に落ちた?」

 偽善の偽は人の為にって書く。偽者、偽り、だから僕は彼女を信じられなかった。

 でも、自分の為にって言われて、少しだけ、ほんの少しだけ納得出来た。


「君を少しだけ信じても良いかもって事」

 僕は円の手を取ると真っ直ぐに見つめてそう言った。

 円はホッとした顔で僕を見ている。


「……じゃあ今度は私が聞く番……貴方はどうなの? 翔君は本気で死にたいって、もう何も無いって思ってるの? 貴方のやりたい事って……本当にそれなの?」

 円は僕にそう聞いてくる。今度は真剣顔で真っ直ぐに僕を見つめて……。

 

 

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