第50話 甘い誘惑


 足湯状態で僕と円は温泉に足だけ入れて、ゆっくりと暗くなっていくホテルの中庭を眺めている。

 足から伝わる暖かさが身体に回る。

 5月半ば過ぎとはいえ北海道の夜は寒い、日が沈み徐々に冷え込んで来る。

 その中、タオル一枚を身体に纏っているだけの僕と円、でも不思議と寒さは感じなかった。


 円は恐らくは僕に、嘘偽りのない本当の気持ちを話してくれた。


 そして、次は僕の番だと……そう言った。



「僕も、このままじゃ駄目だってそう思っていた……でも、この2年……陸上以外何も出来ないって思い知らされただけだった……そしてね、不安になったんだ……何も出来ない自分に……」


「……」

 円は僕に寄り添うように隣に座り黙って僕を見つめている。


「だから情けないけど、僕は妹に依存した、妹に甘えた……妹も喜んで僕の面倒を見てくれている……ってそう思い込んだ……僕も最低だよね、そんなわけ無いのに、僕は可哀想な奴って……そう思われていただけなんだ……」


「……」


「円だってそうなんだろ!? 僕を可哀想だって、同情してるだけなんだろ?!」

 僕は少し強い口調で円に言った。色々理由を付けているけど、根本的な事はそれなんだろって……。


「可哀想とは思わない……同情とも違う……」


「じゃあなんなんだよ!」


「うーーん、可哀想ではなくって、可愛い?」


「……は?」


「翔くんは可愛いって感じかな?」


「こ、こんな時に冗談は!」


「冗談じゃないよ? 本当にそんな気持ち、だからしてあげたい、何でも」


「……と、とにかく、僕は何も出来ない……だからそんな子供みたいに思うんだ……」


「ううん、翔くんは男の子だよ?」


「……ど、どこ見て言ってるの?!」

 円の視線が僕の顔から下の方に……。

 冗談なのか本気なのか? いまいち、シリアスになりきれないこの状況に僕は一瞬戸惑う。

 

「あははは、でもさあ、別に何かする必要なんてあるの?」


「え?」


「だって翔くんはもう成し遂げたわけじゃない? 小学生日本記録樹立」


「いや、だってそれは」


「そうよ! だからもう何もしなくて良いんだよ! 無理に何かする必要なんて無いんだから」

 飄々とそう言ってくる円、彼女は一体何が言いたいんだ? 何もしなくて良いなんて、そんなの駄目に決まってるのに。


「いや、だから……妹との関係も、僕の足も、学校生活も、全部壊れたんだよ、壊れた物はもう元には戻らないんだ」


「そうね、だから私がここにいるんじゃない」


 全然噛み合わない円との会話に僕の苛立ちは頂点に達する。


「じゃあ何? 僕はもう何もしなくていいって、君が僕を一生養うって、面倒見るって、本気でそう言ってるのかよ!」


「え? うん、だから初めからずっと言ってるでしょ? 私は一生貴方の側に居るって」


「いや……だ、だって……そんな」


「ねえねえ、ずっとこうやって旅行し続けるってのはどうかな? 海外とかにも行ったりして、世界中を貴方と二人で回るの!」


「そ、そんな事」


「船で世界一周とか良いよねえ~~それとも、あのマンションでずっと二人で過ごすのも良いかも、映画見たりゲームしたり? あーーでも、北海道も良いよねえ、いっそ夏は北海道で別荘に、冬は沖縄のマンション、あ、逆でもいいか、冬はここでスキーとか、スノボとか、夏は沖縄でプールに海、私際どい水着とか着ちゃう! そういう生活もいいかも~~ ねえ? どうかな?」


「だから、ちょっと待って」


「この旅で思った……翔君となら、ずっとずっと一緒にいられるって、絶対に楽しい……」

 円はスッと立ち上がり、ゆっくりと僕の前に回る。

 そして、その美しい身体を、顔を僕に見せつけながら、僕を見下ろしながら彼女は言った。


「貴方に、私の全てを上げる、お金も、身体も、人生も……だから一緒に……いよ?」

 そういうと、円は僕の頭を抱いた。円の胸に僕の顔がフワリと埋まる。

 蕩けそうになるくらいの感触と甘い香りに包まれる。

 身体が弛緩していく、何もかもどうでもよくなっていく。


 このまま流されても良いかも……そんな思いが頭の中を駆けめぐる。

 うん……って、そういう言えば楽になれる……一瞬そう思った。


 でも、結局それは同じ事の繰り返しなるのでは? 妹に甘え、今度は円に甘えているだけ……僕は一生そうやって、誰かに甘えて生きていくのか?



 それが嫌で、死のうって思ったんじゃないのか?



 僕はこの誘惑に乗るわけにはいかない、例え死を選んだとしても……。


「ごめん……」

 円の両腕を僕は掴んでゆっくりと……でも必死の思いで彼女の胸から逃れる。

 

 そしてそのまま円を見上げると、彼女は至極残念そうな顔で、でも優しく僕を見て微笑んでいた。


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