第36話 してあげたのに……。


「え?」

 お兄ちゃんと呼ばれつい振り向いてしまう。

 でも、振り向かなくてもわかる。そこには思った通り僕の妹天が傘を差して立っていた。


「……誰?」

 僕が立ち止まり振り向いた事に少し遅れて気付いた白浜さんは、ゆっくりと振り返る。

 そして、天は僕の横に寄り添い、傘を差している人物を見て、驚きの表情を……浮かべ……なかった。


 何の表情も無い妹……でも僕は妹のその表情を始めて見た気がする。


 喜怒哀楽の激しい子、それが僕の妹に対する見解……そして最近は笑う事が多かった。 

 そんな妹のこのフラットな顔を見て、僕は震えが止まらなくなった。


 何か言わなければ、言い訳をしなければと思ったが何も言葉が出ない。

 白浜さんも事態を飲み込めず黙っている。妹は変わらずフラットな顔で僕達の間を見つめていた。


 僕達3人の間に沈黙が続く。


 しかしその沈黙は近くに落ちた雷の轟音と共に終わりを迎えた。


 妹は差していた傘をポトリと落とすと、そのまま黙って僕達の元にツカツカと歩いて来る。無表情のまま滑る様に……。


 妹は白浜さんの前に立つと……無表情のまま、彼女の顔を確認するかの様にじっと見つめ、そして、暫くの間の後に、手を大きく振り上げると、そのままフラットな表情で、おもいっきり彼女の頬を叩いた。


『パシン』と乾いた音がアタリに響く。


 そしてさらに『パシン』『パシン』と鳴り響く。

 妹の手が横に振られ乾いた音に連動するかの様に白浜さんの顔が左右に振られる。

 

「何か……何か言いなさいよ!」

 その言葉と同時にフラットだった妹の表情が怒りのそれに変わった。

 そして何度も何度も叩き続ける妹に彼女は全く抵抗しない。

 と、止めないと……そう思ったがさっきから僕の身体が思う様に動いてくれない。


 空から再び大粒の雨が降り始める。

 

 そんな雨に構う事なく妹は白浜さんを叩き続ける。


 全く抵抗しない、そして何も答えない白浜 円に業を煮やしたのか、妹は白浜さんの着ていたシャツの襟首を左手で握り、そして右手の形を平手から握りこぶしに変えた。


「や、やめ、やめろ!」

 それを見て、僕は動かない身体を無理矢理に動かし、持っていた杖を二人の間に差し入れる。


「うっさい!」

 その杖を妹は掴むと僕の手から奪う様にして歩道の脇に投げ捨てた。

 そして僕はその拍子でバランスを崩しそのまま水溜まりに倒れ込む。


 何も言わず、何もせず、直立不動のままだった白浜さんは、倒れた僕を助けようと水溜まりを気にせずに僕に寄り添いその場にしゃがみ込む。


「な、何で、何でよ! 何であんたが、何であんたがここにいるのよ! 何であんたがお兄ちゃんと一緒にいるのよ!」

 妹は僕達を見下ろしそう怒鳴った。


 白浜さんは何も言わずに僕を抱き起こす。

 白浜さんの両頬が赤く腫れ上がっているのがわかった。

 だけど、僕は何も言えなかった。

 何も出来なかった。

 白浜さんにも、妹にも何も……。


 空から大粒の雨が降り落ちる。

 周囲には誰もいない……。

 ゴロゴロと雷鳴が響き渡る。


 妹は僕達二人を黙って見下ろす。その妹の顔は怒りの表情から悲しみの、哀しみの表情に変わった。


 妹の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 大粒の雨と共に、頬を伝わり僕の足の上に流れ落ちる。


 妹は目線を白浜さんから僕にゆっくりと移す。

 そして今度は憐憫の眼差しで僕を見る。


「あんなに、あんなに、面倒みたのに、見て……あげたのに」


 その言葉を聞いて僕は頭が真っ白になった。


「そ、そんな……」

 聞き間違い……そう思いたかった、でも妹の言葉は止まらなかった。

 今度は僕から再び白浜さんを見ると鬼の形相で言った。


「返せ、返せよ! お兄ちゃんの足を、将来を、未来を! あんたのせいだ、あんたのせいでお兄ちゃんは、お兄ちゃんは……こんなになったんだ!」


 それを聞いて僕は心が潰れそうになった。


 悲しくて、悔しくて、ショックで、心が潰れそうになった。


 いや、多分……この時潰れてしまったのかも知れない。


 白浜さんは何も言わずに倒れた僕に寄り添い黙っていた。


 そして僕は何も言えず……何もできず、ただその場で雨に打たれ続ける事しか、出来なくなっていた。

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