第3話

その後、僕は仕事の残業が続いたこともあり、なかなか道場へは行くことが出来ずにいた。

出来ずにいたという表現は、行きたいということを前提にしているようであるけれど、そういうことでもない。

信者になるとか後継者になるとか、そんなことはどうでも良いのである。

ただ、あの道場にいる時間が僕にとって、何かのヒントになるような気もするし、或いは、ただ白シャツ管長や怜ちゃんと話をするのが楽しいということであるのかもしれない。

残業で遅くなったので、夕食は自宅の駅の2つ前にある守口市駅でおりて居酒屋にいくことにしようと思う。

帰りの京阪電車の準急に乗り込むと、既に長いシートに座れるスペースは無い。

ドアの近くの吊り革につかまって発車を待っていると、斜め前に座っている60歳ぐらいのご婦人が薄い小冊子を読んでいるのが目に入った。

A5ぐらいの大きさで厚さ5ミリに満たないぐらいの冊子は、市販されているものではないような、どこかの団体が作って配布しているような体裁のものだ。

こんな場合、何が書いてあるのか気になるのは僕だけだろうか。

ちらっちらっと見えるその文字を見ようとするのだけれど、斜め向かいなので一瞬しか見えない。

それでも気になって見ようとするのだから、よほどの覗き趣味なのでありましょうか。

「悲しきPeeping 僕」

そんな小冊子に大きく書かれた題が一瞬見えた。

「キャー、見えた見えた。ドリームさんってエッチー。」

なんて、怜ちゃんがいたら突っ込まれそうだ。

見えた文字は「生きる意味を考えて、、、、。」

あとは分らない。

でも、想像するに「生きる意味を考えることは大切だ。」というような内容ではないだろうか。

素晴らしい。

人間ただ生きるだけじゃなく、どう生きていくかという事が大切なんだ。

そんな風に考える目の前のご婦人は、きっと優しくて正直な人なんだろうなと思った。

そんな人は、僕は好きです。

でも、同時に「そんな本は、今すぐ破ってゴミ箱に捨ててしまえ。」って言いたくなった。

人間に生きる意味なんてない。

ただ生きていればそれでいい。

生きる意味という言葉について触れた本には、「人の為になるような行動をしましょう」とか、「良い行いをしましょう」というような事を書いたものがある。

しかし、これは人間が生きていく上で、その方が円滑にいきますよという工夫でしかないと思う。

純粋な意味での「生きる意味」じゃない。

しかも、人の為になるようなと言っても、1つの行動が、ある人にとって為になるんだけど、ある人にとっては害になるというのがこの世の中なのであります。

それが複雑に絡まってるから余計に厄介だ。

良い行いかどうかも、その人の価値観によって違ってくる。

その前に、そもそも生きることに意味があるのかということについて、考えなくちゃいけないのであって、そんなものがあるとしたら、ただ生きているだけで、生きる意味を達成しているのであると思う。

それに生きる意味なんて理屈を考えようなんてするのは人間だけだ。

他の生き物は、ただ生きている。

ただ、それだけ。

ただ、生きている。

牛に生きる意味を聞いたって、「モー。」答えられる筈はない。

もし人間の言葉が喋れる牛がいたら聞いてみたいな。

「僕はねえ、一所懸命餌を食べてねえ、人間に食べてもらうの。それが生きる意味なんだって神様が言ってたよ。」そんな答えが返ってきたらどうする。

悲しすぎる生きる意味。

とはいうものの、よく考えてみると人間にも生きる意味があるのかもしれない。

人間の根源的なもの。

「欲」

人間として生まれてきたからには、その根源を見つめなきゃいけないだろう。

つまりは白シャツ管長さんが言う、「欲を追及すること。」

今思うと、これこそが人間の生きる意味じゃないかなって思う。

欲がなければこの世に存在することができないのであって、つまりは、生きていけないのである。

欲を持つ存在として生まれて来たのに、欲を捨てましょうなんていうのは、人間としての存在自体を否定する行為だ。

欲を捨てろっていうお坊さんなんかもいるようだけれど、一生かかっても出来ないことをアドバイスしちゃダメだ。

そうだ、欲を追求しよう。

そうして、生きている意味を満喫しよう。

なんてね。

相当に白シャツ管長に影響されているのかもしれないと思うと、笑ってしまう。

ひょっとして洗脳の達人だったりしてね。

とはいうものの、世界中の人が欲を満喫したら、どうなるのだろう。

少々住みにくい世界になるのかもしれないな。


そんなことを考えながら、駅を降りて居酒屋に入る。

カウンターに座ると、まず生ビールだ。

そして、鶏のから揚げを注文。

僕は、鶏の唐揚げには、塩と胡椒と山椒を混ぜて付けて食べるのが好きだ。

濃い味が好きだからね。

でも、その濃い味がビールには合うんだなあ。

さあ、僕はこれから食欲という欲を満喫しよう。

そして、生きる意味を満喫しようではないか。

冷えたビールを流し込んで、から揚げを1つ摘まみ上げて呟いた。

「唐揚げ君は生きる意味を達成したのですか。」

「今、あなたに食べられてるからね。生きてきた意味を達成できたよ。アリガトウ。」

そんなブラックジョークに、苦笑しながら、またビールを流し込んだ。

肉体疲労にはビールが効く。

酒は百薬の長という諺があるけれど、これは名言だ。

いっそのこと、ビールも病院の保険の対象にするべきだね。

サラリーマンは、3割負担。

医者で処方箋を貰って買いにいくのね、酒屋へ。

「先生、まだ疲労が取れないんです。それに最近は毎朝吐き気と頭痛もするんです。」

「じゃ、もうちょっとビールを処方しておきましょう。朝吐き気がするときは、小さい方のビールを飲むようにしてください。」なんてね。

1人で飲みにきて、カウンターで笑いながらビールを飲んでいるのは奇妙に見られているだろうね。


ふと見ると、隣の男性の2人組の1人が刺身を食べようとしている。

仕事帰りのサラリーマンのようで、同期の友人という感じの2人組だ。

「俺のこだわりはね、刺身にこうやってワサビをちょっと乗せてね、醤油をつけて食べるんや。」

同年代だと思われるお連れさんに得意げに説明が続く。

「こうするとね、醤油が濁らないし、、、、。」

僕は隣で聞いていて悲しくなった。

いつからこんなケッタイなことをするようになったのだろう。

きっと、どこかのグルメ作家かグルメタレントがテレビなどで披露したのだろう。

僕には、この食べ方が本当に美味しいのか甚だ疑問である。

確かにワサビの辛さと香りはストレートに味わえる。

しかし、刺身に醤油を片面しかつけることができないし、醤油をつけるときに上に乗ったワサビを落とさないかハラハラしながら食べなきゃいけない。

口中に入れた瞬間も、刺身と醤油とワサビがバラバラで、わざわざ一つの料理を分解して食べているようだ。

ポテトサラダでいうなら、そのまま食べればいいものを、わざわざポテトにハムを乗せてマヨネーズを乗せて口に入れているようなものだ。

「俺のこだわりはねぇ。ポテトサラダなんだけど、混ぜないんだよ。わざわざコックさんに言ってね、別々に出してもらう。そんでもって、ポテトにハムを乗せてマヨネーズを乗せてね、食べるんだよ。」って人はいないだろう。

素材を組み合わせて作るのが料理である。

料理を分解して素材にしてどうするのよ。


とはいうものの、この食べ方を一番始めに考えた人は評価すべきだろう。

素晴らしい。

自分の美味しいと思う方法を考えて発見したのですから。

これは、その人にとっての正しくこだわりだろう。

でも、その他人のこだわりを如何にも自分のこだわりのように発言できるのが悲しいのであります。

とはいうものの、考えてみると、この居酒屋の隣の人はすごく素直な人なんだろうなと思う。

きっとすごく、いい人に違いない。

僕は刺身を食べる時は、醤油に穂じそを、箸でしごいていれたり、紅たでを入れたり、刺身にタダでついてくる薬味を入れて、ワサビを入れて、よく混ぜて溶かす。

そして、刺身に醤油を両面にたっぷりとつけて食べる。

わさびは醤油に溶かさなきゃダメだ。

でも、考えてみると、これも昔むかしにさかのぼってみると、誰かの受け売りに違いないのであるけれど。

そして、こんな僕にはワサビについて、こだわりがある。

こだわりというよりは、好みだろうか。

何かというと、「ワサビは粉わさびに限る。」のであります。

家で刺身を食べる時は、わざわざスーパーで買った缶入りの「粉わさび」を水で溶いて使う。

何故粉わさびかというと、一つは昔から食べなれた味だ。

今でもスーパーではなく、近所の魚屋さんで刺身を買うと、ワサビを小さな薄い紙に挟んで付けてくれる。

これが美味しいんだよね。

食べなれた味はやっぱり美味しい。

もう一つは、チューブのワサビの味が僕には耐え難いのであります。

チューブのワサビを口に入れた時の、ザラッとした感触と塩のからさが堪らなく嫌だ。

最近はチューブのワサビも種類が多く、「生わさび」の表示があるものがあるが、どれも塩の味が強烈だと思うのは僕だけだろうか。

原材料を見ても、「粉わさび」は、西洋ワサビと着色料だけだ。

西洋ワサビはホースラディッシュといって、日本のワサビとは別のものだけど、すっきりとした辛味が嬉しい。

それに比べて、「チューブのワサビ」は、食塩や色んな材料を、ものすごく沢山使用している。

まえに成分表の材料を数えたら、10種類以上の材料を使っていた。

まあ、それは仕方ないとして、わさびの次に材料として沢山の量を使用している「食塩」がつらいのだ。

2番目に書かれているということは、それだけ沢山入っているということだ。

ただでさえ醤油の塩味があるのに、更に食塩で口中に入れたときに「ざら、塩辛。」って感想になるのであります。

僕にとってチューブのワサビは要らないものであります。


隣の2人組の会話が、ちょうど1人で来ている僕の丁度いいアテとなった。

こんなことを、居酒屋のカウンターで考えながら、ビールを流し込むのは、精神的にどうなのだろう、少しばかり食欲に固執しているところは異常であるけれども、僕のひそやかな楽しみでもある。

いい具合に酔いが回って、店を出る。

道に捨てられたスナック菓子の袋が、カラカラと渦潮のように回って風の在り処を教えてくれる。

空気の移動。

普段意識をしないが酸素や窒素などの気体が動くことによって、僕の身体に風として感じるのだけれど、今夜の空気の移動は結構な圧力で僕の背中を押し続けていた。

少し歩くのが楽に感じる背中への圧力を、僕は心地よく感じながら2駅離れている僕の家までふらふらと歩いて帰った。


それにしても、人間と言うものは、風のその空気の中の酸素を取り入れないと死んでしまうという、どうにも面倒くさい生き物である。

そして、その酸素を取り入れることができないと数分で死んでしまうという儚い生き物でもある。

どうして、神様はこんな生き物を作ってしまったのだろうか。

1日中呼吸をしていなければいけないなんて、何かの罰じゃあるまいし。

ただ、意識しないで呼吸できるようにしてくれたことだけは神様に感謝したい。

毎回意識して呼吸をしなきゃいけないのだったら、寝てられないものね。

寝たら死んじゃうよ。

それにしても、最近はこの酸素も体にとって有害な側面があるということを知った。

身体に取り入れられた酸素は、人間が生きてエネルギーを作り出すのに絶対に必要なものである。

それと同時に、副産物として活性酸素という体に悪いものも作り出してしまうのである。

それを知った時は、どうにも不条理な存在であることかと、どこにいるのかは知らない神様を恨んだよ。

絶対に必要だけれど、毒にもなる。

つまりは、薄い毒の入ったご飯を毎日食べているようなものだ。

食べなきゃ死んじゃうけれども、すぐに死ぬわけじゃない程の薄い毒が入っている。

やっぱり神様はサディスティックだね。

そんな神様はイラナイ。


僕はお酒を飲んで酔っ払った時は、チューペットをかじりながら肘をついて横になるのが好きだ。

火照った体をクールダウンしてくれるし、単純な甘さが楽しいのである。

ただ、チューペットを食べると、甘さで喉が渇くときがある。

そんなときは、また水を飲むのであるけれど、何をしてるんだろうねと思う。

神様はサディスティックだとか何とか言ったりするけれど、僕は神様がいるということを信じない。

いてもいいし、いなくてもいい。

その存在するかどうかのカラクリは知りたいのだが、その神様に何かをお願いしようなんてことは思わない。

何故なら、神様が存在するのなら、今の社会のような戦争も終わらない、思いやりのない人が増え、病気で苦しんで亡くなる人ばかりの世界になんてならないだろう。

若しくは、神様が存在しても人間の幸せを願ってはいないし、手助けもしたくない、そういう性質の神様なのだろうと思う。

とはいうものの、人間と言う生き物がこの世に存在しているという事実には、それを説明しようとすると、神様のような存在が必要になる訳で、ダーウィンの進化論なんかじゃ説明が付かないのではある。

学生の頃、人間は神様が作ったなんてことを言っている人、大体において何かしらの宗教を信じている人を馬鹿にしていた。

そんな訳がないのである。

第一、神様がいるなんて、信じられなかった。

でも、じゃ進化論を信じていたかというと、そうでもない。

進化論は確かにある意味説得力がある。

でも、進化の途中途中に、突然変異という厄介なことが何度も起こらなきゃ、人間まで辿り着けないのが難点だ。

猿から人間ぐらいなら、まだ想像の可能な範囲だろう。

でも、魚から人間までなら、遠いよ。

気の遠くなる程、遠い道のりだ。

それに、地球に今生存している人間を見たら、奇跡に近いことが起きている。

何故なら、どこの国の人間も、目は2つ横に並んでいるし、鼻は顔の大体真ん中に付いている、口は鼻の下に1つ付いていて、胴体があって、手や足がある。

もし、進化が環境に適応しながら、そうした突然変異で人間まで辿り着いたなら、人間の全体の10パーセントは目が3つあるとか、鼻の穴が1つだけとかね、手足も4本とか6本とかの人間が存在していても良さそうなものだ。

何も今の人間のこの形が、生きていく上で最適な形だとは限らないだろう。

目が3つあった方が、周りを見やすい訳だし、手が3本あった方が何かと便利そうだ。

でも、実際の人間は、大体において皆同じだ。

そんなことを漠然と考えていると、急に白シャツ管長に会いたくなった。

明日でも道場を覗いてみるか。


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