黒猫
人混みの中に紛れて生きる彼女はさながら影のようだ、または誰かの人生の背景の一部だ。いやこれは詭弁だ。
誰も彼女には目を向けず通り過ぎて行く。肩をすくめて泣き出しそうな状況だって誰も手を差し伸べはしない。
そう、彼女には当たるスポットライトを反射する力がなくなったのだ。それもそのはず、彼女は透明人間なのだ。人の影にも背景にもなれなくなった彼女は己の不遇さに咽び泣いている。
「全部自分がまいた種じゃないか。泣くなんてズルいよね?」
嘲笑うように黒猫が言う。調子の良い猫が。
「そうね、後の祭りだよ。代償もなしに願うがまま、なんて虫が良すぎるもの?」
自販機の隅で泣いている彼女を置き去りにして私は黒猫を抱いて家へと帰る。
数日前。
目が覚める朝4時。黒猫は不在だ。猫はいつもどこに行っているのだろう? そもそも寝ているのだろうか。私の部屋に置いているベッドは使った形跡がない。なのに、私といるときは常に起きている。お気に入りの寝床でもあるのだろうか? それか別の飼い主がいるとか。
「そんなの契約違反じゃないの? ねぇ早く来て。私はもう目が覚めちゃったわ」
私が開けっぱなしの窓に向かって呼びかけると猫は現れる。
「おはよう」
「どこに行ってたの?」
「別に、どこでもいいじゃん」
毎朝同じ質問をしているし、猫は毎朝答えない。私達の関係は、亀裂の入った夫婦のようだ。私が深く追求してしまえばこの関係は壊れてしまうに違いない。
「まぁいいわ。ただ私の仕事の時は絶対に席を外さないでよ」
猫の面倒そうな顔に腹が立ってきた私は強く言いつけた。
「今までそんなことあったかな?」
猫は得意げに答える。私ばかり先走っているようで、小馬鹿にされた事が更に腹立たしかった。
「これくらいで血相を変えないでくれよ。主人だという自覚があるなら」
「それはそれは失礼しましたわ」
私は今日も猫に負けた。魔女と使い魔という関係でありながら。
「日の光を浴びながら朝食なんて優雅だね」
身支度を済ませた私が、バルコニーで朝食をとっていると猫が日陰からそう言った。これは猫にとっての皮肉なのだろう。彼は悪魔だから、日の光にはめっぽう弱い。
「それはそうと、今日の仕事は確認したのかい?」
「ええ、勿論よ。今朝ポストに入っていたじゃない」
「なら良いんだ。しっかりしてくれよ。すぐに血相変えないでさぁ」
猫はいちいち文句を付けて来る。慣れたから良いもの、初めの頃は毎度毎度腹を立ててしまう自分がいたもんだ。
「今回の依頼の主は、相田 美月(あいだ みつき)。18歳。高校3年。2003年の8月11日生まれ、血液型はB型。両親は健在の3人姉妹の真ん中……あぁ、ちょっと面倒な感じね。学校ではそこそこ人気もあるみたいだけど、批判する人もそれなりね。勉学については上の下。運動は並。都会に進学して苦労するタイプかしら……。さて、依頼の内容は、もっと人気になりたい、将来の夢である芸能人になる手助けをしてほしい、ね」
「へぇ、そいつ、ゲイノージンになりたいのか。あの箱の中にいる人間の事だろう?」
「箱の中、確かにそうね」
猫はきっと彼女の事も馬鹿にしているのだろう。芸能人という職業が何か知っているくせに、箱の中の人間だと言うなんて。猫にとって芸能人は滑稽な箱の中の道化師にでも見えるのだろうか?
「そいつ、高校生だろ、今はジュギョーチュウってやつだろ、相応しい時間に行ってやろうぜ」
「分かった」
そう言うと猫は影にその姿を消した。また、どこに行くのだろうか? 知っても知らなくても私にとっては然程変わりないのだろうが、出かけるなら主人に行き先くらい伝えるのが筋なのではないか??
「はぁ」
猫と契約してもう1年になる。けれど未だ契約当初と何も変わらない。それが契約だというのなら、猫にとって私は完全にビジネスライクな存在なのだろう。
あいつには何を言っても無駄だと思う。そうして溜め息をついた私は外に出る事にした。
私の住む県は、都会とは言い難い場所ではあるが、生活に困る程でもなく、娯楽施設も多少はあった。ただ、栄えた場所を離れると街灯の数が極端に減っているから、郊外に住む人たちは夜大変だろうなと思った。
今日の依頼主は、市内で一番有名な学校に通っている。地元の子供たちが多く通うメジャーな高校だ。確かに、そうなるだけはあるだろう。特急が止まる駅は近いし住宅街も多いし郵便局や銀行、スーパー、ショッピングモールなんかも近い。
学校周辺を適当に歩きながら、外に出るのは久しぶりかもしれないと感じていた。私の仕事は基本、依頼主が私の家へ赴いての事だから、出張は稀なのだ、それに今回出張するハメになった理由が、手紙に書かれていた、マップで検索しても出てこないから行くのが嫌との事。時代だなと思った。
現在の天気は曇り。朝はスッキリと晴れていたのに何だか残念だ。猫が晴れを恨んだか。8月と言うだけあって、張り付けにされている街路樹も青々としている。蝉時雨と肌に伝う熱気が鬱陶しい夏だ。
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