モラトリアム

 健全な美智香にとっては衝撃。

謎に思っていた年中長袖のクラスメイトの腕には、大量のリストカットの痕があった。美智香にとって、リストカットというのは、存在すらも高校にあがってやっと知ったようなものだから、しようとも思ったことがないし、かと言って、している人の心境なんて分からないから、否定することもなかったので、実際に、傷を、その人の心の苦しみを具現化したそれを目にするまではどうでも良かった。

そんな謎のクラスメイトはこの春からの転校生で、髪や服の隙から覗く肌は真っ白で、真っ黒で長い髪はサイドテールにセットされている。細い脚はニーハイソックスで覆われている。絶対領域。クラスに馴染めないか、転校してきて数ヶ月。未だに誰かと関わっている様子は見ない。


 美智香はクラスの中で人気の女子高生だ。彼女自身、特別なことをしているつもりはないが、その愛嬌の良さと、綺麗な顔立ちのおかげで、自然と人気者になっている。

「暑い……」

 露出した肌に日差しが突き刺さる晴天。蝉の鳴き声がうるさく耳に付き纏う夏。美智香もまた、その日差しに嫌気をさしている。

「いやー、暑いねぇ! でも今から水泳だよ? まだ良くない?」

「だよねー、でもプールサイドマジ地獄~~」

 取り巻きはキャッキャとはしゃいでいて、楽しそうだ。美智香は水泳が嫌いだった。暑いのが多少紛れるとは言え、体力の消費量が割り合わないと思っているから。

 女子更衣室は楽しげな声で満ちている。夏休みは海に行きたいとか、クラスの誰々君を誘おうよとか。美智香は、水泳はともかく、夏は好きだった。みんなが明るくはしゃぐ季節だから。仲の良い人たちと夏休み前から予定を立てて、いっぱい遊べる季節。だから、お喋りで溢れた更衣室は、嫌いな水泳も耐えて出ることが出来た。


キーンコーン


「あ! 5分前だ!」

「マジ? まだ髪結んでないのに!」

 予鈴が鳴り、更衣室からは人が出て行く。水着と束ねた髪が涼しげだ。

 美智香も移動しようと思ってプールサイドへ続く扉を開けようとしていると、更衣室の扉の音がした。はて? と思い振り返ると、そこにはクラスメイトの可志間がいた。美智香は少しビクッとする。可志間は長く伸びた髪と、年中長袖なことから、クラスメイトからは陰キャというイメージを植え付けられていて、美智香もまた、彼女の根も葉もない噂を聞いていた。

 そんな可志間は今、上着を脱いでいて、真っ白な肌があらわになっている。普段束ねない髪も束ねて、いつもと違う雰囲気を出している。

 まるで、綺麗な幽霊。

「あっ……」

 見惚れていた美智香に気付いた可志間が声をあげる。そして、可志間は自分の左腕をサッと隠した。

「あの……」

「え?! 何?! なんでもないよ!? うん!」

 美智香は自分が可志間に見惚れていたことを隠すように努めて答えていた。そして可志間は、被害妄想に浸っている。

 これが二人の関係の始まり。




「美智香。次の授業は教室移動だよ……? 一緒行こ?」

「うーん」

 机に突っ伏している美智香に、可志間は声をかける。

窓際にある美智香の席からは、校庭がよく見える。木々は葉を落とし、なんだが寂しげだ。雪こそ積もることはないが、気温がぐっと下がれば中々、堪える冬。

暖房の付いた教室は、暖かくて良いものの、昼下がりの午後は、眠気を誘う悪魔だった。

「課題は? 終わってる……?」

「んー……、可志間がやったー」

「そうだね……」

 可志間は、美智香を優しく揺すって起こそうとするが、寝ぼけている美智香に呆れた表情を見せている。


 夏から、美智香と可志間は、友好な関係になっていた。更衣室での一件から、美智香は可志間のことが気になってしょうがなかった。クラスでも人と関わりを見せない可志間は、心に深い傷を負っていて、誰にも言えずに苦しんでいるのかもしれない。美智香はそう思ってならなかったから。でも、可志間は、美智香のことが苦手だった。もちろんそれは、第一印象の話なのだが、自分の話なんて言っても信用してもらえないし、なんなら馬鹿にされ、からかわれるのではないかと思っていた。そういう人種だと思っていた。

 時間はそう長くなかった。可志間は、美智香に対する印象が変わるきっかけがあったから。更衣室での一件の時に、美智香は誰にも言わない。と、そう言っていた。可志間にとってはその一言だけでは信用するのには不満だったのだが、接触することが増えて、何かある度に美智香は可志間にそういった言葉をかけてくれたり、クラスメイトからの風評も、いつの間にか拭い取ってくれていた。

 そうしているうちに、可志間は徐々に美智香に打ち解けて行った。口だけでなく行動でも示してくれる美智香には、今までの人たちとは違う、そう思わせてくれる何かを感じていた。

 美智香は、自分の知り得ない悲しみや苦しみを持っている可志間のことをもっと知りたかったし、楽しいとか、友情とか、そんな浅はかなものでも、自分は知っているから、それを可志間にも知ってもらいたかった。


「もう……、私先に行っちゃうからね? 準備もあるんだから……」

「はーい」

 中々起きない美智香に痺れを切らした可志間は、スタスタと教室を出て行ってしまう。そうしてやっと美智香は気だるそうに頭をあげる。鞄を漁りながら、使う教材を探す。

 教室には数人しか残っておらず、その数人も、今に教室を出ようとしている。

 美智香がのろのろと準備をしていると、以前まで美智香の取り巻きをしていたうちの一人が話しかけてきた。

「美智香。そう言えばさ」

「おー、どうしたの?」

 可志間と仲良くするようになってからは、それまで一緒にいた人たちとは愕然と関わる頻度が減った。もちろん、避けているわけではないのだけれど、自分から関わりに行く時間がなくなっていた。そして、隣には可志間がいることも多くて、周りは遠慮しているのか、話かけてくることも減った。

「最近ずっとあの子と絡んでるよね? うちらのことはもう飽きたって感じなの?」

「いや、そんなことはないよ?」

「じゃあ、何か脅されてるの? 美智香さ、あの子の印象まで変えちゃってさ。美智香が人気者だから、取り入ってるんじゃないの?」

 取り巻きが、険悪そうな表情で、美智香に問う。その表情には、苛立ちとか心配。いろんな感情が混ざっているように思える。

 友達にそんな表情をさせているのは、美智香にとっては予想外のことだった。美智香は、可志間と仲良くなっても、周りの友達とも仲良く今まで通りに出来ているとばかり思っていたからだ。関わりが減っていることに気付かず、裏切られたと言うような、友達の寂しさに気付いていなかった。

「いや、可志間はね、悪い子じゃないんだよ。私は知ってる」

 美智香は、可志間が否定されないように、友達を出来るだけ傷つけないように考えながら言葉を選び、返す。

「そっか……。でもさ、美智香、気付いてる? 美智香も今、ないような噂、言われつつあるんだよ?」

 取り巻きは、苦虫を噛んだような渋い顔で、そう言った。

「え?」

 美智香には取り巻きのその一言が理解出来なかった。それは、周りの友達はずっと変わりなく美智香と接しているからだ。

「あの子と一緒にいるからだよ。真面目ぶっちゃてってね」

「そう思ってる?」

「少しね。嫉妬だろうけど。うちらの美智香だったのに」

 失望までは行かないけれど、落胆。美智香は悲しくなった。普通に接しているみんなの中には、裏では美智香を私物化したような発言をしていて、その次いでに可志間のことをまだ悪く言っている人がいただなんて。純情な美智香には、そんな、当たり前な人の裏さえも、多大なショックだった。

「ごめんね……でも、みんなとも仲良くしていたい……ただ……」

「……いいよ。ただ入れ込まないようにね。みんなのことも、忘れないで欲しいし」

「ごめん」

 美智香が言い終わると、取り巻きは一緒に授業に行こう、と美智香の手を取った。


 美智香と取り巻きの二人が教室を出ようと扉を開けると、可志間に出会った。

「あっ……えっと……美智香、遅いから……」

「あ、あたし先に行くね、またね美智香!」

「え、うん。ごめん」

 可志間が登場するなり、取り巻きはそそくさと行ってしまった。そんなに毛嫌いしなくてもいいのに、と美智香は残念がった。

「さ、行こう? もう先生いるから急がなきゃ」

「うん」


 放課後。美智香は睡魔と闘いながら、なんとか午後の授業を乗り切ることが出来た。冬休みを前に、期末考査前。考査前に寝るのはさすがに不味いから、眠りそうになっては可志間に起こされるのを繰り返し、ここ一週間は過ごしている。

 特に部活もしていない美智香は、学校が終われば真っ直ぐに家へ帰る。可志間とは途中までは一緒の道のりだが、ある程度で別れ、それ以降家までは一人だ。

 まだ18時にもなっていないのに、空は夜の色に染まりつつあった。夏はまだ日が高い時間なのに。美智香はちょっと損をした気分になった。外が明るい時間は、遊んでいても怒られないのに、冬はすぐに暗くなってしまうから。夏が恋しくなった。

 可志間は年中長袖だから、冬になってもその格好は変わらないかと思えば、ニーハイソックスから、タイツになって、薄手のカーディガンは重厚感のあるものに変わった。夏は低く結んだサイドテールだったのが、一見おろしているように見えて、二つに分けられて毛先で束ねられていて、どこかアニメキャラのよう。

「はぁーーーー」

 美智香は遣る瀬無い気持ちを抱えていた。美智香は、もっといろんな人と関わって生活をしたいけど、可志間は人見知りなのだろう。大人数を嫌っている。確かに、あまり騒がしいのは美智香も苦手だが、少しワイワイするのは楽しいじゃない。可志間がクラスや学年のみんなと仲良くすることが出来れば、それが一番いいのだろうが、可志間の意思も尊重するべきで、中々強要する気にもならない。

 帰り道、街路樹が張り付けられたその道は、好きに枝を伸ばせない統制された学生たちのように、見ていて不快なものだった。夕暮れの時間も、影を大きく伸ばすだけで、どこか寂しげな町並みだ。

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