時代系
『虚舟』 【オカルト・時代?】
生命を散らすその瞬間、魂が砕けることがある。砕けた魂は隙間から溢れて彼方へ散って、廻る輪に戻ることなく彷徨うこととなる。
それを集めるものがいる。
***
その晩に、
春。しかし、潮風は冷たく尖っている。波は高く、白い。
夜。月が煌々と光をこぼし、合間に無数の星がさざめくように瞬く。雲はない。
龍之佐は砂の上に
(終わったのだ。すべて、すべて)
終わってしまった。終わらせてしまった。
ふと。
龍之佐はそれを目に映して、姿勢を正した。なにか、得体のしれないものである。波間に見え隠れしながらこちらへと近づく大きな箱――否、あれは舟だ。異国の舟が迷い込んできたのであろうか。或いは、なんらかの見廻りなどをしている奴らでも乗せているのか。いずれにせよ、顔を合わせるのは御免だった。こんな格好、見せられようもない。
龍之佐は手近な岩場にしゃがみこんでやり過ごすことにした。明るい夜、しかしそうは言っても夜だから、おそらく静かにさえしていれば見つけられはしないだろうという気持ちが大きかった。この場から逃げ出さなかったのは、得体のしれぬ舟を近くで見てみたいという気持ちが大きくあったからに他ならない。
そうする間に、それは近くまでやってきた。舟からひとり、顔を出した。
鬼が出るかとも思われたそこから出てきたのは、やたら大柄な異国の者でもなく、或いは役人やらでもなく、どこぞの姫かとも見まごうばかりの美しい女人であった。
女人の表情が一瞬だけ、月明かりに浮かぶ。白い肌、豊かな髪は黒々として僅かにうねり、切長の瞳は伏せられて、縁取る長い睫毛が影を落としていた。
しかし、身に覚えのない恰好をしている。髪は結い上げずに、毛先の方を山吹色の布でゆるく結んでいる。身に纏うのはきっと遠い異国の装束であろう、黒い襟の大きな服に、赤い布を胸元に巻いている。風に舞う衣は膝下で切り取られ、真っ白な脹脛を夜風に晒した姿は、常ならば品のない娘だと思っても仕様のないことである。
それなのに、そんな気持ちはちっとも湧いてこなかった。むしろ、甘美なものに映る。
月明かりを伴った女人は、天女のようで、妖物のようで、ここのところ凪いでいた龍之佐の心を掴んで強く揺さぶった。
待てどもほかに人の姿はなく、女人は砂を踏みしめるとまっすぐに歩き始めた。龍之佐は迷った末、
「もし」
その場で立ち上がると声を張った。女人が顔を上げる。そこに己以外の存在が在るのだと、初めて認識したような素振りだった。女人は立ち止まって、小さく尋ねた。
「斯様な夜に、斯様な場所で、私に声をかけられるとは……。どなたさまでありましょうや」
なんと、流暢な言葉が返ってきた。言葉が通じないのはそれはそれで困るのだが、通じても困る。
女はじっとこちらを凝視していた。
「どなたさまで?」
「いや、その、俺はしがない旅の者だが――――否、俺のことなんぞはいいのだ。俺はあなたについて聞きたいのだ。このような夜分にひとりで舟遊びをされていたのか」
「いいえ。舟にてお迎えに来たところでございます」
「こんな晩にか。誰を?」
「さて、わたくしにもまだわかりませぬ」
女人は惚けたことをいう。さては高貴な身分の男と駆け落ちでもするか、しかしそれにしては落ち着いている。或いは追われる身の誰かか──。
「貴方は何処から来られたのか」
「遠いところよりまいりました――――」
女人は想定外に、ハッキリとした口調で答えた。
「そこな
「舟にございます。あなた方が、ものを乗せ、どこへなりかと流す入れ物をそう呼ぶのであれば、こちらは間違いなく舟と呼ばれるに相応しいものであるかと」
「そうか」
「はい」
会話が途切れる。
龍之佐は腕を組んだ。何処から来て、誰に会いに行くかも明かさないこの女人は、やはりやんごとなき姫君なのだろうか。或いはやんごとなき身分の男の愛人なのか。何らかの理由でひとりでいるところに、出くわしたのか。その不自然さに気がつく前に、違和感は潮騒に掻き消された。
龍之佐はにこりと笑んだ。兎にも角にも、この女は金持ちだろうと踏んだ。身につけた衣は布地が厚く、全体的に見て小綺麗に纏まって、きっと相応の身分にあることは明確だった。
「よし、何処へ行くつもりだ、俺が送ってやろう」
「それには及びませぬ」
「否、否、遠慮をするな。娘が斯様な晩にひとりでおっては危なかろう」
「この舟がわたくしの家でございます」
女人は当たり前のように言った。
「お迎えに上がるため、陸に上がっただけでございます」
「それが誰かもわからぬのに、か」
「この舟に乗りたい方こそが、わたくしのお迎えする方でございます」
女人は真面目くさった顔でそんなことを言った。
「なれば、俺が乗ると言えばどうなる」
「あなたがわたくしのお迎えする方になりましょう」
「よし、じゃあ、俺だ。俺が乗る」
「まあ……」
女人の表情に初めて動きがあった。ふうわりと、緩んだ。それを見て尚のこと、龍之佐は心の臓を鷲掴みにされたような気になる。
「何処へ行くかもわからぬのに、よろしいのですか?」
「何処へなりとも連れてゆけ」
女人は笑い声を上げた。
「あなたさまは、とても愉しいお方でいらっしゃる」
「なに?」
「六文にございます」
「な、何が」
「渡賃でございますよ」
女人は甘い声で紡ぐ。
「河を渡って彼方に行くには、六文。途中下船はお断りしております」
「なんと……ま、待て、そうか」
甘い香りが鼻につく。龍之佐は我に返った。夢見心地が、一気に醒めて背中を汗がつうっと流れた。六文銭を要求する、この奇怪な舟は何処へ流れて行くのか――――。
「やめておく」
慌ててそんなことを言う。
「何故」
女人は動かない。首を傾げたまま、男を見つめる。
「俺はその舟には乗れぬ」
「何故」
「そ、そも、貴方の探し人ではないからだ」
「いいえ、いいえ」
「否や、否や、現に俺の名すら知らぬであろう!」
「いいえ」
女人は笑んだ。こちらに向き直る。美しい姿で、しかし、その頸元と両手は真っ赤に染まっていた。ざぶざぶと、洗い流したはずのその赤色に龍之佐は息を呑んだ。白い爪先が砂を踏んで段々と距離が近づく。恐ろしいのに、悍ましいのに、目を離せない。赤い、赤い、唇が弧を描く。
「す、すまぬ、人違いだ、話しかけたのが間違いであった」
龍之佐はせめてもの抵抗にと、そんなことを言ったが、既に女人に手を取られていた。ひんやりとした手が前から後ろから横から下から上から伸びてくる。
「な、な――――」
女人は美しく礼をひとつ。
「お迎えにあがりました、鯉淵龍之佐さま」
目の前に赤色が広がる。龍之佐の意識がプツンと切れた。
***
男を乗せて、舟はゆったりと黒い水面を走り出した。すいすいと、まるで魚のように波間を縫う。一路、月明かりの道を真っ直ぐに進む。
揺れる舟の内部は、一見した印象よりは広く造られていた。男は眠ったように首を垂れて、微動だにしない。ぱらりぱらりと乾いた紙を捲る音だけが響いている。
この広大な河の渡守としてこの舟を繰ること幾星霜、延々と彼女は罪人を舟に乗せ、遠く遠くへと流している。
舟賃はたったの六文、生命の運搬料としては安すぎる。
人は、幾片もの欠片に散って、生を繰り返す。別の人間になる人、同じ生を繰り返す人、数多の空間を渡り歩いて、時を渡り歩いて、それを残らず捕まえ、舟に乗せ、彼方に運ぶのが女の生業だった。彼女だけではない、同じような存在は無数にいる。
「おまえさまは随分とばらばらになってしまわれて…………あと幾つ、おまえさまを集めれば良いのやら」
ふう、と息を吐く。
砕けたものを、集めて煮詰めてひとつにする。
そうすることで、魂を修復し、次なる輪へと送り出す。
「舟が辿り着く先が地獄か極楽か、さてさて、蓋を開けるまではわかりませぬ。せめてその瞬間まで……よい夢を」
【ここまで】
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