010 ロシア ルジニキ・ダンジョン エリア88
ロシアはモスクワ、国内最大の球技専用競技場ルジニキ・スタジアムを含む、ルジニキ複合スポーツ施設。その一角にあるフットボール場2面は、クラスHダンジョンに飲み込まれた。そこは今ではルジニキ・ダンジョンと呼ばれている。
ルジニキ・ダンジョン、エリア88。葉のない巨木が乱立する雪山を、冬季装備の軍人たちが歩いていた。彼らがダンジョンに入ってから、すでに3か月が経とうとしている。
ルジニキ・ダンジョンに限らず、ロシアに存在するダンジョンは環境が厳しい。レベルCから雪原エリアが登場し始め、レベルFは半分がそうだ。そして彼らがいるレベルG、これまで経験した33のエリアのうち、28が雪原もしくは氷原だった。
積もった雪が増えることはないものの、エリアが無人になると、かき分けた雪は元に戻ってしまう。復元型エリアと呼ばれるものだ。それがエリア突破を阻んでいた。
樹木は復元しないことが判明しているので、それに道標を刻みつけることで、少しずつ攻略してきた。初めて突入するエリアを突破するのに1か月かかることもあった。
この隊が3か月でここまで来られたのは、別の隊も合わせて命がけで構築したルートがあってこそだ。
クラスHが存在する34か国中、攻略速度はロシアが最も遅い。政情不安定な国や、資金の少ない国よりも遅れている。現在、レベルG未攻略の国はロシアだけだ。それもこれもダンジョンの環境が厳しすぎるからだ。
ロシアに限らず、北方に存在する国や地域のダンジョンは過酷と言われる。しかし、それらの場所にあるのはクラスHではない。何より、ここまで雪原の割合が多いダンジョンはロシア以外に存在しない。
「洞窟を見つけました」
戻ってきた偵察要員の1人が隊長に報告する。それを聞いていた隊員たちに、やや安堵の表情が見えた。
隊長は「よくやった」と偵察員をねぎらい、全員を見渡す。
「聞いたな。エリア門はそこだろう。あと1エリアだ。クソ門番にデカイのをブチ込むのを楽しみにしていろ!」
ルジニキ・ダンジョン先行攻略隊の一員、ヴァシーリーは疲れ果てていた。これで洞窟に転移門がなかったら、心が折れてしまいそうだ。
今日は1月10日。3日前はクリスマスだったというのに、家族と会うために帰れるわけもなく、モンスターと殺し合いをしながら雪原を歩いていたのだ。ささやかなものでもいいから嬉しい出来事が欲しい。
雪原エリアは樹木に葉がないおかげで、視界はそれほど悪くない。もちろん太い幹があるので良好でもない。それでも、あの緑の転移門は白い世界では目立つ。それがどこにもないのだ。意味ありげに存在している洞窟にないはずがない。これまでのエリアでも同様のことはあった。
攻略してきたエリアを思い出すと怒りが湧いてくる。エリア83の氷原では、クレバス内部の横穴に転移門が存在していた。76では雪に埋もれた転移門を掘り出さなくてはならなかった。発見した隊員は、よくあれらを見つけたものだと思う。
過酷なうえに、転移門が見つからない。それで攻略が進まないのだ。
「おい……おい、ヴァーシャ! 大丈夫か?」
ヴァシーリーはそれほど長く回想していたつもりはなかったが、ドミトリーが心配そうに見ている。疲労で倒れそうにでも見えたのかもしれない。
「……問題ない。クレバスを降りたときのことを思い出していた」
「なんてろくでもないことを思い出してるんだ。やめてくれ」
ドミトリーは心底うんざりしたような顔で、顔の前を払うように手を振った。
そこに2人と同班のエカテリーナがやってきて声をかける。
「2人とも、移動するよ」
「まあ聞けよカーチャ。ヴァーシャのやつ、クレバスの話をしやがったんだ」
「なんであたしにまで聞かせる?」
「俺だけ聞くのは不公平だからだ。思い出は分かち合わないとな」
「……お前、次に狼のモンスターが出てきたら餌にしてやる」
ドミトリーは「おお怖い怖い」と言いながら、自らの体を抱くようにして移動を始めた。すでに隊は5メートルほど離れている。
それをエカテリーナは呆れたような目で見ていた。
彼女は平気な顔をしてクレバスを降りていたが、やはり怖かったのだろうか。そうだとしたら、彼女でも怖いのだから自分が恐怖を感じたのもしかたがないとヴァシーリーは納得した。
「ヴァーシャも、余計なことを考えるのは安全を得てからにしろ」
ヴァシーリーはうなずいて、銃を担ぎ直す。目で合図を送り合い、2人も歩き始めた。
*
隊は洞窟に到着した。途中、狼型モンスターの小さな群れに遭遇したが、問題なく撃退した。誰もが最小限の弾丸消費を心がけている。〈格納〉に加えて〈格納拡張〉を使っているとはいえ、弾丸は有限だ。無駄にはできない。そもそも武器弾薬以外の物資を考えると、大量には持ってこられない。
ヴァシーリーたちは洞窟の入り口を囲むように半円を描いて並んでいた。多くの隊員は外側を向いて警戒している。
隊長を含む一部のみが、洞窟のそばで先行班の連絡を待っていた。
突如、洞窟の奥から小さな破裂音が届いた。最初に音がしてから、断続的に聞こえてくる。
銃声だ。
隊長がトランシーバーを握りしめ、暗い穴を見つめている。
「転移門の前に機獣! 熊型! 引き返す! 迎撃用意! オーバー!」
焦った声がトランシーバーから響く。途切れ途切れの通信は、待機中の隊員たちの緊張感を増すのに十分なものだった。
隊長はなるべく接近させないように戻ってこいと伝え、外の隊員たちに指示を出す。
「RPGの準備だ。念のため2発用意しろ。外側の警戒はアリク班がやれ。他は戻ってくる連中のサポートと、機獣の迎撃だ」
指示を受けた隊員たちは、それぞれの持ち場につく。外側への警戒ラインは人数の関係で薄く広く伸ばされた。
ドミトリーが〈格納〉から無反動砲を取り出し、対戦車榴弾をセットする。彼は補助の役割で、最初に撃つのは別の班の隊員だ。
この武器はエリア89の門番のために用意されているのだ。ここで大量に消費してしまえば、引き返すことになる。
(一発で決めてくれよ)
ヴァシーリーはドミトリーの周囲を警戒しながら願った。
レベルGで各国の軍や防衛組織を苦しめているのが機獣と呼ばれるモンスターだ。金属の体を持つ動物で、基本的には地球生物を模している。少なくとも、各国はそう把握している。
機獣には名前がない。このようなモンスターは全て機獣だ。〈情報リクエスト〉でそうなっているのだ。
それでも、見た目や行動には違いがあるため、それらを使った呼び名が用いられている。
ヨーローッパ系言語では金属獣とも呼ばれるが、これはリクエスト結果が「金属で構成された機械じかけの動物」と読み取れることが理由だ。
ごく一部はレベルFでも出現するが、まるで「こういうモンスターがこれから出始めますよ」とでも言わんばかりの中途半端な強さだ。剣や槍では苦労するかもしれないが、5.45mmで問題なく貫ける。拳銃でも倒せるだろう。
しかし、それらは
熊などのサイズになれば、小銃で倒すのは難しい。大型になると、装甲の隙間ですら硬いのだ。何度も同じ場所に当てれば抜けるだろうが、相手は動いている。
そうして各国が考え出したのは、門番のように倒す必要のある相手は対戦車兵器で瞬殺し、そうでなければ逃げられるタイミングで逃げるという方法だった。さまざまな戦い方が試されているが、それが基本となっている。
補給の問題が解決されないかぎり、大型機獣と積極的に戦うことは難しい。それができるのは、人員を大量投入できる非常に限られた国だけだ。
ひとつだけルジニキ・ダンジョンのいいところを挙げるならば、レベルGに機獣が少ないことだろう。機獣は重いからか、雪原にはほとんど出現しない。出てきても軽量小型だ。小銃で対応できる。
もっとも、氷原になると当たり前のように中型が出てくるので、あくまでも少ないというだけだ。
洞窟からの銃声が大きくなってきた。かなり近そうだ。
ドミトリーはRPG-7を構え、その隣では後方確認のエカテリーナが待機している。
先行班が洞窟から出てきたが、何人か姿が見えない。
無事に脱出できた隊員が、彼らの死を報告した。犠牲があったからこそ、無事に出てこれたのだと。
洞窟からは、もはや銃声は聞こえてこない。
代わりに出てきたのは、つや消しの黒い金属の皮膚を持つ熊だった。
手と口が赤く濡れ、そこだけが光を反射している。
「撃て!」
隊長の命令とともに、対戦車榴弾が発射される。
目標までの距離は約20メートル。打ち出された弾頭は、固体燃料ロケットにより空中で加速。熊型の胴体に接触すると、激しい爆発を起こし、その金属の体を深く穿った。
モンスターが粒子となって消えていくのを見ながら、隊長が機獣は1体だけかどうか確認していた。
先行班の生き残りによると、洞窟は一本道だそうだ。その終点にあった転移門の前で遭遇したのだから、他にはいないはずだと説明している。
「クソ、ふざけんじゃねえ! さっきのやつウクライナの門番じゃねえか!」
発射せずに済んだ榴弾を片付けながらドミトリーが愚痴をこぼす。
ヴァシーリーも知っている。ICESが公開している情報だからだ。ドミトリーの言うとおり、先ほどの熊型機獣はウクライナにあるクラスHダンジョンのエリア89門番にそっくりだった。画像はなかったが、日本も同じタイプの門番だったはずだ。
それがなぜここにいるのか。
(ここは……きっと他のダンジョンとは違う)
機獣から出た産出物を集める隊員を視界の片隅に収めながら、ヴァシーリーは雪原を睨みつけた。
命を落とした隊員を運び出した部隊は、洞窟近くの雪原に彼らを埋葬した。墓標の代わりは彼らの持っていた小銃だ。機獣にやられて銃としての役割は果たせないが、役立てることはできる。
ここは墓だが、将来的には転移門の目印になるだろう。
残念ながら遺体は持って帰れない。それほどの収納力を持つ〈格納〉持ちがいないのだ。そしていまだに〈特殊格納〉が手に入っていない。
ロシアは
(また減ってしまった)
黙祷をしたヴァシーリーは、同じ隊の仲間が減ることに慣れている自分に気が付いた。小隊結成時の隊員で、現在まで残っているのは半分ほどだ。
モンスターに殺され、過酷な環境に負けて目を覚まさず、そうでなくとも心を壊されて去ってしまう。
「あたしは死なない。エリア89も、144も、全部突破して笑ってやる」
「ああ……きっとそうなるさ」
エカテリーナの決意に、ヴァシーリーは静かに、しかし強い気持ちで応えた。
彼らは何のために進んでいるのか、どうして戦っているのか、何も知らない。
それでも攻略しろと言われたらやるしかなかった。
*
攻略隊は転移門を抜ける前に洞窟内で休憩を取った。雪のない地面は久しぶりで、違和感を覚える隊員もいたほどだ。
到達したエリア89は土の地面だった。雪も氷も見当たらない。地形は丘陵で起伏が多い。
まったく草の生えていない地面だが、ところどころに葉のない巨木が天を突いている。
全員が転移門をくぐり終えたのを見計らったかのように、ヘラジカ型の機獣が丘の向こうから駆けてきた。
動物としてのヘラジカはシカ科の最大種だ。それに倣った機獣も巨体を持つ。肩高は2メートルを超えているだろう。
指示を受けた1人の隊員が対物ライフルASVKを取り出し、地に体を伏せる。彼はボルトハンドルを操作すると射撃準備を整えた。
12.7mmの対物ライフルならば、大型機獣とも戦える。当てれば勝ちが確定するわけではないので、一発で決めたい場合には向かないが、今は有効な場面だ。
ヴァシーリーは転移門から出て右側を警戒しているが、正面から来たヘラジカ以外にモンスターは現れていない。
転移門をくぐってすぐに群れで襲ってくるモンスターに遭遇したこともあるので、エリア移動直後は危険だと分かっている。彼は他のダンジョンを知らないが、ルジニキ・ダンジョンでは何度か経験しているので集中を切らさなかった。
発射音が響いた。
機械仕掛けのヘラジカが吹き飛ばされる。しかし起き上がろうとしているのが遠くからでも分かった。致命の一撃にはならなかったようだ。
そこに「もう一発だ」と指示が飛ぶ。射撃手は余裕を持って再び狙いをつける。
結局、ヘラジカ型機獣は2発の弾丸を叩き込まれて動きを止めた。
射手はライフルを素早く確認すると、弾倉を外して弾丸を込め直した。
隊は丘の上へ移動し、そこから見えた荒野まで移動した。拠点を築き、エリアの探索を開始する。
雪原では荒野も雪をかぶって境目が分かりづらかった。木があるかないかでしか判断できなかったのだ。それがここでは地面を見れば分かる。それだけでも精神的な負荷が異なるとヴァシーリーは実感した。
攻略隊が門番の部屋への転移門を見つけたのは、それから約1週間後だった。運も味方して、ルジニキ・ダンジョンにおけるレベルGエリア最短記録での発見となった。
このエリアのモンスターで敵となるのは2種。ヘラジカ型と狼型の機獣だ。
ヘラジカ型の機獣は単体で行動している。小銃では難しい相手だが対物ライフルが活躍した。幸いにして、この機獣の数は少なかった。
しかし狼型の機獣は最低でも3体の群れで襲ってくる。5.45mmでは厳しい大きさの装甲型だが、そもそもレベルGでの主力は5.45mmではなく7.62mmだ。手こずりはしたものの、大きな問題を起こさず撃退した。
これまで環境に苦しめられてきた隊だが、ここには安全な気温と安定した地面がある。少々モンスターが強い程度では、苦労はしても犠牲者を出すほど追い詰められることはなかった。
門番は虎型の機獣が3体。アムールトラを模しているのだろうと誰かが言った。
乾ききった固い地面で構成された門番の部屋で、数十メートル向こうから急接近する機獣をRPG-7で撃破。勝負は一瞬で決まった。
これはよくあることだ。門番とはいえ、エリアに登場するモンスターより少し強い程度。門番の部屋では邪魔が入らない上に強力な兵器を使えるのだ。環境がまともなら負ける要素はない。
隊員たちはモンスターが消えた地点に近づくと、産出物を回収した。
そこにあったのはチケット数枚、
薬品は〈神経伝達向上フィルム〉と〈聴覚拡張フィルム〉の2種類だ。
そうしてルジニキ・ダンジョン先行攻略隊は、ようやくエリア89チェックポイントへのエリア門をくぐることに成功する。クラスH保有国の中で、最後のレベルG攻略だ。
ダンジョンが出現してから3年5か月余りが過ぎた日のことだった。
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