第102話 帰還5




 俺は薄暗い世界に来た。


 瞼越しに薄っすら外の明るさが分かるような薄暗さだ。


 もしかしてジョアンの肉体に戻ったのだろうか。


 リョーコの笑顔を胸に刻んで全ての記憶をリセットされて次の世界の何かの生物に宿る覚悟はできていたんだが……


 でも、あれだけ苦しかった呼吸も楽になり、脈動する頭痛もなく、体の節々の鈍痛も無くなっている。


 ただ、へその上の辺りの腹に鈍い痛みを感じる。


 もう死ぬ直前の、苦痛を感じない状態になっているのかな……?

 なら、これで意識を失えば次こそ記憶リセットされて次の世界なんだろうか。


 瞼を開けてまだ目が見えるなら、ずっと俺の看護をしてくれていたのが誰かわかるだろうか。


 せめて、その人、或いはその人たちに感謝してこの世界を去りたい。


 何日間かわからないが、俺の汗を拭き排泄物の処理をし、着替えをさせてくれていたのだろうから。不眠不休とは言わないがかなりの時間ついていてくれただろうし。


 ピアかドノバン先生か、リューズか、森から連れて来たばかりのフェリも手伝ってくれていたかも知れないな。


 ありがとうって伝えないとな。


 本当にこの世界の皆は、俺に良くしてくれた。


 王子っていう立場だからかも知れないけれど、それを超えて一人の人間としても認めて親しんでくれていたと思う。 


 この世界でもっと生きていたかった……


 ラウラ母さん、アデリナお祖母ちゃん、イザベル母さん、ジャル、パパ上。

 家族にも恵まれた。


 多分まだ全然王族としての厳しさ、責任やら決断やらを経験するような年じゃなかったからだろうけど、みんな優しくしてくれた。


 ラウラ母さんが俺を産んだ母親じゃなかったら、俺は今頃完全な引きこもりか自分で死んでいるかしていただろう。


 ラウラ母さんにも「産んでくれてありがとう」って伝えたかったな。


 看護してくれていた誰かに、ラウラ母さんへの伝言を伝えてもらおうか。言葉を発することができれば。


 俺は目を開けようとした。


 俺が思う以上に、すんなり目が開いた。


 目ヤニでバリバリすることもなかった。看護してくれている誰かが丁寧に拭いてくれていたんだろう。


 俺の開いた目に入ってきたのは、半年過ごした代官屋敷の見慣れた天井と、緑の髪のリューズと、ブラウンの髪のピアが俺を覗き込んでいる顔だった。


 「 ! 奥様、坊ちゃんが意識を取り戻しました!」


 ピアがそう言って部屋の中の誰かに声をかける。


 「ジョアン! 良かった……」


 リューズが俺の顔を覗き込みながらそう言って、涙を流した。

 そう言えばリューズの涙を見るのは初めてだ。


 そして、さっきまでピアが俺を覗き込んでいた位置に、ピアと入れ替わるように懐かしい女性の顔が現れた。既にその人は涙ぐんでいる。

 その人は無言で俺の顔を両手で挟み、ゆっくりと俺の呼吸を妨げないよう注意しながら胸に抱きしめてくれた。


 数年ぶりにその人の甘やかな胸の香りが優しく俺を包みこむ。

 それは俺にとって幾つになっても絶対の安心感を感じさせてくれる香りだ。


 俺を抱きしめているのは、ここに居る筈のないアレイエム王国第二王妃ラウラ=ニールセン、ラウラ母さんその人だった。


 「ラウラ母さん、どうしてここに……?」


 俺はそうラウラ母さんに尋ねた。


 俺の声はまだ喉の水分が足りていないためかカスカスに掠れた声だ。


 ラウラ母さんは俺の声を聞くと一旦抱いていた俺を抱き起し、隣にいる誰かから陶器の吸い飲みを受け取ると、俺の口に含ませた。


 「ジョアン、ゆっくりと口の中を潤わせるように飲んで」


 ラウラ母さんはそう言ってゆっくりと吸い飲みの中の液体を少しづつ飲ませてくれる。


 吸い飲みの中の液体は前世のスポーツドリンクを薄めたものの様にほんの少し甘酸っぱい。


 リューズが作ってくれたのかも知れない。


 常温のその液体を俺は少しづつ口の中を潤すように飲み込んだ。

 徐々に体が潤って行く。

 吸い飲みに入った液体を俺が全て飲み干したのを確認すると、ラウラ母さんはまた俺をゆっくりとベッドに寝かせた。


 心地よい眠気で俺はまどろみそうになったが、伝えたいことは伝えられる時に伝えておかないと、再び伝える機会が巡って来るかどうかわからない。


 リョーコに想いを伝えることができた、あんな奇跡は何度もある訳では無い。


 「ラウラ母さん、ピア、リューズ、看病してくれてありがとう」


 「そしてラウラ母さん、私を産んでくれて、ありがとう」


 俺は自分の気持ちをそう言葉にすると、眠りに落ちた。


 たとえこれで俺が死んだとしても、思い残すことは無い……







 これでこの世界からおさらばか、と俺は思っていたが、目を覚ますと普通にまた代官屋敷の天井が目に入った。


 時間は夜になっているらしく、蝋燭の明かりが天井を照らしている。


 どうやら最初に目を覚ました時の俺は死ぬ直前の痛み苦しみから解放された状態ではなく、普通に治っていたらしい。


 上半身を起こしてベッドの上に起き上がる。

 体はしばらく動かしていなかったためか、少し筋肉がこわばっている感じと、へその上あたりに引き攣れたような痛みがあるが、苦痛という程ではない。

 やっぱり、夢ではなく、俺はこの世界に戻ってきたのだろう。


 俺の寝ている掛布団に突っ伏してラウラ母さんが眠っていた。

 ラウラ母さんは俺が起き上がるのに気づいて目を覚ました。


 「ジョアンを看病していたのに、ついうとうとしてしまったわ。ごめんなさいジョアン」


 そう言ってラウラ母さんは一度意識が戻った時のように俺を抱きしめてくれた。


 一度目を覚ました時には気づかなかったが、ラウラ母さんは普通の少し裕福な商家の奥さんといったワンピースを着ている。

 ラウラ母さんの向こうにラウラ母さんの侍女のアルマが控えているが、アルマも侍女の制服の上にエプロンを着けており、上級メイドのような装いだ。

 俺がデンカー商会の息子という偽った身分でフライス村に滞在していることに、ラウラ母さん達も合わせてくれたのだろう。


 王宮で見る着飾ったラウラ母さんも素敵だが、俺はこの庶民的な服装のラウラ母さんに安らぎを覚えた。


 「気にしないで、ラウラ母さん。私の看病で疲れてたんでしょう? でもどうしてラウラ母さんがここにいるの?」と俺は尋ねる。


 フライス村には悪いが、王都に居る筈の第二王妃が来るような場所ではない。それに俺が熱を出してから王宮に誰かが手紙を出したとして、その手紙を読んでラウラ母さんが駆けつけてきたとしても、どんなに急いでも手紙を出してから10日はかかる筈だ。 俺は10日間も熱で寝込んでいたのだろうか?


 「ジョアンがコタツ工場長のヘルマンに手紙を出して、エルフに贈る贈答用のコタツを送って欲しいって書いてたでしょう? 返信には何も書かなかったけれど、私が持って来て驚かそうと思ってたのよ。それに非公式だけれどエルフの方にご挨拶をと思っていてね。当然陛下もご存じよ」


 そう。確かにハールディーズ領に滞在中、俺はヘルマン氏に贈答用のコタツと、それと田舎でも独立したいという意思のある木工職人が工場従業者の中にいないか問い合わせる手紙を書いていた。


 それに対しての返信はヘルマン氏から受け取っていて、10月3週くらいにコタツが届き、職人の方も目途がついたので、コタツと共に職人1人と徒弟3人が来ると書いてあった。


 ラウラ母さん宛には定期的に様子を知らせる手紙を出していたが、ラウラ母さんからの手紙にはコタツの件は何も触れていなかったので、てっきりライネル商会の荷馬車で運ばれてくるものだと思っていたのだ。まさかそんなサプライズを仕掛けようとしていたとは。


 「アルマ、ジョアンに何か飲み物をちょうだい」


 ラウラ母さんは侍女のアルマにそう伝える。


 「ラウラ母さん、飲み物は吸い飲みじゃなくて普通のカップでいいですよ。もう大丈夫だと思います」


 「わかったわ。アルマ、飲み物は普通のカップでお願いね」


 ラウラ母さんがそう伝えると、ラウラ母さんの侍女のアルマは手元の水差しからカップに飲み物を注ぎ、ラウラ母さんに渡した。


 「ジョアン、ゆっくり飲むのよ」


 ラウラ母さんはそう言って俺にカップを手渡す。


 俺はそのカップを受け取ると、口を着けゆっくりと中の液体を飲んだ。

 一度目が覚めた時に飲んだものと同じらしく、スポーツドリンクを薄めた物のような味だ。


 カップの中の液体を飲み干すと、俺はカップをアルマに返した。


 「ジョアン、何か食べられそう?」


 ラウラ母さんが尋ねる。


 空腹という程ではないが、食べようと思えば食べられる。


 「何か軽い物なら食べたいです」


 俺がそう返答すると、ラウラ母さんはアルマに「アルマ、重湯を持ってきて」と伝える。


 アルマは重湯を貰いに部屋から退出した。


 「目が覚めた時にラウラ母さんが居てくれて凄く安心しました。でも、ラウラ母さんがここに居る筈がないって思ってましたから、てっきり夢なのかって思ってました」


 「ジョアンを驚かそうと思ってヘルマンにも手紙には書かないようにお願いしていたし、私からの手紙にも書かず黙っていたものね。

 でも来て良かったわ。私がここに着いたら、ジョアンが熱を出して臥せっているっていうんですもの……多少でもジョアンを治す手伝いができたから……今思えばリューズさんが居なかったら、多分ジョアンの命は天に召されていたのでしょうね」


 「リューズが? 私の病気を治すのにリューズが知らない魔法でも使ったってことなのですか?」


 「魔法、もあるわね。治癒魔法は私も使えるけどリューズさんも使えるから、治癒魔法の使い手が二人いなかったらジョアンは助からなかったわ。

 それにリューズさんが持ってきてくれた『生命の木』の新芽が無かったらジョアンは助からなかったし、水も食べ物も受け付けないジョアンに、リューズさんが指示した処置をしなかったとしてもジョアンは助からなかったのよ」


 どんな治療をしたというのか。


 『生命の木』の新芽、というのは言葉の響きで何となくゲームの世界樹の葉のように死者を蘇らす効果がありそうだけれど。 


 「リューズがどんな処置をしてくれたのですか?」


 「……かなりショッキングな方法よ。私は最初にそれを聞いた時にはリューズさんが何を言っているのかわからなかったの。私の可愛いジョアンをこれ以上傷つけるなんて……って」


 「ショッキングな方法?」


 「ええ。母親ならとても許せない方法。もしも貴方が命を落としていたとしたら、私はリューズさんを許さなかったと思うわ」


 俺は意識を取り戻した時に、上腹部に鈍い痛みがあったのを思い出した。


 「もしかして、私の腹を割いて、胃の中に『生命の木』の新芽を消化しやすい状態にして入れたのですか?」


 「……ええ、そうよ。『生命の木』の新芽自体は、どんなに病気で弱っている生物でも摂取すればたちどころに回復する作用があるもの、らしいわ。

 リューズさんはジョアンのためにそれを森まで取りに行ってくれたの。お父さんの許可が必要ってことで、一度お父さんの元まで行って、それから『生命の木』まで新芽を摘みに行って、2日半かかって持って来てくれたの。

 蒸して柔らかくすり潰した『生命の木』の新芽をあなたに与えようと少しづつ口に入れたけれど、あなたは呼吸に必死で全く飲み込まず、誤嚥してしまったの。それを取り除くのもリューズさんが風魔法を使って吸い出してくれて」


 その時に意識が無くて良かった。

 もしあったら地獄の苦しみだった。


 「それでいよいよあなたの呼吸が弱っていって、段々全身の血の気が引いて青白くなってきて、私はもう神に祈るしかないと思っていたの。治癒魔法をかけてあなたの状態を少し良くするくらいしか出来なかったけど、治癒魔法をかけすぎると体力の消耗が早まって命を縮めるだけというのもわかっていたから。

 その時にリューズさんが人払いして私と2人で話したいって言って、2人で話したときに言われたのがあなたのお腹を切って、直接『生命の木』を体の栄養を吸収するところに入れるしかないって方法だったの」


 リューズは医学部志望だったが普通科の高校生だったから、実際に人体を解剖したりした経験はない筈だ。注射だってやったことがないだろう。

 まったく未経験で医者の真似事とか、俺を実験に使ったようなものだが、多分それしか俺を救う方法はなかっただろうな。

 転移魔法とかあれば胃の中に『生命の木』の新芽を直接送り込むことだって可能だろうが、この世界の魔法はそんな万能ではない。


 「ラウラ母さん、多分リューズがやった方法しか私が助かる術はなかったと思います。リューズを責めないで下さい……リューズの手術をラウラ母さんが許可しなかったとしたら、私は今こうしてラウラ母さんと話をすることが出来なかったでしょう。だからラウラ母さんの決断が正しかったんです」


 「……ジョアンが助かった今はリューズさんを責めるなんて思いもしないわ。ジョアンの恩人ですもの。

 ジョアン、リューズさんがやろうとしたことって手術って言うのね?」


 「はい。手で刃物を使って患者を切り、体の内部から治療する方法を手術と言います」


 「……そう、リューズさんの言っていたことは正しかったのね……

 ねえ、ジョアン。私はね、あなたがさっき目が覚めた時に、私に『産んでくれてありがとう』って言ってくれたこと、すごく嬉しかったわ。あなたは何があっても私の子よ。それは今後もずっと変わらないわ」


 「ええ、私は幾つになってもラウラ母さんの子です。ラウラ母さんが私を産んで下さらなかったら、私は今こうしてここにはいません」


 「……もう、この世界で生きていく気持ちに揺るぎはないのね?」


 え? ラウラ母さん、何でそんなことを聞くんだ?

 まるで俺が前世の心残りを果たすことができたことを知っているかのような……

 え……?


 「まさかラウラ母さんがトリッシュ、なんですか?」 


 俺は恐る恐る尋ねた。


 俺が前世の記憶を持つ存在だと知っているのはリューズと、あとはこの世界のそれなりの立場にいるらしい魂、トリッシュしかいない。


 「……トリッシュって誰のこと? トリッシュはパトリシアの愛称だけれど、私は生まれた時からずっとラウラよ。ハースの家に養女に入って名前を変えた訳ではないわ。

 あなたに前世の記憶があるというのはリューズさんに聞いたの。

 リューズさんがあなたのお腹を切って中の胃っていう袋に『生命の木』の新芽を入れるって方法を私に聞かせた時に、自分はこの世界よりも医学が発展した前世の記憶を持っている、前世での治療方法『手術』だと言ってね。

 ジョアンも前世の記憶がある転生者だから、ジョアンが目覚めたら手術って概念は知っている筈だから、って説得されたのよ。

 もしも失敗してジョアンが天に召されたら自分はどうされてもいい、助けるにはこの方法しかこの世界にはないって言ってね。リューズさんが持って来てくれた『生命の木』の新芽だって、エルフにとっては森の外に持ち出すことは今まで一度もなかった貴重な物ということだったし、そこまでしてジョアンを治そうとしてくれているリューズさんがそう覚悟しているのなら、そんな常識外れの恐ろしい方法でも信じてみようと思ったの。

 あなたの状態はもう普通なら、治癒魔法を使っても治すことはできないのはわかっていたから。

 だからあなたがさっき『手術』って言った時に、リューズさんの言っていたことは正しく、ジョアンも前世の記憶があるんだなって思ったのよ。『生命の木』の新芽を入れる器官も胃だってジョアンも自分で言ってたものね」


 そうか、俺とリューズが前世の記憶を持つ転生者だと、リューズは話してしまったのか。

 ラウラ母さんに手術を信じて貰うためだから仕方がないことだ。

 リューズは俺のように中途半端に世俗に塗れていないから小手先の誤魔化しで説得しようとは思わなかったのだ。

 正面突破が一番いい。真心からの説得は通じるものだ。ただ、その後その言質を利用しようとする者やそれを聞いた上で捻じ曲げて捉える者もいるというだけで。


 ラウラ母さんはそれを利用しようという人ではないと思う。

 だけど、俺は怖い。


 「私とリューズが前世の記憶がある、ということを聞いていたのはラウラ母さんだけなんですか?」


 「私だけよ」


 「そうですか……すみませんラウラ母さん、今まで隠していて。一度イザベル母さんもいる時に伝えようと思ったことがあったんですが……」


 「……6歳の頃の四阿あずまやでのことでしょう? あの時はね、あなたからとても悪い物を感じたのよ……何と言うかあなた自身を飲み尽くす真っ暗な穴があなたの中に空いてしまったような、ね」


 「ええ、あの時は前世での自分があまりに下らない存在すぎて、今みたいに恵まれた環境に自分が居ていい筈がないって思ったんです。それでラウラ母さんとイザベル母さんに告白しようと思ったんです」


 「後にも先にも一度きり、あなたを叩いたんだったわね。

 あの時はあなたの言葉があなた自身をあなたの中の真っ暗な穴に引きずり込むのが怖かったの。

 私の愛しい子供が真っ暗な穴の中で身動きできずにひたすら自分を傷つけることになるんじゃないかって、怖くなったのよ。

 だからあなたにあれ以上言葉を紡がせてはいけないって思って、あなたを叩いたの。

 叩いた後、あなたはいつものあなたに戻ったけれど、あなたには何か秘密があるのは感じていたわ。

 でも、それでも、あなたは私が産んだ子供なのよ。あなたが健やかに成長して欲しいという私の願いは変わることはないわ」


 「私は前世で、52歳で死んだんです。その時の記憶と意識が、もう産まれた頃から私に宿っているんです。この世界なら十分老人と言ってもいい年です。そんな変な子供を、ラウラ母さんは愛しいって言って下さるんですか?」


 そう、俺は自分が一般的な子供とはかけ離れている自覚がある。子供の中身が52歳の男だなんて、たとえ生母であっても気味悪く思うんじゃないだろうか。俺はそれが怖い。ずっと、ずっと無意識に感じていた怖さだ。


 「ええ。母親にとって、子供は自分の一部みたいなものなのよ。自分の血肉を分けた存在を愛せない筈がないでしょう? 」


 俺は、ラウラ母さんの言葉を聞いて胸が熱くなり、勝手に目から涙が溢れてきた。

 本当にこの人の元に生まれて来て良かった。

 自分自身を愛することすら出来なかった俺を、こんなにも愛してくれる母親がいる。


 ラウラ母さんは泣く俺の涙をハンカチで拭い、俺の手をそっと握りしめた。


 「それにね、あなたは前世の記憶があってもこの世界を、私たちを尊重している。人格というものは記憶だけで形作られるものではないと思うのよ。この世界での経験や知識があなたの前世の記憶と交じり合って、あなたの人格が作られていくの。それは何も覚えていない普通の子供の成長と何の変りもないと私は思うわ」


 ラウラ母さんのその言葉は、俺の心の引っ掛かりに対する完璧な回答だった。

 つまり、俺自身が「気味の悪い子供」なんじゃないかという疑念をラウラ母さんは明確に否定してくれたのだ。


 「ありがとう……ラウラ母さん……」


 俺は嬉しさと安堵感で胸が一杯だったが、何とかその言葉を絞り出した。


 「さっき、この世界で生きていく気持ちに揺るぎはないのって聞いたのはね、あなたが一度目覚めた後に私がうたた寝している時、夢の中でぼんやりした姿の女の人がね、私に教えてくれたの。

 ジョアンは未練を断ち切れた、って。

 だからそう尋ねたの。あの夢の中の女の人がトリッシュなのかも知れないわね。

 それで、どう、ジョアン。この世界で生きていく気持ちに揺るぎはないのね?」


 前世の心残りはリョーコに伝え、リョーコの気持ちを伝えられることで果たすことができた。

 そしてたった今、ラウラ母さんに俺の秘密を知って貰った上で、前世の記憶を持つ俺を受け入れてもらえた。


 俺は、今、また改めてこの世界に生まれた、そんな気がしている。

 この貧しくて豊かな未知の世界に。


 「はい、ラウラ母さん。ジョアン=ニールセンはこの世界で、ラウラ母さんの子供として生きていきます」


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