第99話 帰還2




 窒素の塊に宿っている現在の俺の意識。


 俺の窒素の体は妻がスイッチを入れた換気扇から家の外に排出された。


 一度地面近くまで吹きつけられ、家の壁面から横に流される。

 どうしよう、また家の中に戻るには……台所の換気扇は今まさに回されているから入れない。

 妻は変にきっちりしているから、浴室とトイレの換気扇も回しっぱなしの筈だ。

 エアコンの室外機から入れないだろうか? 冬の暖房はいつもならファンヒーターの筈だからいけるか? 

 でも俺の両親が来ているから、複数の部屋を暖めるために使っているかも知れない……


 そんなことを考えていたら、また突風に飛ばされてしまった。


 うちの地方は、冬は日本海から吹き付ける北西の風が常に吹いている。お隣の県ほどではないが、それでもけっこう強い風だ。俺の窒素の体は、家に入る前よりも高く吹き上げられてしまった。


 必死に下に戻ろうともがく。


 自動車修理工場の遥か上空を俺は飛ばされる。


 何とか、何とか家に戻れる位置には居ておきたい…… 


 必死で下に戻ろうともがく、もがく……


 川向こうの郊外、周囲は畑が広がる……

 どこにも隠れるところがない……


 いや、運動公園、スタジアムだ!


 スタジアムを逃して上空に舞い上げられてしまったら、もう山の、どこか洞窟とか風除けがあるところに偶然吹き寄せられることを期待するしかなくなる。


 凄い勢いで風に飛ばされながらも、畑のりんごや桃の木の高さまで何とかもがいて下がり、運動公園のスタジアム方向に少しづつズレていく。


 スタジアムの壁に叩きつけられるが、窒素の体に痛みはない。だが、このまま壁に沿って横に流されてしまうと山まで飛ばされてしまう。

 スタジアムの上方に上がりピッチに入らないと。あまり上がりすぎると、それも山まで飛ばされてしまう。


 壁沿いに上に上がりスタジアムのピッチ上空に出て開かれた観客席の屋根の下に入る……入れた!


 スタジアムの2階席から、通路に入り込む。


 ここは風が弱く、吹き飛ばされることはない。吹き込んでくる風に流されるが、スタジアムから飛ばされてしまうまでのことはない。


 まだ俺が生きていた時、このスタジアムには妻と一緒に地元のJリーグチームとなでしこリーグのチームの試合を見に、妻や友人と年に何回か来ていた。


 時々、クラブ主催のファン感謝祭で、スタジアム内部の選手ロッカールーム見学や、VIPルームでの監督、選手のトークショーにも来ていたので、スタジアム内の構造は何となく把握している。


 各ルームは施錠されているだろうが、試合前の選手ロッカールーム前の通路なら、風が吹き込んでこれ以上飛ばされることはないだろう。


 そう言えば昨年の最終戦を見に来た時、妻が買ったマスコットの小さなぬいぐるみを置き忘れてしまい残念がっていたな。懐かしい……


 俺は1階の選手ロッカールーム前の通路まで下りた。 

 誰も今はいないようだが、避難誘導灯の緑の明かりが通路を照らしている。


 ようやくゆっくり落ち着ける。


 さて、これからどうしたものか。 


 まだ外は風が強く吹いている。

 俺の家に戻らなければならないが、今は戻れる状況ではない。


 想像していた以上に、この窒素の体は不自由だ。

 風に飛ばされて、また俺の窒素の体は減ってしまった。

 8歳の子供程度の大きさしか残っていない。随分と寂しくなってしまった。


 俺の家からここまでは約10㎞。


 どうやって戻るか……


 俺の通夜を取り行っているあの家に……


 俺の両親も、先に息子が先立ち気落ちしているだろう……


 まあ、弟たちと孫たちが顔を見せれば気力も多少戻るだろうが、この感染症流行中は首都圏に住む弟たちが顔を見せるのは難しい。流行が落ち着くのを待たないといけない。多分弟たちは俺の通夜も葬儀も欠席せざるを得ないだろう。俺の死を機に3人の弟たちの誰かが地元に戻ってくるならいいのだが……あいつらも我が道を行ってるからな……


 そして、やはり妻だ。


 なぜ俺がこの、俺の死んだ直後の世界に幽霊状態で戻っているのかさっぱりわからないが、いつまでもこの世界に留まっているのは難しいのではなかろうか。


 ならば、俺はせめて、妻に感謝を伝えたい。


 そして少しでも早く妻が俺の死の悲しみから立ち直って欲しい。 


 そのためにも、もう一度俺の家に戻らないと。


 明日になれば風は収まるだろうか。


 俺の家がある方面に行く車などに入り込んで一緒に移動するのが安全かもしれない。


 俺は通路の隅に何となく腰を下ろし、自分の感覚では膝を抱えて座り込んだ。


 落ち着くと妻のことばかりが思い出される。


 普段は快活で早口で、好きな事以外は出不精な俺とは対照的に、新規オープンの店情報を仕入れて付き合わされたり、旅行の計画を練ったりと活動的だった。


 仕事でも現場の責任者を任されて、毎月のシフト作成や新人や経験の浅い職員の指導案に頭を悩ませるなど、家では極力苦労を見せないようにしていたようだが、時々悩んで俺にも相談してきた。だいたい妻の中で男前な答えが出ているのだが、それを俺に話す中で自分の考えを確認して微修正していた。


 妻は酒が好きなので、いつもそういう時は飲みながらだったなあ。


 俺も酒好きだったので、付き合い出した時のデートの締めはいつも飲みに行っていた。お洒落なバーとかじゃなく大衆的な居酒屋で、ツマミが上手い創作料理的なあの店が行きつけだった。結婚前はいつも割り勘じゃないと嫌がる男前で……誕生日とか特別な時にしか奢らせてくれなかった……そうゆう男前な一面と、夜のベッドでの女らしさや乱れっぷりのギャップがたまらなかったな……♡


 でも結局、子供はできなかった。結婚後6,7年経ってもできる気配がなく、妻の強い希望で産婦人科の不妊治療を夫婦で受けるようになり、診察の結果、俺の精子は非常に動きが悪く妻の子宮も非常に子供が居づらい環境ということが判明した。


 その診断の後、最後の手段として胎外受精をすることになった。そのおかげで何度か妊娠することが出来た妻はその度に嬉しそうだったが、流産を繰り返した。


 流れる度に妻は泣き、自分自身を責めた。


 何度目かの流産の後、主治医にやんわりと治療の終了を勧められた。妻が久々にタバコを吸ったのはその夜だ。


 俺と妻は話し合って不妊治療を止めた。


 もう、子供が流れる度に自分を責める妻を俺は見たくなかった。慰めようにも、どんな言葉をかけていいのか判らないのだ。妻の感じる悲しみを、本当の意味で理解し分かち合えるなんてことは男の俺には出来はしないということを俺は思い知った。


 言葉は万能ではない。どれだけの語彙があっても気持ちや想いは伝えきれない。言葉として出した端から飾り立てた虚構の響きになっていく。言葉で全てが解決するなんてのは思い上がりだ。それは嫌という程俺の身に染みた。


 だから俺は妻が悲しむ時はただ抱きしめること、それしか妻の悲しみを受け止める手段が見いだせなかった。


 これも、結局は妻に教えて貰った事だ。


 俺が仕事などで悩み苦しんでいる時には妻が俺を抱きしめてくれたが、そうされると俺は一人じゃないんだと安心できた。


 それをただ返すだけのことしかできなかった。


 空気の体では、抱きしめる事すらできないのだが、それでもなんとか元気づけたい。


 妻に対する感謝を伝えたい……


 窒素の体でも眠りはやって来るのか、俺はそう考えているうちに意識が薄れた。









 寒い、寒い、寒い、寒い……


 俺はベッドに寝かされ、布団も掛けられているようだ。全身の熱で汗をかき、下着もびっしょりのようで気持ち悪いが、動いたり声を出したりすることが出来ない。布団が掛けられていても、首や肩口が寒いのだ。そこから入る外気がとにかく寒い。背筋を凍らせるようだ……


 深く呼吸することが出来ない。一刻も早く酸素を取り入れようと浅く、早く呼吸する俺の体。鼻も口も熱と空気で乾燥している。水分が欲しいが、嚥下するために呼吸を止めるなんて無理だ。とにかく体が酸素を求めている。


 心臓の鼓動と共に全身が、特に頭が割れるように痛む。関節も痛む。


 俺は今、目を開けているのか閉じているのか? 目の前はチカチカした星で一杯だ。


 額に乗せられた濡れタオルはもう俺の体温と一緒でぬるく、ただ重さと異物の乗る不快感しかない。


 誰か濡れタオルを交換してくれ!


 額から濡れタオルが取り去られ、布団もめくられた。


 寒い、寒い、寒い、寒いんだよう!


 誰かが俺の着ている物を脱がす。


 寒い、寒い、寒い、鳥肌が立つほど寒い!


 誰かが乾いた布で俺の汗を拭ってくれている。そして新しい乾いた衣類を着せてくれる。


 ゆっくり誰かが俺の体を持ち上げる。


 胃が引き攣り、突発的に吐き気がして俺は吐いたが、苦い胃液しか出ない。


 誰かが俺の顔を拭いてくれている。


 ゆっくりベッドに下ろされ、布団を掛けられる。


 誰かが丁寧に、俺の首も肩も外気に晒されないようにしっかりと丁寧に布団をかけてくれる。


 有難い。


 新しい濡れタオルが俺の額に乗せられる。ひんやりして気持ちがいい。


 誰かの手が、布団から潜り込んで俺の右手を握る。その手はひんやりしていて濡れタオルを絞ってくれた手、なのだろうか。


 頭痛、呼吸苦は変わらないが、新しい衣類に更衣させてもらえたことで、少し落ち着いた俺は、その人の右手の冷たさに、何とも言えない安心感を覚え、そしてまた眠りに落ちる……








 意識が戻ると、俺は変わらずスタジアム1階の選手ロッカールーム前の通路の隅に居た。


 何だ、この状況は?


 転生した俺と、元の世界に幽霊として戻った俺、二つの世界を行き来している。


 転生した俺、ジョアン=ニールセンは高熱を出し苦しんでいる。


 転生してから8年間の記憶は確かにある。幽霊になった記憶は、ジョアン=ニールセンが高熱で倒れて以降に始まっている。


 高熱を出した俺、ジョアン=ニールセンが見ている夢、なのだろうか? ……それが一番しっくりくる解釈だが。


 それにしても、単なる夢とは思えないリアリティなんだが……


 「当たらずとも遠からず、ってところかな?」


 誰かの声がした。


 へ?


 誰だ?


 「8年ぶり、でいいのかな? ジョアンになった魂君」


 辺りを見回すが、誰もいない。


 「こっちこっち、こっちに来なよ」


 声は俺の座り込んでいる通路に面した小会議室の中から聞こえるようだ。


 おいおい、誰もいないところから声が聞こえるなんてホラーだぞ。


 「何言ってんの。私が誰かなんて大体わかってるだろ? それとも忘れた? トリッシュ寂しいな」


 やっぱりトリッシュかよ。だろうと思った。


 どうやって入ればいいんだよ? 部屋の入口のドアは閉まってるぞ?


 「今の君って気体だろ? 君が思ってる以上に気体って少しの隙間でも通れるから」


 おいおい、最近の建物の気密性を舐めるなよ? 扉の隙間なんかないぞ? 鍵穴も最近のドアのシリンダー錠は気密がしっかりしてるぞ?


 「今ここは最低限しか換気装置が動いてないから、換気口から入って来れるよ」


 ええ、あそこからか?


 中は真っ暗で何も見えないんじゃないか?


 「ジョアンの魂君。窒素の塊に目とか感覚器が形成されてるのかい? 違うだろ? 光学的に知覚してるんじゃないんだよ。考えるな、感じろ」


 何や、ジークンドーの創始者みたいなこと言ってはるわ。


 まあ、そう言うんなら行ってみるか。


 俺はふわりと浮き上がり、天井に設置された換気口の中に入った。


 換気口のダクトを通り、隣の部屋へ。


 確かにトリッシュの言う通り、真っ暗なダクトの中だが、うっすらと知覚できる。


 何となく、位置的にあそこが隣の部屋の換気口かなというところに入り、下に降りる。


 小会議室の床が、ビニョーンと伸びて、その床の下から突き出した人型が伸びた床をピッチリ被った形になっている。


 トリッシュだ。


 何か、今回は偉そうに腕組みなんかしてるな。


 換気口から降りてきた俺は、トリッシュを見下ろしながら床にふわりと降りる。


 オヤカタサマ、お呼びでしょうか?


 窒素の塊の俺は片膝を付き、トリッシュの前に忍者よろしく着地した。


 「何か君、相変わらずのノリだねえ」


 トリッシュが呆れたように言う。


 まあそう言うなし。

 何か訳わからない状況で心細かったんだけど、知ってる奴が来てくれたんだからつい浮かれてしまったのよ。


 「まあさっきまでというか何と言うか、えらくこの世界の未練で悩んでいたみたいだしねえ」


 そりゃそうよ。


 仕方ないだろう、俺はもし戻れるならこの世界に戻りたかったんだ。

 トリッシュに選択肢を提示された時も、けっこう真剣に幽霊でも戻ろうかと悩んだんだ。


 それを諦めたのは、こっちの意思を妻に伝えるのが困難そうだったから、というのもあるし、伝えたところで結局妻を惑わせることになるんじゃないか、悲しみを長引かせて妻自身の新たな幸せを見出すことの邪魔にしかならないんじゃないかって思ったからだ。


 しかし、空気の塊に宿る幽霊って存在が、こんなにも無力だとは思わなかった。


 単なる傍観者でいることすらもこんなに難しいだなんて。


 そして、実際幽霊状態で戻って来たら、やっぱり傍観者じゃいられやしない。


 妻の悲しみを少しでも和らげてあげたい、そう熱望してしまうんだ。


 「結局魂だけ戻るってのも難儀なものなんだよねえ。だから私は何もしないであの空間、をお勧めしたんだけど」


 おいトリッシュ、そう言えばリューズに聞いたがお前、俺とリューズでえらく対応違ってなかったか?

 何かリューズに対してはめっちゃ人格者っぽく振る舞ってたみたいじゃないか。


 「そりゃあ相手の前世の人格によっては対応替わるよ。君の場合、私が人格者っぽく振る舞おうとしても君がそうさせてくれなかったんだからさ。

 それに彼女の場合は競合するリクルーター達がいたし。君みたいに私一人って状況だとそれなりにくだけるのさ」


 まったく、良く言うもんだ。

 どうせ俺はリューズ程期待される魂でもなかったんだろうからよー。ふん。

 

 でもなあ、あのままあそこに飽きるまでいるってのも良かったかも知れない。


 ジョアンとして転生してからの人生、周囲に恵まれすぎる程恵まれた環境だった。

 現代日本と比べると色々と整ってなかったけれど、少なくとも人には恵まれた。

 その中で俺がやったことなんて微々たるものだし、自分の力量不足ばかりが目に付いた。周りには助けてもらってばかりで、俺はなにも返せてない。


 何だかなあ、凡人が生まれ変わっても凡人だってことが証明されたようなものだ。


 更に言えば、前世の魂の傷を持ってる俺は、ラウラ母さんやリューズの治癒魔法が無かったら今頃どうなっていたのか。


 「自死を選んでたのかもねえ」


 なんじゃい、わかってんのかい。


 「でもね、魂の傷になるくらい自分の行いを責めるって、悪いことではないんじゃないかい? 色んな可能性を考えた上で決断した、そういう人じゃないとね、悩まないよ。

 慣例通りのやり方をなぞって非難されないようにやってく人よりは可能性探って色々試す人の方が良いと思うけどね」


 そうかねえ? 全く自分じゃそうは思えないが。


 ところで、何でこんな状況になってんだ? 俺は死んでこの世界の幽霊になるってことなのか?


 「そうだね、あの世界での君、ジョアン=ニールセンは死にかかってるね。ここ数日がヤマだろうね」


 おいおいマジか! 何で死にかかってるんだよ。


 「森の探索中に蚊に刺されただろ? あれで君はウィルス性の感染症に感染したんだ。蚊が媒介する劇症感染症で、ヒト‐ヒト感染はしない。成人は刺されても発症しないけど、子供でも発症するのは10%くらい。だけど発症したら致死率は50%だね。生きるか死ぬかわからない」


 おいおい、何だよそれ……トリッシュの力で何とか助けてもらえないのか?


 「無理。前も言ったろ? 私はあの世界で生きている存在の魂だって。ゼンチゼンノーの神じゃないから。だいたい私がいる場所から君の居る場所は何百kmも離れてるから辿り着けないよ。

 それに、リクルーターだから本来転生特典を与えて私の世界に来てもらった段階でお役御免、君たちをあえて守護するような役割も持ってないよ」


 はー、そうですか。


 「君の周囲の人の看護が実を結べば助かるだろうし、そうでなければ死ぬ。それはどうすることもできないよ。君の体力が持つことを祈るのみだね」


 なんかドライな言い方だな。


 「事実は事実だからね」


 まあそうだろうけど。死にかけてる本人に言うかね? 


 それで、何でこの幽霊状態の俺の元に来たんだ? リクルーターとしての範疇を超えてるんじゃないか? てかだいたい何でこんなことになってるんだ?


 「なんでこうなってるのかって言うと、私も詳しくわからないよ。今の私はアカシックレコードで君に関連する僅かな部分しか見ることができないからね。転生前のように君と話す内容を無制限に閲覧できる状況じゃないから。

 推測になるけど、魂は死んだら記憶を忘れてリセットされて次の世界の生物に宿るけど、君のように前世の記憶を持ったイレギュラーな魂の体が生死の境をさまよう状態になったら、半ば抜けた魂が本来の流れを無視して未練のあったこの世界に戻ってきた、という感じじゃないかな。

 通常の魂は死ぬと記憶は無くなるけど、前世で近しい存在だった魂はわりと同じ世界の近しい存在に宿ることが多いみたいだしね。隣同士の木とか。何か魂同士引き合うのかもね。それで誰かの魂に引かれてこの世界に戻ったのかも知れないね。

 私はこの世界に呼ばれたんだよ。世界が望まぬイレギュラーが迷い込んだから速やかに連れ出すようにってさ」


 世界が望まぬイレギュラーって、俺のことか?


 「そう。だって魂の役割は前に伝えただろ? 生命を生命たる存在にする源、それが魂だって。この世界にとって、生命として存在しない魂は必要ないんだよ。生命ではない魂が長期間居座るってのはこの世界にとって良くないことなんだ。だから連れ帰れってことみたいだね」


 完全にお邪魔虫扱いか。嫌われたもんだな。


 「まあ連れて帰れって言われてもね、私も初めてのことだし、物理的にどうこうはしようがない。だから、君がその状態でこの世界に来てしまった理由を解決する手伝いはしようと思う。

 それに君の魂が君の体を離れている状況っていうのは、君の体が死に向かってるってことになる。だから苦しくても君の体に戻って貰いたいんだ。

 転生前にリクルーター権限で、君をこの世界の幽霊として戻すって選択肢を出したけど、あれって要は永久に幽霊として彷徨うってことではないんだ。君がこの世界に残している心残りを解消するまでの間、仮に空気など普遍的な物質に魂が宿ることを認めるってだけなんだ。本来死んだ魂がこの世界を離脱するまでの期間は大体7日間。古のシャーマンが反魂術を使っていた、その名残りのようだね。

 未練を残した君の魂も、この世界に留まれるのは7日間だけだ。

 それを過ぎれば強制的に君はこの世界から弾き出される」


 それって、元の魂の流れに戻るってことなのか?


 「そうだね、私の世界の君、ジョアン=ニールセンが亡くなればそうなると思う。ジョアン=ニールセンが助かれば、君はジョアン=ニールセンに戻るだろう。

 ジョアン=ニールセンの体についてはさっき言った通り、体力と周囲の人の看護に任せるしかないから、運を天に任せるしかない。

 けど、多分魂が離れた状態ではそんなに長くはもたないと思う。

 さっき僅かな間だけど体に戻ってくれたのは助かったよ。周囲の人の看護のお陰だね」


 要はこの世界での未練を早々に断ち切って、早くあの体に戻れってことか。


 なら、一刻も早く俺を俺の家に戻してくれ!


 「いやごめんそれは無理。流石に他の世界で、その世界の常識を外れた物理的な影響力やその世界にない技術は行使できないって」


 はー、つっかえ。


 何しに来たんだよ、もう!


 「助言とちょっとした手助けしかできないなあ。助言はするから自力でなんとか解決して。

 私も私が眠っている間だけしかここにアクセスできないみたいだし、何かもうすぐ目覚めそうな気がするから手短に言うね。

 そこの箱の中見て」


 トリッシュが指さす箱は大きな段ボール箱だ。上蓋が開いているので中身が見える。


 中には応援しているチームのタオルマフラーやパンフレットなどのグッズが雑多に沢山入っている。


 その一番上には応援しているチームの、ライオンをモチーフにしたマスコットのぬいぐるみが置かれている。


 「その段ボールの中は君の応援しているチームの試合後に観客が忘れて行った忘れ物が入ってる。

 その一番上のマスコットのぬいぐるみ、誰の忘れ物?」


 俺と妻が昨年の最終戦を観戦に来た時に妻が買って忘れていったぬいぐるみか……?


 「正解。君は今窒素の塊に宿ってるけれど、窒素なんて普遍的に空気中に存在するだろ? だから宿る体の大きさだって、空気中の窒素を集めればいいからある程度自由になる。ぬいぐるみの中に含まれる空気を窒素にすれば、君はぬいぐるみに宿ることができる」


 おお、それは思いつかなかった。ぬいぐるみに宿れば風に飛ばされない! こりゃいい。ただ、歩くぬいぐるみって気持ち悪くないか?


 「歩くのは無理無理。そこまでは動かせないよ。多少表面を膨らませたりして表情変えたりはできるかもだけど。それで、君に与えた転生特典の3番目ね、あれは魔法とかじゃなくて、君の魂に付与されたものなんだよ。つまり、今の君でも使えるんだ」


 「何となく雰囲気で考えを伝える力」か。


 でも万能じゃないしなあ。


 「それでも、できることを駆使しないとどうしようもなくない? 誰かが来た時に必死で自分の家に戻してくれって願って、伝わることを期待するしかないよ。

 あと、私に出来る事はこれくらいしかないな」


 そう言うとトリッシュは移動し、片隅にあったホワイトボードに俺の妻の名前と携帯電話番号を書き、矢印を引いた。


 矢印の先に、妻の忘れ物のぬいぐるみを置く。


 「あとは誰か来るのを待って、奥さんに連絡してくれるのを期待するしかないよ。

 できたら7日間の間に区切りが付くといいんだけどね。

 私の居る世界とこの世界って時間の流れが必ずしもシンクロしてる訳じゃないみたいだから、7日経っても君の体が生きてる可能性もあるし、あるいはもっと早く死んでしまう可能性もある。なるべく早く戻れるように何とか頑張ってね。

 私も眠ったらまた来れるかも知れない。でもこっちの時間でいつになるかわからないからあまり期待はしないでね」


 そう言うとゆっくりとトリッシュは床に吸い込まれていく。


 不安にさせるなよ。


 「私は出来たら君に戻って来て欲しい。君は私の世界の技術とかを進める知識が自分にないって落ち込んでたけど、君は多分スペシャリストじゃなくてジェネラリストなんだよ。円滑に動く組織作りと、実際に円滑に動かす役割をしていくべきなのさ。君の前世ってそういう仕事だろ? じゃあ幸運を」



 床の裏側のトリッシュが吸い込まれた床は平らになった。




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