帰還

第98話 帰還1




 俺達は雪狼に乗って帰路に着いた。


 エルダーエルフ達とはワイバーンの巣で別れた。


 マリスさん達はワイバーンの雌の解体をするため、ワイバーンの巣に残ったのだ。


 ワイバーンの雌は俺達が口腔内からワイバーンの幼体と卵を見つけた後、完全に生命活動を停止したようで、俺とハンスが出発の挨拶にワイバーンの巣を訪れた時には、全身の血液が重力で体の下部に下がって胴体の下部だけ膨れてパンパンになったいびつな形になっていた。


 これからワイバーンの体に溜まった血を抜かないといけないらしい。


 「結構えげつない光景になると思いますよ」とマリスさんは言っていた。


  ワイバーンの肉は既に血液の腐敗が始まっているため、解体後このままここで地面に埋めて廃棄するそうだ。


 鱗と毛皮と骨は集落に持ち帰り処理されるという。


 「5日後に私たちの集落でお会いできることを楽しみにしていますよ」とマリスさんは言ってくれた。


 キュークスは、マリスさんに皮剥がしを任されて集中して作業に取り組んでいたが、俺に気づくと何も言わずに目を逸らされた。嫌われたもんだ。



 10時頃に俺たちは帰路に就いた。


 俺、ハンス、ダイク、リューズ、フェリの5人と雪狼たちだ。


 フェリは初めはダイクと一緒にボスの背に乗り、乗り方を覚えた後は一人で他の雪狼に乗って移動した。山猫人間ワーキャットはバランス感覚が人と比べて非常に優れているので、雪狼に乗ることはすぐにできるようになったのだ。


 フェリが言うには自分の背丈の10倍の高さから落ちたとしても、空中でバランスを崩さずに着地できるとのことだった。 すげえ。


 フェリはダイクとリューズに懐いている。


 リューズのことは俺達と一緒に住んでいるエルフ、とだけ伝えている。


 フェリの中では恐ろしいエルフは言葉が通じない、と長年聞かされていたので、ネーレピア共通語を喋るリューズのことは頼れる姉的な存在と思っているようだ。リューズもフェリのことは色々と気にかけて、何かあるたびに話しかけている。


 リューズが背嚢に入れて持ち帰ろうとしているワイバーンの幼体に対しても、フェリは思ったよりも拒否を示さなかった。


 ワイバーンの巣で卵を石で潰したことですっきりしたのか……自分でも言っていたように、親に対する恨みを無力な子に対して晴らすのは八つ当たりだと割り切ったのか……


 自分の家族も含めた一族を皆殺しにしたワイバーンに対しての怒りや恨みはまだ消えてはいないのだろうが、少なくとも幼体と生き残った卵に対してどうこうしよう、というつもりはもう無いようだ。



 帰路は来た経路をそのまま戻っているので、渓谷を超えたところで一度休憩した。


 俺はだるさが変わらず抜けないので、水筒(湯たんぽともいう)の水を飲もうと思ったが、一口飲んだら無くなってしまった。うっかりして池で水を汲んでくることを忘れていたのだ。


 仕方なく水魔法で水筒(湯たんぽともいう)の中に水を出し、それを飲もうと思ったが、フェリが気づいて渓谷を降りて水を汲んできてくれると言う。


 「大丈夫かい? けっこう切り立った崖になってるけど」


 「……これくらいの高さだったら大丈夫……」


 そう言ってフェリは俺の水筒(湯たんぽともいう)を持つと、崖から飛び降りた。


 「山猫人間ワーキャットは大したもんだな。この高さから飛び降りてもしっかり着地したぞ」


 崖の上からフェリの様子を見降ろしていたダイクが感心したように言う。


 「でも、降りるのは大したもんだが、昇って来るのは考えてなかったみたいだな」


 ダイクと並んでフェリの様子を見ていたハンスがおかしそうにそう言った。

 フェリは水を汲んだあと、崖を一気に駆け登ろうとしたが、流石に片手が塞がっているため跳躍力が落ちており、途中の出っ張りに片手で掴まり身動きできなくなっていた。


 「お前、笑ってないでロープを下ろしてやれよ」


 ダイクがハンスにそう注意する。


 「わかってるって。そう急かすなよ。オマエ過保護な親みてーだな」


 ハンスはそう言うと、自分の背嚢からロープを取り出す。


 ワイバーンの卵を雪狼にしっかり乗れるダイクの背嚢に入れたので、ダイクの持ってきた塩の小瓶やらを含めた諸々の荷物はハンスの背嚢に入れている。


 ハンスは辺りのしっかり根を張った木にロープを括り付けると、崖の下に投げ下ろした。


 片手で水筒(湯たんぽともいう)を抱え、もう片方の手でロープを掴みながら崖を登ってきたフェリに、ダイクは「フェリ、殿下のために張り切るのはいいが、どうやって戻って来るのかしっかり考えないとダメだぞ」と注意する。


 注意されたフェリは「……ごめんなさい……」とシュンとしてしまう。


 ダイクはそんなフェリを見て、慌てて「次からちゃんと考えてくれればいいんだ。せっかく水を殿下のために頑張って汲んで来たんだから、早く殿下に渡して飲んでもらいな」と取り繕う。


 ハンスはロープを片付けながら「結婚する前に親父になる気分を味わえるってのは、どうなんですかね~ダイクさん」とニヤニヤしている。


 ハンスとダイクが瞬足を使って取っ組み合いを始めたのか見えなくなった。

 辺りの雑草や枯れ枝が飛んだり踏まれたりしているが、姿は見えない。


 「……はい、水……飲んで……」


 見えないハンスとダイクを気にせずフェリは俺に水筒(湯たんぽともいう)を渡してくれたので、受け取って水を飲む。


 谷川の冷たい水が口の中と喉に心地よく染み渡る。


 「ありがとう、フェリ。おいしいよ」


 そう礼を言うと、フェリは「……どういたしまして」と照れた。


 ダイクがハンスに馬乗りになった姿勢で瞬足ケンカをしていた二人の姿が現れ、ハンスが「ダイクさん、実にいい娘さんを育てられましたな~」と言うと、また二人とも見えなくなった。


 元気の無駄遣いよな。


 「そう言えばフェリって年は幾つなの?」


 辺りでワイバーンの幼体の餌を探していたリューズが戻って来て、ワイバーンの幼体を抱え、大きなミミズを幼体に与えながらそう尋ねる。


 「……年?」


 ピンと来ていないフェリに、「えっと、産まれてから何年経ったかってこと。私は今8歳で、もうすぐ9歳になるんだよ」と俺が伝える。


 それでも考え込むフェリに、リューズが「フェリが産まれてから何回冬を越したか覚えてる?」と尋ねると、「……私が覚えてるのは9回……」とフェリが答えた。


 「じゃあ少なくとも9歳だね。私やリューズよりも年上なんだなあ」


 と俺が言うと、リューズが俺に近づき、拳骨を俺の頭に落とし「自分の年を言うのはいいけど、ボクの年まで匂わせなくていいよ! もう!」と軽くコツンとされた。


 若いんだからいいじゃん、と言いたいところだが、若く見られるのは嬉しくても幼いと思われるのは嫌なのが女心なのだろうか。


 「ん? ……ジョアン、少し熱があるんじゃない?」


 リューズが俺を拳骨で小突いた手を広げ、俺の額に当てた。


 言われてみれば、というか、ずっとだるさが抜けないのは熱が出ていたせいか。

 リューズは俺を小突いた時に気づいたようだ。


 リューズの声を聞いて、体力の無駄遣いをしていたハンスとダイクも姿を現し、俺の傍に駆け寄って来る。


 「やっぱり少し熱が出てるよ。具合悪いんじゃない? 横になったら?」


 リューズが俺の額から手を放し、そう言う。周りの枯れ木などをどかし、寝る場所を確保しようとハンスとダイクが動き、フェリもそれを手伝い出した。


 横になると楽になると思う。でももう数時間我慢して移動すればフライス村に帰り着く。

 帰りは探索する必要がないので、来た時よりは時間が掛からない筈だ。


 「いや、ここで休むより、フライス村に戻ってゆっくり休みたいな。来た時みたいに色々痕跡を探したりしなくていい筈だから早く戻れるだろうし」


 「……じゃあ、フライス村に戻ったら、しっかり静養しよう。一応治癒魔法かけておくよ」


 リューズはそう言ってまた俺の額に手を当てた。


 少しだるさが和らぐ。


 「殿下、何か食べておいた方がいいですよ」


 ハンスが森の中から取ってきたブドウのような果物を俺に手渡す。

 リューズの治癒魔法のお陰で少し体調が良くなったので、それを有難くいただく。


 「では殿下、雪狼たちが最も近い帰り道を覚えていますので、急いで戻りましょう」


 ロープを片付け、ハンスの背嚢に入れたダイクが俺にそう声をかける。


 「うん、じゃあ急いで帰ろう」


 俺は水筒からまた水を飲むと、そう答えた。



 再び俺たちは雪狼の背に乗り、帰路を急いだ。


 1時間程雪狼の背に揺られていると、段々とまただるさがぶり返してくる。


 掌がやけに水分を失って、スルスルする。雪狼の首輪の取手を掴むのも、掌が滑っていつもの感覚とは違う。


 熱が上がってきているのか、体の前面を密着させている雪狼の体温が熱く感じる。移動時の風が当たる肩や背中が涼しくて気持ちいい。


 「殿下、大丈夫ですか?  お加減が悪ければダイクに言って休みましょう」


 ハンスが俺の様子を心配してそう声をかけてくれる。


 「あとどれくらいかかりそう?」と俺が聞くと、前を行くダイクは「もうあと1時間くらいです。一度休憩を取っても大丈夫ですよ」と返答する。


 「だったら、このままフライス村まで戻ろう。それくらいなら大丈夫だと思う」と俺は伝え、そのまま走り続ける。


 早く戻ってベッドで休みたい。

 早く服を脱ぎ散らかしてベッドに潜り込むのだ。

 ピアにはお行儀が悪いって小言を言われるかも知れないが、一つ勘弁して欲しい。

 そんなことを考えながらひたすら雪狼の背に体を委ねる。


 移動の風に当たる肩と背中が、涼しいを通り越して寒く感じる。


 さっきまで熱いと思っていた雪狼の体温が温かく感じる。


 熱が上がって悪寒がしてきたようだ。ハンス達に気取られると休憩することになってしまう。


 村まであと少しの筈だ。我慢して早く戻りたい。


 なるべく肩と背中が風に当たらないように、そして雪狼の体温で体を温めるために、俺は更に雪狼にしがみついた。


 何だか感覚がぼんやりしてくる。


 まるで真綿で頭をくるまれているみたいだ。感覚がやんわり遮断され、鈍痛が頭をじんわり締め付ける。


 雪狼が枯れ葉や雑草を踏みつける足音の、音を構成する高音部だけが鋭く嫌な感じで俺の鼓膜に届き、神経を刺激する。聴覚が熱のせいでぼんやりしてきたため、中、低音域が聞き取れなくなっているというのは鈍い思考の中で理解できるのだが、耐えられるのとはまた別だ。


 視覚も白く、昔のTVの放送終了後の砂嵐みたいなものを通して周囲が見える感じだ。


 俺は辛くて目を閉じ、ひたすら雪狼の背にしがみつくが、目を閉じていても白い横筋や星のような光が無数に瞼の裏で光っている。


 あと少し、あと少しの我慢……


 不意に胃がキュイーンと引き攣ったようになり、耐えきれずに俺は嘔吐してしまった。

 さっき食べたブドウの紫色の胃液を雪狼の背にぶちまけてしまい、驚いた雪狼が立ち止まったようだ。


 ハンスが俺に何かを言っているが、ハンスの豊かな中音の声は聞き取れない。


 俺は目の前が真っ白になり、何もわからなくなった。




 俺は誰かに背負われて運ばれているようだ。


 真っ白な視界で何も見えないし熱のせいで何も聞こえない。


 不意に襲って来る胃の引き攣りの度に嘔吐し、力の入らない股間からは嘔吐すると小便と便も出てしまう。


 背負ってくれている誰かに悪いとぼんやりと思うが、体がもう自分の意思を上手く反映できず、なすがままに垂れ流している。


 ひたすら寒い。寒い。寒い。


 一際寒い、寒い、寒い、寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い……


 少し暖かくなったが首筋と背中が寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い……


 何かが額に当てられヒンヤリとしている。


 その冷やかさが多少安らぎを与えてくれる……


 その安らぎのおかげか、眠りが俺をいざなってくれた……










 俺は俺の家の前に立っている。

 首都アレイエムの城やフライス村の代官屋敷のことではない。

 前世の、俺の家だ


 正確に言えば、俺は家の前に立っているのではないだろう。

 浮いている感覚だ。


 何だか頭がぼんやりしている。


 俺は俺の手を見る。


 手はない。


 俺の感覚では確かに両掌を上に向けて「じっと手を見つめる」のポーズをしているつもりなのだが、そこに俺の腕も、掌もない。


 熱に浮かされぼんやりしている俺の思考は、それをおかしいと思わない。


 俺の手も、立っている足も見えず、地面に積もった雪の上に俺は立っている筈なのに足跡もついておらず俺がここに存在していないかのようだ。

 だけど自分の感覚としては俺の体は確かにあって、ここに浮かんでいるのだ。


 俺は目の前に建っている長年暮らしていた俺の家を見つめる。


 30年ローンで買った家だ。

 分譲地の一画に建てられた建売住宅。

 薄給の俺にとっては思い切った買い物だった。ローンはあと8年程残っている。

 築20年は経っているので、全体的にくすんだ色合いになってきているのは仕方がない。

 昨年、屋根の塗装の塗り替えをした。屋根が傷んでからでは遅い、と言われたからだ。

 猫の額ほどの庭は、妻の趣味だった家庭菜園の筈だが、今は15cm程の雪が積もっている上に、玄関通路などの除雪をした雪を積んであるのでちょっとした小山のようになっている。

 春になって雪が溶けたら、妻に「けっこう玄関前って土埃溜まってるもんなのよね」とぶつぶつ言われながら土起こしを手伝わざるを得なくなる。毎年のルーティンだ。

 カーポートには俺の車と、妻の車の2台が停まっている。妻が在宅しているようだ。

 今は夕暮れで、オレンジの光が西の空を照らしているが、東の空からは夜の闇が天を埋め尽くそうと迫ってきている。


 玄関の左側、庭に面したリビングのカーテンは閉められているが、隙間からは明かりが漏れている。


 家の玄関に目をやると、上下黒塗りの提灯が吊り下げられ、忌中の札が貼られていた。


 誰かの通夜のようだ。 ……俺の通夜だ。


 段々思い出してきた。


 謎の空間でトリッシュという、ちょっと浮かれた存在と話していて、俺は隕石が直撃して死んだと伝えられたのだった。


 リクルーターと言っていたトリッシュは、俺に3つの選択肢を提示したんだった。


 ①リクルーターのトリッシュのいる世界に来る、②元居た世界に戻る、③このまま謎空間で何もせずにいる。


 俺は①を選んで転生したと思っていたけど、違ってたのか?


 ②の元居た世界に戻る、を選んでいたのだろうか。


 元居た世界に戻ったとしても、元の肉体には戻れない。何故なら俺の体は木っ端微塵になって四散しているから。

 戻るとしたら窒素の塊に宿る幽霊としてと言っていた。


 ……ああ、だから手が見えないんだな。


 というより今の俺は窒素の塊。化学肥料製造工場に近づいたら俺の窒素の体は肥料に変えられてしまう。


 なんてことはどうでもいい。


 空気の塊だから、玄関を開けたりはできないぞ。


 今、この家の中には妻がいるというのに、妻に会うことも出来ない。


 何とかして中に入らねば。


 試しに玄関に手を掛けてみたが、俺の感覚では玄関ドアノブを掴んだつもりなのに、スカッとドアノブがすり抜ける。実際は俺の窒素の手がドアノブをの周りで動いているだけだろう。


 何度かドアノブを回そうと頑張ってみたが、れられるがすり抜ける。


 と思っていたら突風が吹き、俺の体は軽々と飛ばされた。


 どこまでも飛ばされる!


 俺は必死に風の流れに逆らおうとしたが、窒素の塊の体は風に逆らうなんて無理。


 必死で風の流れを横に移動するようにして、自動車修理工場の建物の陰の風が淀んでいるところに何とか入り込むことが出来た。


 俺の家からは200m程流されてしまった。


 自動車修理工場があって良かった。周りが原っぱとかだったら、どこまでも飛ばされていた。

 下手したらジェット気流に乗って地球を一周した方が早い、なんてことになっていたかもだ。


 最もそれで俺の窒素の体が維持されていれば、だけど。


 今、風に流されただけで、何となく俺の意識の占める窒素の塊の体積が減った気がする。風で窒素の体がちぎれ飛んでしまったようだ。特に痛いとかは感じなかった。


 痛みもなく体が減るって、冷静に考えれば怖いことだな。


 そう思う俺だが、実際に恐怖を感じている訳では無い。窒素が集まった体と同様に、思考だけのふわふわした存在だからなのだろうか、喜怒哀楽が鈍くなっているようだ。


 風が止んだので、俺は何とか俺の家の前に戻ろうとした。


 意識は走って戻っているつもりだが、実際はふわーりふわりと空気の中を泳ぐ感覚。


 家まで50m程でまた風に飛ばされ、また自動車修理工場まで戻される。


 何度かそれを繰り返して、ようやく風がしばらく吹かずに俺の家の前に戻ることができた。


 玄関を開けて入ろうなんて無駄なことは止めておこう。


 どこからか入れるところ。


 換気扇か。


 換気扇の外のシャッターは完全に閉じ切っている訳ではなく多少の隙間はある筈だ。


 俺は台所の換気扇のところまで行く。


 良かった。換気扇は動いていない。

 換気扇が動いていたら、空気ごと押し出されて中に入れなかった。


 換気扇の排気口にふわりと入り込む。シャッターの隙間を俺の体が幾重にも分割されて通り過ぎる。その時の間隔はちょっと面白い。多分、ドラ○もんのどこでもドアを通ったらそんな感覚になるだろう、と言う感覚だ。一瞬意識が途切れ、途切れた意識が戻ると家の中に入り込んでいる。


 俺は懐かしい台所の、ガスコンロの上に出て下に降りた。


 別に窒素の塊の体だから、人型と決まっている訳ではないのだが、やっぱり自分の意識が人の形を成しているようで、スリムな人型になった俺はガスコンロの前で立っている。


 あの大鍋でカレーを作ったなあ。

 カレーだけは俺が作る決まりになっていた。俺が作るカレーを妻は喜んで食べていた。

 決して何日か調理をしなくて良い、と喜んでいたわけではない。と思いたい。


 台所を抜け、妻がいる筈のリビングに行く。



 リビングには妻と、俺の両親がいた。


 3人とも喪服だ。一応数少ない弔問客に備えているのか。


 外に両親の車はなかったので、電車で来たのだろう。


 俺の両親もすっかり年老いた。実家まで車で1時間強だが、多分運転は自重したのだろうと思う。


 3人は葬儀屋が貸し出したであろう祭壇の前に安置された白い棺の前で、座布団に正座しうなだれていた。


 祭壇には俺の遺影が飾られている。あまり写真を俺は撮られなかったのに、いつ撮ったものだろう。

 俺の享年よりは若い頃の写真のようだ。自分で言うのも何だが、そんな男前じゃない。


 あの白い棺に納められているのは俺の遺体。


 ただ、完全に俺の肉体を探し出すのは難しかっただろうから、残った部分だけ納められているんじゃないだろうか。手の指と足首から先、だったっけ。


 「リョーコさん、少し休んで来たら?」


 母親が妻にそう声をかけた。

 俺の死亡連絡を受け、警察に行き、葬儀屋を手配し、死亡診断書とかどうやって書いてもらったのだろう? とにかく普通に死ぬよりも何割か増しで面倒だったであろう俺の死後の段取りを妻は一人でこなしたはずだ。疲れていない訳などない。


 「……すみません、お義母さん。お言葉に甘えます」


 妻はそう言ってゆっくり立ち上がると、俺が立っているリビングの出入り口の方に来た。


 俺に向かって俯きながらゆっくりと歩いてくる妻を、俺は何とか元気づけたいと思った。


 俺は両手を広げて、近づいてくる妻を抱き寄せた。


 けれど、妻の髪が俺の手で揺れたくらいで、妻は俺の体を突き抜け通り過ぎてしまった。


 窒素の塊のこの体は、愛しい妻すら抱きしめられないのか……


 いや、わかっていたことだけれど……


 妻は俺の体を突き抜けると、ガスコンロの前に行き、立ち止まった。


 俺もせめて妻に寄り添ってやりたい。


 そう思って妻の傍らまで行く。



 妻は、ポーチからメンソールのタバコを取り出し、ライターで火を付けた。


 妻は若い頃は結構遊んでいて、タバコも吸っていたと聞いている。

 でも、俺と知り合った時にはもうタバコは止めていた。


 結婚当初は自分もタバコを吸っていたからか、俺がタバコを吸うのを咎めることはなかった。


 俺達になかなか子供ができず、不妊治療を受けるようになってから妻に強く止めるように言われて、俺も一時期タバコは止めた。


 結局子供は諦めるように産婦人科の主治医にやんわりと言われた日の夜、妻はコンビニでメンソールのタバコを買って、家の換気扇の前で吸った。もう気にしなくていいもんね、と言って。


 その時は一口吸ってむせ込み「久々に吸ったら、全然美味しくない」と言ってすぐに灰皿代わりに俺が以前使っていたフタ付きの瓶にタバコを入れもみ消した後、「これからは二人でずっと暮らすんだもんね、二人きりだね……楽しく過ごそうね……」そう言って静かに涙を流していた。


 そんな妻に、俺は何と言葉をかけていいのかわからず、ただ後ろから抱きしめることしか出来なかった。



 今吸っているのはあの時買ったタバコの残りなのだろう。

 耐え難いほど悲しい事があった時だけ妻はタバコを吸っていたのかも知れない。


 あの時はすぐにもみ消していたが、今は紫煙をくゆらせながら、深く吸い込み煙を吐き出している。

 ゆっくりと涙が妻の頬を伝っている。

 あの時は、久しぶりだから煙が目に染みるのよ、なんて強がっていたが……


 そんな妻を、俺は無駄だとはわかっているが、もう一度抱きしめようとした。


 やはり俺の腕は妻を抱きしめることはできず、すり抜け、妻の髪とタバコの煙を揺らすことしかできなかった。


 妻はタバコの煙が激しく揺れ動いたのに気づき、換気扇のスイッチを入れた。



 俺の体は回る換気扇に吸い込まれ、家の外に排出された。




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