第93話 トレントの移動
マリスさんと一緒にとある1本のブナの木まで行く。
このブナの木がトレントなのだろう。
ヒヨコ岩へ続く森の入り口周辺のトレントには目印を付けて見分けられるようにしていたが、この辺りだとどの木がトレントなのかは一見俺にはわからない。
他のエルダーエルフ達は一旦休憩しているのか、林の木の根元に座って思い思いに過ごしているようだ。
リューズもキュークスと何か楽し気に話している。
「では、ジョアン殿下、このトレントに手を当てて祈ってみてください」
「祈るって、何をどう祈ったらいいのか……」
「祈る、というと少し抽象的でしたね。ジョアン殿下がこのトレントに対して害をなさない存在である、ということを伝えて上げて下さい。木も自分が切り倒されたり、枝を無暗に折られたり、痛みは感じないようですが傷つけられることは望んでいません。それを本心から思って下されば伝わると思います」
そういうものなのかな?
まあこの「何となく雰囲気で考えを伝える力」って、本当に自分じゃさっぱりわからん。
でも、マリスさんがそう言うならやってみよう。
上手く行かなかったとしてもそれはそれ。困ることではない。
大丈夫だよー、トレントの木、お前を傷付けたりしないよー、ちょっと動いて欲しいんだよー。
こんなのでいいのか?
当然トレントは一切何の反応もない。
反応があっても俺にはわからないが。
「ん、ジョアン殿下、もう少し真面目にトレントのことを考えて見てくれませんか」
「マリスさん、トレントのことを真面目に考えるって、どんなことを?」
「……トレントは以前お話した通り、『生命の木』が自分の周囲から他の木を動かして大地と太陽の光を多く得るために動く存在にされた木です。決して自分の意思で動き続けている訳ではありません。
植物も自分の生存環境を良くするために他の植物を排除する物質を出したり、虫などに働きかける物質を分泌したりしています。彼らも彼らで懸命に生きる努力をしているのです。
トレント達はある意味最強の植物『生命の木』に負けた存在です。そんな彼等を労わってあげる気持ちを伝えてあげてくれませんか」
なるほど。前世の植物の研究でも自ら動けない植物たちが環境に働きかけるために色々な物質を出しているというのは言われていたことだ。
当然俺が自分で研究していた訳ではなくNHKの番組などで目にした程度のショボい知識しかないが。
マリスさんの言う通り、トレント達もひたすら追いやられ、安住することもできない存在だとすれば、少しくらい労わってやりたい。
ああ、簡単に薪にしたり出来なくなってしまう。
俺はもう一度トレントの地上に出た根の上に乗っかり、幹に手を当てて、このトレントの木生について思いを寄せて見た。
お前も大変だったな。
どこで生まれたのかは知らないけど、暗き暗き森の中から随分と頑張って動いて来たんだな。
急き立てられる感覚だったのかな?
出来れば安住の地、安心して過ごしていられる場所、そんなところをがあればいいと望んでいるのかも知れないな。
トレント、お前に何してやれるかわからんけど、畑の近くだから肥料のおこぼれとかならやれるかも知れないな。
少しくらいホッと一息つけるといいな。
目を閉じてそんなことをつらつら考えていたら、何か俺が乗っかっている木の根ごとゆっくり持ち上がる感覚があり、目を開けてみると俺が乗っている木の根の周囲の土が土の色をした流体金属か水銀か、といった感じに変化していて、トレントが乗っている地面は表面張力で膨らんだように盛り上がっている。地面に生えている雑草などは、その液状化した地面の上に浮いているような状態になっている。以前俺たちがトレントが動くかどうか確認しようと地面に色付きの釘を打ったことがあったが、きっと釘も草の様に浮いた感じになっていたのだろう。
俺の乗ったトレントはその液状化した土とその上に浮かぶ雑草をかき分けて1m程滑り下り、そこで止まった。
液状化した土に浮かぶ雑草はトレントの移動でできた流れによって後方に流れる。
そしてトレントが止まると同時に周囲の土や雑草は元の様相に戻っている。
トレントが元あった場所は、流れた雑草がまるで元からそこにあったかのように生えている。
「やはり、ジョアン殿下の気持ちがトレントにも伝わったようですね」
マリスさんはそう言って微笑む。
何だか全てお見通し、みたいな安心感と見透かされている怖さが同居している感じで複雑だ。
「いや、驚きました。トレントの移動をまさかこんな近くで見れるなんて」
俺はそう言いながらトレントが元居た場所まで地面を踏んで確かめつつ戻る。
地面の固さはトレント移動前と変わらず、雑草もトレントが移動した場所のものが流れでズレたとは言え、元々そうだったかのように違和感なくほとんど同じ状態に戻っていた。
地面が液状化している時に雑草を取れれば除草がだいぶ楽だろうな、などと考えた。
「ジョアン殿下が、心からトレントのことを思ったのがトレントにも伝わったのですよ。他の木々と一緒にするのではなく、このトレントのことを思ったのがね。
そうして他の存在のことを心から思う、それは誰でも出来ることではありませんよ。こうして偉そうに話している、森の守護者を自認している私たちエルダーエルフでも、そこまで1本の木のことを思うことは出来ていませんからね。
私たちもトレントを動かすことはできますが、それは『生命の木』の力を借りて、自分たちの都合で行うことですから。結局生きているモノは自分が一番なんです。
その中であなたのような、他の存在について思いを馳せることが出来る存在は稀でしょう。
ジョアン殿下、あなたがこの生存が厳しい世界でその資質を曇らせないまま生きて行って下さることを願いますよ」
マリスさんはそう言いながら、自分の左腕にしている腕飾りをトレントに近づけた。
トレントはマリスさんから逃げるように地面を再び液状化し盛り上げ、3m近い距離を滑って移動した。
俺とマリスさんが立っている地面も液状化したが、ズブズブと沈んでしまうようなことはなく、例えるなら多量の水銀の上に物が乗っかっている状態というか俺たちの立っている部分は沈み込むものの、決して足首まで沈むことはなく、常に足裏が着いているのだ。
そしてトレントの移動が終わると、何事もなかったかのように地面が戻る。俺たちが立っていて沈み込んでいた地面もポン、と元に戻るのだ。
何とも言えない不思議な体験だ。
「こんな不思議な状態に地面を変化させるなんて、凄いですねトレントの土魔法は」
「そうですね。植物自らが使う土魔法ですから、私たちとはまた違ったイメージが働いた結果なのでしょうね。植物がこの世界をどう捉えているかの一つの考察材料になるかも知れません。
そう言えば、トレントについて以前リューズに尋ねられたことがありましたが、それについて答えるのを忘れていました。多分あなた方の誰かがリューズに聞いておいて欲しいと頼んだことだと思うのですが。
トレントが移動して広がると森の木の密度が減るはずなのにそうはならない理由。
あなた方も目撃したように、トレントが移動した後、新たな木が通常以上の成長速度で生えるようになっているんですよ」
ああ、俺がダリウス=ハールディーズ公爵令息に拉致される前にトレントの観察をしていて疑問に思った事だ。もう随分前だな。
「新しく生えてくる木はトレントなんですか?」
「いえ、トレントではありません。普通の木です。ですが、『生命の木』の出す、木をトレントに変える物質は風に乗るとけっこう広範囲に広がるようで、新しくトレントになる木もあるようですね」
「通常以上の速度で木が成長するのはどういった理由なんでしょう?」
「トレントの周囲だけで起こることなので、トレントによる何らかの働きかけがあるのだと思いますよ。こういったことはドノバン=アーレントさんが興味を持ちそうですね」
そう言ってマリスさんは微笑んだ。
結構マリスさんは何だかんだ言ってドノバン先生のことを気に入っているような気がする。
しかしそうか、やっぱり新しい木がものすごく早く成長していたのか。
だとしたら暗き暗き森は物凄い速度でどんどん広がっていってしまう。この調子だと100年でハールディーズ領のベルシュ以北まで暗き暗き森に飲み込まれてしまうんじゃないだろうか。
「トレントが移動したところを新しい木が生えて埋め、を繰り返していくと、暗き暗き森が物凄い速さで広がっていくんじゃないかと思うのですが。森の守護者のエルダーエルフにとってはその方が良いのですか?」
俺は少し恐ろしくなり、マリスさんにそう聞いた。
エルダーエルフ達が森を使った人間世界の征服の野望を持ったら、ネーレピア制圧も可能なんじゃないだろうか。種としての繁殖力の低さという弱点はあるものの、エルダーエルフ達は木があればいくらでも魔法が使える。魔法単体ではショボい効果しかないとは言え、エルダーエルフの集団に掛かれば役割を分担して雷雲を起こせるようだし、俺達に話していない使い方もあるだろう。森の増殖はエルダーエルフにとっては力が増すことになる。
「ジョアン殿下、もしそうだとしたら私たちはもっと早くこの人族の村を潰しているとは思いませんか? この村は森の中でここだけポッカリと人里です。この村が無ければ、それこそもっと一面暗き暗き森となっていますよ。
私たちは森を広げたいとは思っておりません。私たちは私たちの知る範囲の暗き暗き森を守りたいと思っています。
先程言ったように、生物は結局自分が一番大切なんです。私たちエルダーエルフも自分たちの生活を支えてくれる範囲の森と自分たちの生活、先祖たちが変化した『生命の木』を守りたい、ただそれだけです。
とはいえ山火事などは恐ろしいので、自分たちのテリトリー以外の森林の様子も知っておくためにけっこう広い範囲で動いてはいますよ。
人族の侵攻がある場合は、自分たちのテリトリーに入られて荒らされる前に森の外縁部で戦うことになるでしょう」
「なら、私たち人間が森の木を伐採したり、畑を広げたりすることは許してもらえるという認識で良いのですね」
「ええ。あなた方人族も、こうして村を作り維持していくのは自然との闘いでしょう。その営みを否定することは致しません。私たちの大事なテリトリーを侵しさえしなければ、森の資源を使っていただいて大丈夫ですよ。
ただ、ジョアン殿下、あまりこのトレントの前では伐採の話はしない方が良かったかも知れませんね。
このトレントがあなたに対して不信感をまた持ってしまったかもしれませんよ」
「あ、そう言えばそうですね」
済まないトレント! お前を切り倒そうという話じゃ無いんだ! 勘弁してくれ!
「まあ、ジョアン殿下の不思議な力が植物にも通じるのか、の検証ですから、これ以上殿下にトレントを動かしてもらおうとは思っていないので大丈夫ですよ。あとは私たちがやっておきます。殿下はこのトレントには安心してもらえましたが他のトレントに伝わった訳ではないので、他のトレントにも一々先程のように語りかけてもらうのも大変ですしね。
殿下がここにおられると他のトレントが警戒して動きませんので、ご友人と一緒にしばらくお待ちください。肥料の
マリスさんにそう促されたので、ハンス達のところに俺も行くことにした。
立ち去る前にふと思った事をマリスさんに一言いう。
「マリスさん、検証だなんて、ドノバン先生に影響を少し受けたんじゃないですか?」
俺がそう言うとマリスさんは
「生き物は互いに影響し合うものですからね」
そう言って手を上げて頭を掻いた。
王家領の畑が見えない位置の林の木陰で俺たちが1時間程待っていると、リューズが呼びに来た。
「お父さんがジョアン達を呼んできてって言ってたよ。肥料の
「随分早かったね。もう少し時間がかかるのかと思ってたけど」
「肥料の
「そうか。それだったら私にもある程度出来るのかも知れないなあ」
「ジョアンは植物の力使える訳じゃないから、無理しなくていいよ。じゃあお父さんのところに行って、明日からの西の森の探索の手筈の打ち合わせしようか」
リューズに着いていき、俺達もマリスさんのところに向かう。
畑はきれいに起こされ、肥料を
この世界では
エルダーエルフ達が集団で待っているところに俺たちは到着した。
「ジョアン殿下、ワイバーンの素材加工もあるので私たちからは西の森の探索に5人程出させていただきます。キュークスを付けるのでリューズも西の森の探索に加わりなさい。
探索の目的は西の森に異変があった場合はその確認、何も異変が無ければそれでよし、ということでよろしかったですね?」
「ええ、それで大丈夫です。ジャイアントボアなど森の魔物の移動の原因があるならそれさえ突き止めることが出来れば。ダイク、それでいいよね?」
「はい。最もワイバーン撃退後は森の魔物の移動も落ち着いたようですから、ワイバーンが異変の原因だった可能性が大きいと思われますが」
ダイクはワイバーンを撃退した日に西の森の哨戒に当たっていたが、撃退後はそれ以前と違い、ジャイアントボアを見かけても村の方に寄って来ることは無く元居た西の方向に戻ることが多かったそうだ。
それで撃退後2日目からは哨戒は雪狼たちに任せて、ワイバーンの解体に合流していたのだ。
「何もなければそれはそれで喜ぶべきことだよ。安心して農作業ができるからね」
「私たちも周辺の地形の把握や植物の種類の確認などできますので、何もない方が有難いですよ」
マリスさん達も何もないことを歓迎してくれるようだ。
「では明日、教会の二番目の鐘(8時)が鳴る時に、西の森の中、王家の畑から100m程入ったところにある尖った大岩で待ち合わせということで如何でしょうか」
とダイクが提案する。
「ええ、そうしましょう。リューズ、今日は私たちと一緒に集落に戻り、明日また一緒に来よう」
マリスさんがそうリューズに言う。
「お父さん、今日はピアさんと一緒に料理を作る約束になってるんだ。だから約束どおり家に戻るのは5日後ね」リューズはそう言って断った。
ワイバーンを撃退した日の夜、リューズは一度エルダーエルフの集落に戻っている。
リューズに断られたマリスさんは「ああ、私とニースにいつもついて回っていたリューズは何処に行ってしまったんだ……」と嘆いた。
「マリスさん、ドノバン先生が明日からエルフの集落にお邪魔するのでよろしくお願いしますよ。
それと、リューズが集落に戻る予定の5日後、私も一緒にお邪魔させていただきたいのですが。
王都に頼んでいたマリスさんたちへの贈り物がようやく届いたんですよ。それをお届けしたいんです」
「ええ、殿下がリューズを連れて来てくれるなら大歓迎です。ドノバン=アーレントさんの件も大丈夫ですよ」
マリスさんは落胆から立ち直り切らない様子でそう答えた。
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