第86話 対ワイバーン
ここを抜けると休耕地、という林の中に、雪狼10数頭と4つの人影が見えた。
俺はその集団に近づくと「止まれ!」と雪狼に合図を送った。
合図された俺の乗っている雪狼は、仲間たちの元で止まる。
『殿下、何故戻られたのですか!』
ハンスが雪狼から降りて4人の下に近づいた俺を小声でそう叱責する。
ハンスのいつもの飄々とした砕けた口調じゃない。今は俺の護衛騎士としての畏まった口調で俺に反駁する。
『雪狼に乗ればハンスとドノバン先生もここから逃げられると思って』
『殿下、たとえ本心でそう思われたとしても、殿下の御命を少しでも危険に晒すなんて、護衛騎士の面目に関わります。暗き暗き森でリューズと相対した時とは相手が違い過ぎるのですよ!』
『だったら皆で戻ろう。私のためにハンスやドノバン先生に危険を冒して欲しくないよ』
『そうは参りません。敵の状態や様子を確認しないでその場を立ち去り、結果村が襲われ殿下に危険が迫るなんてことになっても護衛騎士の面目が立ちませんよ』
『ハンス、小声でも言い争っているとあのワイバーンに聞こえかねねえ。少し落ち着け。殿下が来ちまったんだから仕方ないだろ。だったらここで殿下を必死でお守りするのが俺達の役目ってぇもんだろ』
ダイクがハンスに低い小声でそう伝える。
ダイクは木の陰からずっと休耕地を睨んでいる。あの怪物の様子をじっと観察しているのだ。
リューズもダイクの隣で同じく怪物を観察している。背には矢籠を背負い、左手には弓を持っていて、矢をつがえ、いつでも弦を引き絞って撃てる姿勢を取っている。
ハンスとドノバン先生を見ると皮鎧とバックラーを装着し剣を持っている。
ダイクとリューズが2人の装備を持って来てくれて装着したのだろう。
当然ダイクも皮鎧と剣を装備している。
リューズは鎧はなくいつもの服装だが、弓矢はしっかり持ってきており、臨戦態勢で警戒している。
こうしている間も、教会の鐘の5点打はずっと続いている。
もっとも俺が教会からここに到着してまだ5分も経っていない。
雪狼の速さは森や林の中では馬の全力疾走以上に速いのだ。
ハンスもダイクもドノバン先生もリューズも、皆休耕地の怪物の様子を息を殺して観察している。
怪物はずっとジャイアントボアを貪っている。体長4mのジャイアントボアは巨体の怪物にとっても食いでがあるようだ。
俺も木の陰から休耕地の怪物を観察する。
ここから休耕地は50m程しか離れていない。荷車で逃げる時ははっきりしなかった怪物の姿がはっきり見える。
全身黒緑色の鱗に覆われ、頭部は蛇の形で尖った両耳が付いており、耳と耳の間に2本短い角のようなものがついている。目の光は完全に蛇のそれ。人間とは意思疎通ができそうな感情が読めない。
全体のシルエットは鷲に似ていると思ったが、首が長くそして尻尾も長い。
鷲に似ているという印象は大きな二本の脚のためだった。
二本の足のすぐ上から大きな黒い蝙蝠のような羽が出ており、今は羽を休めているのか開いてはいない。
2本の足のうちの1本でジャイアントボアの体を抑えつけ、長い首を下げてジャイアントボアの腹から貪り食っている。その頭の後ろから背中を通り尻尾にかけて背びれのようなものが付いている。
頭から尻尾の先までは10mはあるだろう。2本足で立ち上がった高さは6m程だろうか。
『ルンベック牧師に説明したらワイバーンじゃないかって言ってたけど、やっぱりあいつはワイバーンなのかい?』
誰に対してともなしに俺は小声で問いかけた。
『ええ、多分あの特徴からしてワイバーンです。ただ、もう何十年もアレイエム国内にワイバーンが出たことはないので対抗策の取りようが正直ないですね』
ダイクが低い小さな声で返答する。
『対策がないって、どういうこと?』
『昔の記録だとマッケルがワイバーンに襲われたらしいのですが、その時は火攻めというか、油をワイバーンに掛けて火矢で火を放って焼き殺したらしいんですよ。マッケルの城壁下にワイバーンが来たのを見計らって城壁の上から油を注いだんだとか。
今、このフライス村でそんなことをしたら、火が暗き暗き森を燃やしかねません。
エルダーエルフが黙っていませんよ』
確かにその通りだ。もうここ1週間以上雨は降っておらず、空気は乾燥している。
火攻めをしたら森に延焼してしまう。消火する手立てもない。
エルフの集落でマリスさんが言っていた通り、暗き暗き森を燃やすことになったらエルダーエルフは俺たちを許しはしないだろう。
もっとも火攻めに使える程の量の油なんてフライス村には無いのだが。
『リューズ、お父さんたちはワイバーンを退治したことはないの?』
『ボクが産まれてからは無いんじゃないかな。少なくとも今の場所に移ってからはないよ。暗き暗き森の中でももっと南部に住むエルダーエルフ達なら退治してると思うけど』
リューズは弓をいつでも放てるようにワイバーンから目を逸らさずに答える。
『リューズ、マリスさん達に応援を頼めないか? もしかしたらワイバーンの対処法を知っているかも知れないだろ?』
『父さん達なら知ってるかもだけど、連絡方法がないよ。生命の木からなら不思議な能力で同じ生命の木に伝えることはできるけど、ここには生命の木なんてないし』
『雪狼なら30分位でエルフの里まで行けるだろ? 雪狼の1頭に何か括り付けて連絡できないか?』
『エルフは文字を持ってないから詳細を伝えるのは無理だよ……けどボクの物を持たせれば何か気づいて様子を見に来てくれるかも……』
『じゃあ、リューズの物を何か雪狼に持たせてエルフの集落まで知らせに行ってもらおうよ』
『……わかった、じゃあこれを』
そう言うとリューズは手早く自分の手首に付けていたミサンガのような物を口で咥えて引きちぎり、隣にいたダイクに渡した。
『ダイクさん、それを雪狼の目印の布にしっかり括り付けて、エルフの集落まで走らせて』
ダイクはリューズから受け取ったミサンガ? を手早くしっかりと雪狼の右足首に巻いた目印の布に括り付けると、その雪狼の耳元でwauouと小声で何か指示を囁いてその雪狼を送り出した。
雪狼は林の中を音を立てないように慎重に東のヒヨコ岩のある森の方角へ遠ざかっていく。ある程度ここから離れたら全力で駆けるのだろう。
『マリスさん達が来てくれるまであのワイバーンがゆっくり朝食を味わっててくれるといいんですがね』
ハンスがボソッとそう言うが、
『いや……そろそろ朝食の時間は終わりそうですよ。もう少し綺麗に食べてくれてもバチは当たらないと思うんですがね……そろそろ食べだしてから15分経ちますから』
ドノバン先生が懐中時計を見てそう言う。
随分時間が経ったような気がするが、俺とエリック達が荷車に乗せられて逃がされた時からまだそれだけの時間しか経っていないのだ。
エルダーエルフのマリスさん達が来てくれるとしても1時間はかかるだろう。その間に村に被害を出したくない。だけど何が出来るのか。
ワイバーンの様子を見ると、さっきまでは頭も上げずにジャイアントボアを貪っていたが、今は頭を上げて周囲を見渡すことが増えている。
『どうも頭の肉まで綺麗に食べようって気はないみたいですね。さっきから教会の鐘の音を気にしているみたいですよ』
ドノバン先生がワイバーンの様子を見ながらそう言うと、
『満足して棲家に戻ってくれてもいいんだがなぁ。まったく好奇心旺盛なお客さんだこと』
ハンスもおどけた口調でそう言うが、表情は真剣だ。
教会の鐘の5点打はまだ続いている。農地に出ている村人たちは俺たちのように雪狼が曳く荷車を持っていないから、走って戻ってもそれなりの時間がかかるだろう。
多分あの5点打は危険が去らない限り鳴らされ続ける類のものだ。ルンベック牧師も大変なことだ。
ただ、あの5点打がワイバーンの注意を引いているという現状はよろしくない。
他の魔物なら、騒がしい音を警戒して森に逃げ帰ってくれるだろうが、このワイバーンはそんな素振りを見せない。自分が絶対的な強者、捕食者だと思っているのだろう。
『教会にあいつに行かれると村人に甚大な被害が出かねねぇ。ハンス、ここで足止めするしかねえぞ、覚悟を決めろ。殿下は雪狼に乗っていつでも逃げられるように準備しておいて下さい。
俺が木に括り付けたロープをあいつに引っ掛けて飛べないようにする。
俺があいつにロープを引っかけたらリューズは弓であいつの翼を射るんだ。あの翼の皮膜が破れてくれればこっちのもんだが……あれだけデカい的だから普通に射ってくれればいい。魔法は取っておいてくれ。
ハンス、ドノバン先生、すまねえがあいつの気を引くように攪乱してくれ。あいつの尻尾と2本足の蹴爪、それと何か吐くかも知れねえから危なくなったら瞬足で回避するよう頼む。攻撃できるようだったらしてくれてもいいが、まずは自分の身を守るのを優先だ。
多分あいつを牽制できるのは村中探しても俺達しかいねえからな』
ダイクの口調が変わる。本来のダイクはハンスに対してだけ出している、こういうラフな口調で喋るのが自然なのだろう。命の危険があるこの場面で本来の口調が出ているのだ。それを咎めようなんて気は当然俺にはさらさらない。
微妙に俺に対してだけは敬語っぽくなってるのはダイクの生真面目さかも知れない。
『で、オメーは必死にあいつに縄をかけようってんだな? やれんのかよオイ』
『やるしかねえだろ。飛ばれたら俺たちゃ何もできねえからな。地上にいてくれりゃ何とかなるかも知れねえ。
殿下、出来たら俺達のことは気にせず代官屋敷に戻っていただきたいんですが、聞き入れちゃくれないんでしょう?』
『すまない、ダイク。足手まといかも知れないけど、誰か怪我した時に治療の手伝いくらいはしたいんだ。自分の身が危なくなったら必ず逃げるし、ここで雪狼と隠れてるから』
俺はそう言って乗ってきた雪狼に乗った。
『まったく、困った王子ですよ。こんな危険に飛び込むワガママ王子ジョアン殿下の護衛騎士が務まるのは俺とハンスくらいのもんですよ本当に。
殿下、絶対に林からは出てこないで下さいよ。
じゃあ、ハンス、ドノバン先生、次にあいつが頭を上げて教会の方を見たら気を引いてくれ』
『まったくよぉ、オメーは気楽に言ってくれるよなあ』
『わかりました。精一杯気を引いてみますよ』
『じゃあみんな頼んだぜ。リューズも弓で翼を射るだけでいいからな、アイツに近づくなよ』
そう言うとダイクは足元に置いてあった巻いてあるロープの束を手に取り、直径1m弱の木の幹にロープの先端をしっかりと縛り付けた。
ライネル商会から使うだろうと購入しておいたが、結局今まで使うことのなかった太さ7cm程のロープだ。長さは50m程だろう。麻の繊維で作られており、フライス村で作られる
ダイクは木の幹に縛り付けたロープの反対側の先端を投げ縄のように結び、引っ張ると締まるようにした。
それを確認したハンスとドノバン先生は目と目で合図をし合い、林を飛び出した。
まだジャイアントボアを貪っているワイバーンに走って向かっていく。
さっきダイクが言っていたタイミングとは違うが、ダイクの用意が整ったのが確認できたのでワイバーンが油断している間に先制で一撃をまず入れようと考えたのだろう。
ワイバーンがハンス達の足音に気づき、ジャイアントボアから口を放し首を曲げてハンス達を見る。その尻尾が地を這うように振られ二人を攻撃しようとした瞬間、二人の姿が消えた。
瞬足を使って移動したのだ。
ハンスは空中から、ドノバン先生はワイバーンの尻尾が振るわれた方向と反対側から現れた。
ハンスはワイバーンの反対側に着地した。ハンスの手に握られている剣にはワイバーンの血が付いている。ワイバーンの頭を見ると、開いていた左目が閉じ、
ドノバン先生の剣にも血が着いている。ワイバーンの右足から血が出ている部分はドノバン先生が斬りつけたのだろう。しかし表皮を斬ったのみのようで、ワイバーンの動きに支障が出そうな怪我ではない。
GYOAAAAAAAAAA!
ワイバーンの咆哮が響き、空気を揺らす。
怖い!
ワイバーンの咆哮を聞いた俺の体は、持っている動物としての本能によって恐ろしさが全身を駆け巡っている。
圧倒的な巨体で人間だろうと餌として見ているであろう存在の危険性を俺の全身が感じ、逃げろと警告を発しているのだ。
俺が乗っている雪狼も、ワイバーンの咆哮を聞いて動揺しているのか、呼吸が早くなっている。雪狼の背中にうつ伏せで乗っているので、雪狼の心臓の鼓動が早くなっているのも伝わって来る。
だが、この本能の警告に負ける訳にはいかない。
何か俺にも出来ることがある筈だ。その糸口を見つけるためにも怖さに負けて目を逸らす訳にはいかない。
リューズを見ろ! 女の子なのに全く動じていない。今でもずっとワイバーンに対していつ矢を放ってもいいように集中して構えている。
ワイバーンはハンスとドノバン先生の方に向き直る。
俺達が隠れている林に背を向けた格好だ。
ワイバーンは何か息を吸い込むかのように大きく首をゆっくり後ろに反らし、胸を張るような動作をしている。
「先手で左目をいただいてやったぜ、この大トカゲ野郎!」
ハンスが大声で叫ぶ。ワイバーンの注意を自分に引きつけようというのだ。
ワイバーンが俺達に背を向けた瞬間、ダイクが縄を持って飛び出した。
速い。
瞬足も使いあっという間にワイバーンの背後までたどり着くと、ワイバーンの尻尾に縄をかけた。
ダイクがワイバーンの尻尾に縄をかけた瞬間、ワイバーンが何かを吐き出すような、頭を前に突き出すような動きを見せ、ハンス達がいる方向が炎に包まれた。
と同時にワイバーンが尻尾を振るいダイクは隣の刈り入れ済みの畑まで50m程吹っ飛ばされ転がった。どれだけの威力なんだよあの尻尾は。
だが、ワイバーンが尻尾を振るったことで、ワイバーンの尻尾の先端の突起に縄が掛かって締まり、ワイバーンは縄で木に繋がれた状態となった。
ワイバーンは尻尾を振り回し辺りを薙ぎ払おうとするが、ロープに動きを制限されて自分の体の前面まで尻尾が出ることは無い。
それを見て炎から逃れたハンスとドノバン先生がワイバーンに斬りつける。
リューズはワイバーンの翼に向かって矢を放つ。
蝙蝠のようなワイバーンの翼の皮膜を矢は射抜いて貫通する。
リューズは次々に矢を放つ。
「Waoooooooooon!」
吹っ飛ばされて地面に転がったダイクが狼の遠吠えのような声を上げると、林に隠れていた雪狼たちが俺の乗っている雪狼を除いて、一斉にワイバーンに襲い掛かった。
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