第58話 次の日




 「殿下、起きて下さい、朝ですよ」


 ピアの声だ。


 ん? 朝?


 「朝ですよ、殿下。昨夜はゆっくりお休みになったのですから、今朝のパン捏ねを一緒にお願いしますよ」


 ピアがそう言って俺の体を揺する。


 何ぃー、俺は昨日の夜眠ってしまったのか!


 確か、机で考え事をしているうちに眠ってしまったんじゃなかったか。


 だったら眠りは浅かったはずだ。


 「ピア、何で起こしてくれなかったんだよ、起こしてくれれば起きたのに」


 ピアはまるでコンタクトレンズを落とした女性が、見かけた知り合いを必死で誰か確認しようとする視線、つまりヒジョーにジト目で俺を暫く見つめ、言った。


 「あれだけ呼んでも揺すっても起きなかった人が、良く言いますね殿下。殿下のお加減が悪くなったのかと思って、私がどれだけ心配したと思っているんですか」


 そんなに俺は起きなかったのか。


 まあ確かに昼間はエルダーエルフの集落まで行って疲れていたけど。


 「そうだったのか、ごめん、ピア。

 それで酵母と混ぜた元のパン種は作ってくれたのかい?」


 「ええ、ドノバン先生がご存じだったので、ちゃんと捏ねておきましたよ。

 ドノバン先生は机で寝ていた殿下をベッドまで運んで下さったのです。この後お礼を言っておいて下さい」


 「うん、そうするよ。ピアもすまなかったね、そんなに深く眠っていたなんて思わなかった」


 「いつも殿下は眠るときはベッドで眠られますから、私も随分殿下に楽をさせてもらっていたのだと気づかされました。昨日のようにベッド以外の場所で眠られますと、私の力では殿下をお運びすることが出来ませんから」


 「今後もなるべくピアに迷惑をかけないようにするよ」


 「そうですね、そうしていただけると助かります。というよりも体が疲れて眠い時はご無理をなさらないようにして下さい。パン種を捏ねるのも、昨夜行った分はさして大変でもなく人手もそんなに必要ではありませんでしたから、私たちにお任せしていただいて良かったと思いますよ」


 「そっか。パン種作るのはそんなに大変じゃなかったか」


 「ええ、ドノバン先生お一人でも十分だったと思いますよ。私は今後のためにやり方を見れて有難かったですけど」


 こうして会話しながら、ピアが俺の脱いだ服を畳み、新しい服を着せてくれている。

 相変わらずピアの衣類着脱の手際の良さは変わらない。


 そう言えばドノバン先生は、しっかりピアに夕方言った言葉の真意を伝えられたのだろうか。


 俺の身支度を手伝うピアの様子はいつもと変わらないように見える。

 机でうたた寝してしまったから、若干お小言成分が多いけれど。


 「そう言えばピア、昨夜はドノバン先生と何か話せたのかい?」


 とピアに聞くと、ピアの手の動きが一瞬止まったが、また元の動きに戻り、


 「ええ、自然酵母の扱いや、それにあまり無理をしても良くないということを」 


 と答えた。 


 おや、これはドノバン先生、ピアに伝えてないな。

 うっかりなのか、勇気がなかったのか。

 本当にドノバン先生ったら、何でも出来るし何でも知ってるのに、女性に対してだけは奥手というか、気持ちを伝えるのが下手なんだなあ。ヘタレと言おうか。そう言っちゃ可哀そうか。


 さて、そうこうしているうちに着替えが終わった。


 厨房へ行ってパン種を元にパン生地を捏ねないといけない。そう思い部屋から出ようとしたが、ピアが俺の手を掴んで引き留めた。


 「どうしたんだい? ピア」


 と聞くとピアは「失礼します、殿下」と言って両ひざを付いて俺を抱きしめた。


 「え、ピア、何、どうしたのさ」


 ピアは無言で俺を放すと、今度は俺の手を自分の右手の甲に当て、目を閉じている。


 何じゃこりゃ。


 しばらくそうしていたが、ピアは俺の手を放すと、「ありがとうございました、殿下」と礼を言って俺の部屋から出て厨房へ行った。


 なんだ何だ、何がしたかったんだピアは。


 そんなに俺が愛おしくなってしまったのか。

 そりゃあ困るぞ、ドノバン先生に対して俺が会わせる顔が無くなる。

 でもあんないつもと変わらない表情でそんなことをされてもなぁ、さっぱり真意がわからんよ。


 まったくピアは、本当に何時まで経っても謎だ。



 厨房に行くと、ドノバン先生は既に来ていた。戸棚の上から伸びあがってボウルを出している。

 ピアも小麦粉と水を用意していた。


 「おはようございます殿下。昨夜は殿下が良くお眠りだったので、殿下には申し訳ないですが、私とピアさんでパン種の仕込みをしてしまいました」


 そう挨拶してくれるドノバン先生は、目にクマがうっすら浮かんでいる。

 昨夜、やっぱりピアに言うべきことを言えず、寝付けなかったと見た。


 「おはようございます、ドノバン先生。昨日は私をベッドまで運んでいただいたようで申し訳ありませんでした。

 ところで大丈夫ですか、ドノバン先生。昨夜あまりよくお眠りになられていないようですが」


 「いやいやこれは。殿下にご心配をおかけしてしまい申し訳ありません。昨夜はちょっと時間がある時にスライムの様子を観察しておりまして、自分の部屋に戻ってもついその動きなどを思い出して考察していたものですから眠りが浅くなってしまいまして」


 ドノバン先生、ピアがいるから言えないんだろうけど、本当はピアに伝えるべきことを伝えられなかったことで悩まれていたんだろうな。


 「……ドノバン先生は一度生き物の観察を始められると、他のことを忘れてずっと観察されますから。大事なことが他にある時は生き物を観察するのをお控えになった方がよろしいかと思いますよ」


 ピアはいつもの調子でドノバン先生に注意している。


 「いやあ、ピアさんには敵わないですね」


 ドノバン先生もいつもの調子だ。


 まあ、変にギクシャクしたりしていないのなら良かった。


 なんだかんだで二人とも大人だからな。変な雰囲気になっても困るから、昨日の夕方のことは触れないようにしておこう。


 「じゃあ、いよいよパン種を混ぜてパン生地を捏ねますか。昨日できなかったから今日は全力で頑張っちゃうぞぉ」


 俺が景気よくそう言うと、ドノバン先生は、「殿下、でしたらしっかりお願いしますよ」とほほ笑む。


 ピアは「殿下の意気込みは素晴らしいですが、まだ幼いのですから朝からご無理はされませんように」と冷静に言う。


 うん、いつも通りだな。


 俺たちは2倍に膨らんだパン種を3つにちぎり、一人一つづつボウルに小麦粉と水とパン種を入れて捏ねだした。





 朝食を食べ終わり、食器の片付けなども一通り終わった。


 酵母入りのパンは、あれから2時間程生地を寝かせた後、朝食前に焼き上げた。

 久しぶりのふっくらしたパンは、文化の香りがした気がする。

 朝のお勤めもしっかりスッキリ出たし、リューズを迎えにヒヨコ岩まで行く準備は万端だ。

 今朝焼いたパンもしっかり荷物に入れてある。

 まあそんなに何かを食べないといけない程時間はかからないと思うけれど、念のためだ。

 今日はもしかしたらマリスさんとニースさんが気を効かせて、リューズに何かお土産を沢山持たせている可能性もあるので、荷物が沢山あっても運べるように、フデに荷車を引いてもらい一緒に着いてきてもらう。フデもボスやバロンに会うのは久々だ。


 今日は暗き暗き森の中の深いところまでは行かないが、一応バックラーなどの装備はしていく。

 トレントによる森の拡大は、伐採を始めてもなんとか留めている程度で、ヒヨコ岩まではまだ森の中だ。

 雪狼たちが脅威になりそうな魔物を狩ってくれているとはいえ、万が一に備えておかないと、少しの怪我でも怖い。


 自分の部屋で装備を整えていると、珍しくピアが部屋にやってきた。


 ピアはいつもなら食堂や厨房の掃除を始めている頃だ。


 「どうしたんだい、ピア。珍しいね。今日来るリューズと部屋が一緒になるから緊張してるのかい?」


 俺はピアが同室になるリューズのことで心配になったのかと思いそう聞いた。


 一応リューズにも代官屋敷の客室で一部屋空いているところを使って貰ってもいいのだが、週に1度必ず代官マッシュとその従者、フリッツとデンカー商会(ということになっているライネル商会の丁稚)の者が泊まることになっているので、最初からそのための客室は開けておいた方がいいだろう、ということでピアと一緒の部屋を使ってもらうようにした。


 「リューズさんのことは、上手く打ち解けられるのかは心配ですが、来ていただいて話しをしてみないと何とも言えません」


 「そうだね、話してお互いに人となりを解り合おうとするのは大事だよね。頼むよ、ピア」


 「はい。リューズさんは私たちの言葉がずいぶんお上手だそうですし、その点はお任せ下さい」


 「うん、ピアならその点リューズと上手く打ち解けられると思うから、私は心配していないよ。

 ピアはそれをわざわざ言いにきたのかい?」


 「いえ……殿下、今日の午前中、私に少し休暇をいただけませんか」


 ピアがそんなことを言うのは初めてだ。というか、俺が覚えている限り、ピアが自分から休みたいなどと言い出したのは王宮の頃を含めて覚えがない。

 王宮の頃も、俺の世話を交代で務める相番のメイドが休むと積極的に自分が務めていたし、あまり休みたがらない印象がある。


 「ピアが休みたいって言い出すなんて珍しいね。もちろん休みを取ってもらうのは構わないけど、どうしたんだい?」


 「教会に行きたいのです」


 そうか。安息日に俺達は時々教会に行っていたが、ピアはいつも働いていて、誘っても断られて一緒に行ったことが無かったな。


 「だったら3日後が安息日だから、その時一緒に行こうよ。確かにたまにはピアも教会に行ってみても良いかも知れないな」


 「いえ、できれば今日、行きたいのです」


 「だったら構わないよ。ピアもたまには休んで息抜きしてくれた方が私も安心できるし。ピアは教会の場所は知っているのかい?」


 「いえ。それで、もう一つお願いがあるのですが」


 「おおう、ピアがそんなにお願いするなんて本当に珍しいね。何だい?」


 「教会までの案内役として、ドノバン=アーレントさんをお願いしたいのです」


 ドノバン先生か。


 朝の様子だと二人の間にギクシャクした感じはそれ程無かったし、いいのかな。


 ただ、ドノバン先生がいいと言えばだけど。


 もしかしたらドノバン先生は、俺がいる前だから平静に振る舞えていただけで、ピアと2人になったら緊張して何も言えない、何てことになるかも知れないし。


 「そうだね、ドノバン先生が良いと言われるのなら構わないよ。でもドノバン先生もヒヨコ岩に行くつもりでいるからなぁ。聞いてみようか」


 俺とピアはドノバン先生の部屋に行く。


 ノックをして返事があったので、中に入る。


 「殿下とピアさん。どうかされたのですか?」


 ドノバン先生も皮の鎧にバックラー、一応マチェットと、ヒヨコ岩に出かける準備を整えている。


 「ドノバン先生、実はピアが今日の午前中、教会へ行きたいそうなんです。それで、ピアは教会までの行き方を知らないので、ドノバン先生に案内して欲しいと希望しているのです。

 元々今日はドノバン先生も一緒にリューズを迎えに行く予定で考えていましたが、今日はヒヨコ岩までしか行きませんし、多分人手が必要になることもないかと思いますので、ドノバン先生が宜しければピアを案内していただきたいのですが、いかがでしょうか。

 ドノバン先生が暗き暗き森の生物相をリューズに解説してもらいたい、など希望されるのであれば断っていただいても大丈夫ですが」


 ちょっと事情を伝える言い方が教会へ行って欲しい、という感じになってしまったか。


 ドノバン先生は少し考えていたが、


 「わかりました。今日はピアさんを教会までご案内いたしましょう。

 それも教職者としての務めですからね」


 そう言って承諾してくれた。


 「じゃあ、ドノバン先生も今日は午前中お休みということにして、ピアを教会に案内していただけたら、その後はのんびりしてください。

 私たちは用意が出来たら、先に出発しますので。

 ピア、ドノバン先生に案内してもらってね」



 俺はそう言って、また準備に戻った。
















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