第56話 Mrドノバンのパン種作り
9時になった。
私は自室から蝋燭を立てた明かり皿を持ち、暗くなった広間を足元に気を付けながら殿下との約束どおり厨房に行ってみた。
既にピアさんは厨房に来ていた。
ピアさんは夕食時にはいつも通りのピアさんだった。
いつも通りウドンを
私はピアさんの求めに応じて、何度も厨房におかわりをよそいに行った。
今日のウドンはジョアン殿下が干しシイタケでしっかりダシを取ったと言っていただけあって、山の拠点が完成した時に食べたごった煮の鍋のように味に深みがあって、ピアさんの食欲も進んだようだ。
ピアさんは特に感想を言わなかったが、食の進みっぷりで、ダシの入ったウドンを気に入ったのは明白で、殿下もそんなピアさんの様子を嬉しそうに眺めていた。
さて、殿下はまだ来ていないのか?
厨房には姿が見えない。
もしかしたら寝ているのかも知れない。
ピアさんに殿下のことを聞こうと思い声をかける。
「あの「あの」」
ピアさんも同じタイミングで声を出して被ってしまった。
「ドノバン先生から、どうぞ」
ピアさんが譲ってくれる。
「で、殿下はまだ来られていないのですね」
少しどもってしまった。
自分では努めて冷静に振る舞えている、と思っていたが、やはり緊張しているようだ。
「え、ええ、少し前に私も厨房に来たのですけれど、まだお見えになっていないようです」
「どうしましょうか? 私も殿下と一緒に酵母を下さったエルフのニースさんから作り方を聞いておりますから、殿下が居なくてもパン種を作ることは出来ますが、殿下はご自分で作ることを楽しみにされていましたから呼びに行った方がいいでしょうかね?」
「そうですね、殿下はご自分でやってみたいとお思いでしょうから、呼んできた方がいいと思います」
ピアさんもそう考えていたようだ。
「でしたら、私が呼んで来ましょう」
「いえ、ドノバン先生は自然酵母の準備をしておいてください。その中身全てを使う訳ではないのでしょう?」
「ええ、このリンゴの皮が浸かっている液体と、底に沈んだ澱だけ使います」
「なら、ドノバン先生は準備しておいてください。私が殿下をお呼びしてきます」
ピアさんはそう言って殿下の部屋へ向かわれた。
私は言われた通り自然酵母の準備をする。
とは言っても、やることは至って簡単だ。
ニースさんに貰った自然酵母。
壺に水を入れ、中にリンゴの皮と果肉を入れてあるだけ。
リンゴに付着している酵母菌がリンゴの皮と果肉を発酵させ、泡状に膨らんでいる。
このリンゴの皮と果肉を取り出して、酵母菌が沈殿している澱とリンゴが浸かっていた水に、同量程度の小麦粉を混ぜて捏ねる、ただそれだけだ。
捏ねたパン種は8時間ほど室温で放置して寝かせておくと、小麦粉のデンプンを酵母菌が分解して2倍程度に膨らむ。
そこにまた4倍程度の小麦粉と水を混ぜ、また捏ねる。
それをまた室温で放置し、ある程度膨らんだらパンの大きさにちぎって焼く。
これが酵母入りパンを作る工程なのだが、今晩行うことは本当にリンゴの浸かっていた酵母水と小麦粉を混ぜることだけなのだ。
だから単純にリンゴの皮と果肉を水から出し、酵母液と同量程度の小麦粉を用意する、あとは掻き混ぜるためのヘラを用意する、それで準備は終了してしまう。
捏ねるまでも私一人ですぐに出来てしまうのだが、多分殿下はそれも自分の手でやってみたいと思われるだろうから、殿下が来る前に行っては意味が無いので、小麦粉と道具の準備だけしておく。
取り出したリンゴの皮と果肉はスライムたちのごちそうに与えよう。
私はそう思ってリンゴの皮と果肉を小皿に乗せ、広間のフデの入っている檻まで行く。
広間は既に明かりとなる蝋燭類は消してあり暗いが、厨房まで移動するときに自分の部屋から持ってきた蝋燭を立ててある明かり皿を右手で持ち、足元を確認しながら移動する。
フデは私が厨房から出てきた時には気づいていたようで、丸まって横になったまま片目を開けて私をチラッと見たが、私だと確認するとそのまま目を閉じ眠りに戻った。
私は明かり皿を床に置き、左手に持っている皿に乗せたリンゴの皮と果肉を、檻の柵の隙間から中に入れた。
スライムたちはプルプル震えているが、私がリンゴを置いたことに気づいてゆっくりと、本当にゆっくりとリンゴの方に寄って来る。
このスライムたちも随分と増えている。
最初は殿下が捕まえて来た2匹だけだったのに、今では18匹。
大きさはそれ程大きくはならないようで、どいつもこいつも10cm~15㎝くらい。それ以上になると分裂して増えるようだ。
都市国家オーエの修道院修行時代に読んだ過去の博物誌に出ていたように、1m程になることがあるのだろうか? 或いはスライムにも種類があって、このスライムたちはあまり大きくならない種類なのだろうか?
ふとそんなことを考える。
小さいうちのスライムは檻の柵の隙間から外に出てしまうこともあるが、動きはそんなに機敏ではないため、大抵朝になるとピアさんに見つかって檻の中に戻される。
スライムたちの世話もピアさんが担っている。
彼女は本当にここ、代官屋敷で良く働いてくれている。
我々が森歩きで汚した衣類の洗濯に、シーツの洗濯、そしてベッドメイク。
代官屋敷内の掃除に風呂小屋の掃除。
そして料理もレパートリーが増えている。
今でも時々マールさんに料理を教えて貰いに行っているようだ。
我々のフライス村での生活は、ピアさんが支えてくれていると言っても過言ではない。
「ドノバン先生」
スライムを見ながら物思いにふけっていた私を、後ろからピアさんが呼んだので、床に置いた明かり皿を持ち立ち上がって振り返る。
私と同じく明かり皿を持ったピアさんがいる。
「ピアさん、殿下はどうされました?」
「余程昼間お疲れになっていたのか、机でうたた寝されているのですが、揺すっても呼んでも起きていただけません。ベッドへお運びしたいのですが、私の力ではその……」
珍しくピアさんが困っている。
大体何でもこなすピアさんだが、己の仕事ではない事に対しては全く手を出さないし、それが当然と言った割り切りもあるので、こうして困った様子を見せるのは本当に珍しい。
「わかりました。殿下をベッドまでお運びする手伝いをさせていただきますよ。
ピアさんは用意しておいた小麦粉に酵母液を混ぜて捏ねておいてください。簡単に終わりますから」
私はそう言って殿下の部屋に向かったが、ピアさんは厨房に行かずに付いてくる。
「ピアさん、殿下をベッドに運ぶのはやっておきますから、いいんですよ?」
そうピアさんに伝えると
「初めて作る酵母入りのパンですから、失敗させたら殿下が嘆かれます。作り方をご存じのドノバン先生と一緒に行った方が、失敗せずに済みそうだと思うので」
とピアさんは答えた。
殿下の部屋に行くと、殿下は机に突っ伏して眠っておられた。
思えば今日はエルフの集落を初めて訪れたのだ。
エルダーエルフたちが我々に対してどんな行動を取るのかも予測できず、結果的には非常に友好的に話ができたが、そこに至るまでの緊張感をずっと殿下は持ち続けていたのだ。
それに単純にエルダーエルフの集落までの行き帰りの道中も、6歳の殿下にとっては大変だっただろう。
いつも以上に疲労はしていただろうし、緊張が切れたら疲れがどっと出て、深い眠りに落ちてしまったのだろう。
殿下を起こさないように、そっと殿下の膝裏と、殿下の肩の後ろに手を回し、持ち上げる。
殿下の体は体格相応に、軽い。
同年齢の子供に比べて発育は良い方だと思うが、それでも6歳。
小さな体で我々のリーダーとしてふさわしい行動と判断を常にしようと努力されている。
そう思うと殿下を愛おしいと思ってしまう自分がいる。
いや、殿下がたまに言われるような変な意味ではない。
そんなことをしばし殿下を持ち上げながら考えてしまったが、殿下をベッドまで運ぶ。
ピアさんが手早く殿下の履いていた靴を脱がせる。見事なものだ。
ピアさんが掛物を捲っておいてくれたので、そこに殿下の体をそっと降した。
ベッドで横になる殿下の寝間着の乱れをピアさんは手早く直し、掛物をそっと掛けた。
「おやすみなさい、殿下」
殿下が付けっ放しにしていた蝋燭の火を消し、殿下にそう挨拶をして、私とピアさんは殿下の部屋を出た。
厨房に戻った私たちは、自然酵母と小麦粉を混ぜたパン種作りを始めた。
準備しておいた小麦粉を入れたボウルに酵母水を空けて掻き混ぜる。ただそれだけだ。
ピアさんに手順を説明し、捏ねてもらう。
ピアさんはそつなく手早くヘラを使って捏ねた。
5分も捏ねれば大丈夫だ。
「ピアさん、そろそろ替わりますよ」
そう言って私はピアさんからボウルとヘラを受け取ろうと手を伸ばした。
ピアさんからボウルを左手で受け取り、ヘラを右手に貰おうとした時、ピアさんは何故かヘラを手放すのが遅れ、私の右手がピアさんの右手に触れた。
ピアさんは一瞬ビクッとしたが、「すみません」と言ってゆっくり右手をヘラから放した。
「こちらこそすみません」
そう言って私はパン種を捏ね始めたが、少し気まずい。
そうしているとピアさんは、戸棚の上の段から大きなボウルを出すために、椅子を戸棚の前に持っていき、そこに昇った。
「ピアさん、明日捏ねるためのボウルはまた明日明るくなってから用意すればいいですよ。暗い今わざわざ出さなくても」
「いえ、準備できるものは手の空いているうちに準備しておきたいのです」
そう言ってピアさんは椅子に昇って、最上段の棚に幾つか重ねて乗っているかなり大きなボウルを取り出そうと伸びあがり、ボウルを引き出した。
やはり蝋燭の明かりだけでは暗くてよく見えなかったのだろう、ピアさんの引き出した大きなボウルに重ねて入れられていたボウルが飛び出した。
ピアさんは飛び出したボウルを受け止めようと手を伸ばしてバランスを崩してしまった。
「危ない!」
私はとっさに瞬足を使ってピアさんが床に転がり落ちる前に抱き止めた。
棚から落ちたボウルは床に落ち、ガランガラーンと大きな音を立てる。
私はピアさんを床に下ろし、「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
「パン種は? パン種はどうしました?」
ピアさんはパン種を心配している。
自分の身よりも仕事を案じる、非常に献身的な姿勢。それが好ましいと思う。
しかしそれは殿下と同様、危うさも孕んでいるのだ。
「パン種は大丈夫ですよ、ちゃんとテーブルの上に置いています」
「そうですか、良かった」
ピアさんはほっとしたのか、両手で顔を覆った。
広間の方からガチャっと扉の空く音がした。
さっきのボウルが床に落ちた音は結構大きかったから、ハンスさんとダイクさんに聞こえていて、異常がないか確認に来るのだろう。
「どうしたんですか、大きな音がしましたけど」
ハンスさんとダイクさんが厨房に来てそう声をかけたので、
「ちょっと高いところのボウルを取ろうとして手を滑らせてしまいましてね。大きな音を立ててすみませんでした。もうパン種は仕込み終わりましたので、私たちももう寝ますよ。ご心配をおかけしました」
と伝えておいた。
「ドノバン先生とピアさんも、けっこううっかりさんですね。まあ早めにお休みください」
そう言ってお二人は自室に戻って行った。
ピアさんは落ちたボウルを水で洗っている。
私はピアさんが洗ったボウルの水気を布でふき取って、明日使う大きなボウルはテーブルの上に置き、他のボウルは元の戸棚に戻した。
「じゃあ、ピアさん、明日の朝は5時半くらいに今捏ねたパン種に小麦粉と水を加えて捏ねないといけませんので、今日はもう休みましょうか。明日の朝のパン捏ねには殿下もお呼びしないと、殿下に拗ねられてしまいますからね。準備はまた明日明るくなってからいたしましょう」
とピアさんに伝えた。
ピアさんは「はい」と答えたので、私たち2人は一緒に厨房を出て、それぞれの部屋に戻った。
部屋に戻る直前に「おやすみなさい。明日もよろしくお願いします」とあいさつするとピアさんも「おやすみなさい。明日もよろしくお願いします」とあいさつを返してくれた。
私は自室のベッドに入り蝋燭の火を消してから、ピアさんに夕方口走った私の気持ちを改めて伝えることを忘れていたことに気づいた。
そしてベッドの中を頭を抱えて転げ回ってしまった。
俺はベッドに入る前に、ちびりちびりと蒸留酒を舐めている。
こいつはフリッツに頼んで、殿下たちには内緒で買ってきて貰ったものだ。
掃除をしてくれるピアさんに見つからないように隠すのは骨が折れるが、でも俺が個人的に祝いたいことがあった時なんかは、この人生の友がいないと締まらないにも程がある。
俺は酒には強い自覚はあるが、普段は全く飲まない。
殿下の護衛騎士の役目に対しては誇りと忠誠を尽くし、何よりも優先させている。
でも今夜は、何となく祝杯を上げたい気分だった。
懸念だったエルフの集落に無事に行って戻り、目的もある程度果たせたというのもある。
まあこれだけでも、フリッツがいてダイクが飲まないんだったら三日三晩宴会をしてもいいくらいに目出度いことだ。
次にフリッツと代官マッシュが来るときには、このことを肴に大宴会になるだろう。代官マッシュにリューズの嬢ちゃんの紹介もしないとならないしな。
で、おれが今夜ささやかな祝杯を何故あげているのか、というと、それはあの朴念仁のドノバン=アーレント先生が、意中の女性、我らがピアさんに、成り行き、勇み足、うっかり、何でもいいけど告白したらしい。そのことに対してだ。
夕食のウドン作りを手伝わされた時に、殿下から成り行きを聞かされて、俺は神に「グッジョブ!」と心の中で感謝をささげた。
傍から見てればドノバン先生がピアさんに気があるのはまるわかりだった。
でも本人は気づかれてないと思っていたんだろうな。
ドノバン先生は真面目一辺倒で、学問のために修道院に入ったって経歴からすると、まったく女性に対して免疫が無い。
けっこう見てくれはいいし、多分市井の女性受けはいいはずだと思うんだが、本人はそれに気づいてない。女性の好意に対しては鈍感なんだ。
ドノバン先生は教職者だからって自分をギッチギチに考えているようだが、それはあの人のいいところでもある。
ただ、女性に対してだけはそれじゃあ困るんだよなあ。
俺の目からすると、ピアさんも何だかんだでドノバン先生のことは嫌っちゃいない。
むしろ結構気にしてると思う。そうでなけりゃあれだけチョッカイ出さないだろう。
ただ、ピアさんは生い立ちとか、うちの親父から聞いた話からすると、王家に対する恩義で自分をやっぱりギッチギチに縛っているように思う。
ある意味似たもの同士だ。
大体、殿下もその点では見る目が無い。
よりによって俺とピアさんをくっつけようと思ってたみたいだからな。
まあ、いくらおませさんでも6歳だから仕方ない。
ドノバン先生とピアさん、傍から見ているとお似合いの二人だ。
二人とも信念に忠実だし、どこか抜けてる。それで抜けてる部分は互いに補えあえる、うまい関係だと思う。
多分二人とも色々考えすぎてるんだろうな。
まあ、この遊び上手のハンスさんから言わせてもらえば、男と女の仲なんて、色々考えて考えて何て事よりも、ギュッと一度抱きしめて、お互いの体温を感じた方がどんな言葉を費やすよりも多く通じ合うもんだと思う。
まあ、それをあの朴念仁のドノバン先生ができるのかって言ったら難しいだろうけどな。
それでも自分の気持ちに気づいて、うっかりだろうと何だろうと伝えたってのは大事だ。
ある意味同類のピアさんには、何となくとかじゃ伝わらないからな。
おお、隣の殿下の部屋で、二人が何かやっているようだ。
パン種作りを9時にするって殿下は言ってたが、多分疲れて眠ってしまった殿下を2人が起こしに来たのか寝せに来たのかどっちかだろう。
わざわざ見に行くのは野暮ってものだ。
さて、いい気分になったところで寝ようかな、と思ったところでガランガラーン!と厨房から大きな金属音がした。
一応見に行かなければな。
そう思って扉から出ると、ダイクも同じく厨房の様子を見に行こうと出てきたところだ。
『ダイクぅ、野暮はなしにしとこうぜ』
『お前がそんなこと言うのは珍しいな。明日槍でも降るのか』
『バッカ、槍が降ったら俺達大儲け、武器屋大泣きじゃねえかよ』
『まったく、お前の回る口の半分でもドノバン先生にあれば良かったのにな』
『殿下も言ってただろ? 話術は簡単に身につかねえの』
俺たちは小声でそんなことを言いながら、一応厨房に様子を見に行く。
「どうしたんですか、大きな音がしましたけど」
ダイクと一緒に厨房をのぞき込みながら、俺は白々しくそう尋ねる。
「ちょっと高いところのボウルを取ろうとして手を滑らせてしまいましてね。大きな音を立ててすみませんでした。もうパン種は仕込み終わりましたので、私たちももう寝ますよ。ご心配をおかけしました」
ドノバン先生がそう答える。
まあそうだよな。それ以外はない。
まかり間違って痴話喧嘩になってて、ピアさんが物を投げた音とかだったら、あんなもんじゃないだろう。
「ドノバン先生とピアさんも、けっこううっかりさんですね。まあ早めにお休みください」
俺とダイクはそう言うと、自分たちの部屋に戻った。
まったく、ゆっくりでいいから、上手いことやって下さいよドノバン先生。
恋愛事は男がリードしてあげないと、動きませんからね。
俺はあくびをしてベッドに入った。
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