近世ネーレピア庶民の恋愛事情
第55話 二人の気持ち
ああ、私は何で口を滑らせてしまったのか。
ピアさんが「行動で誠意を示して頂きませんと」と言われた時、普通ならお詫びに何か埋め合わせを、と考えるのが普通であるのに。
何故かあの時、私の誠意をピアさんに伝えないとと思ってしまい「私はあなたのことが好きです。私と生涯を共に過ごして頂けませんか」と本心を口にしてしまった。
と言うか、私はあなたのことが好きですって、好きですって、もっと他の言い方! 何故出てこなかったんだ。お慕いしています、とか愛しています、とかで良いじゃないか、何故私は「好きです」という言葉をチョイスして口にしてしまったのか。33歳の男性が使う言葉じゃないだろうと、そう思う。
ピアさん、ああ、ピアさんはそう言われて、あまりにも意外だったのか固まってしまっていた。
あの殿下すらも固まっていた。
すぐに「冗談ですよ」と言えれば良かったのだろうが、お二人の反応を見て、私自身も固まってしまった。
こういったところに私の女性との会話経験の少なさが出てしまう。
思えば女性と1対1で話す機会自体はあっても、それは単に挨拶を交わす延長であったり、必要な事務連絡だったりでしかなかった。そういった場合なら何の淀みもなく話せるのに。
女性の個人的な悩みも聞いてアドバイスをしたこともある。
最もそれは教会の懺悔室で懺悔を受けた時だけだが。
懺悔の時は女性の恋にまつわる告白なども冷静に聞いて、心の重荷を少しでも取り払う言葉を掛けられたのに。
最も、男性修道院だったから懺悔するのも男性が殆どだったので、女性からそういった内容の懺悔を受けることは殆どなかったのだが。
我が事となると、まったくどうしたらいいのか、ひたすら迷い、悩んでしまう。
あの時言った言葉は私の本心だ。
だから冗談にしてしまわなくて良かったのだ、と自分の行動を肯定する自分もいる。
アーレント伯爵家の3男に生まれた私は、長男が家を継ぐことが決まっていたので早くから家を出る準備をしてきた。
家格の劣る貴族家に婿入り、が貴族としての籍を残す唯一の方法だったが、私が15で家を出るまでは私に声がかかることはなかった。
家を継ぐ長兄は早々に婚約、結婚していたし、早々に男児にも恵まれた。
そのため万が一の時のために家にいた次兄も、長兄の男児が3歳を迎えた頃に男爵家の家督を前提とした婿入りをした。 それが私が14の時だ。
結局次兄の婿入りが決まった後は、同じような縁談には恵まれず、私は勉学に打ち込むため15歳でオーエ教の修道院に入ったのだ。
私の半生を振り返ってみても、女性に心惹かれた経験というもの自体が少ない。
アーレント家では私たち兄弟について身の回りの世話をしていたのは男性の使用人たちだったし、女性といえば母の使用人がいたが、基本的に私たち子供とは生活空間が分けられていたので、殆ど屋敷内ですれ違う程度しか見かけなかった。
教会の日曜礼拝に参加した時によく顔を合わせる私と同年代の女性が何人かいたが、そのうちの一人、男爵家令嬢リリーとは礼拝の後時々神の教えについて語り合った。思えばあれが私の初恋だったのかも知れない。
でもリリーも婚約が決まってからは、婚約者以外の男性と親しくするのが憚られるのか、徐々に礼拝後すぐに教会を後にするようになり、私と疎遠になった。
そう考えるとピアさんは私が好きになった2人目の女性なのだな。
ピアさんに対しての好意は男女の間の好意なのだろうか、と自問することもある。
男性に対して抱く好意と、女性に対して抱く好意の間にどんな差異があるのだろうか。
私は友人としてピアさんを好いているだけではないのかと、そう考える。
しかしピアさんを想うたびに、年甲斐もなく体が熱くなるのだ。
いや、本当に自分の年齢でそんなことを想うことに恥ずかしさを感じてしまう。
きっかけはピアさんが何故私が結婚しないのか、と聞いたことだった。
あの時も醜態を晒してしまった。
殿下にも心配をおかけした。
ピアさんは平然としていたから、純粋に好奇心、あるいは話題の接ぎ穂としてだったのだろう。
しかし、単純に王宮の生活を送っていると、女性と知り合う機会はやはりない。
そう答えるだけで良かったのだが、何故かできなかった。
やはり私は以前からピアさんに惹かれていたのだろう。
王宮庭園で殿下の魔法の練習で焼いたなりものを無邪気に食べる、年相応な少女。
そしてメイドとしての仕事に誇りを持ち、完璧にこなそうとする責任感を持った女性、その二つのギャップを併せ持つピアさんを、私は寄り添い、支えたいと思っていたのだろう。
それを自分の年齢や殿下の家庭教師としての倫理観、そしてオーエ教の教職者としての矜持、そういったもので私自身の気持ちを誤魔化し、気づかないように考えないようにしていたのだ。
それをピアさんのあの一言が、私に私自身の心を気づかせてしまったのだ。
それから私はピアさんに自分の気持ちをどう伝えたらよいかを考えた。
やはり、私自身女性とお付き合いしたことが無いとは言え、ピアさんの人生の面倒を見る、その覚悟はしっかりと伝えなければならない。
そのためにはどなたかに立ち会っていただき、正式に、私の言葉に偽りがあった場合にには私の非を明らかにできるようにしなければならない。
そう考えるとしばらくしたら私たち一行は報告のために一度王都に戻る手筈になっているので、王都に戻ったあと、ジョアン殿下の母君、ラウラ妃殿下にお願いして、ラウラ妃殿下立ち合いの元、ピアさんに私の気持ちを伝えるようにした方が良いだろうと思い至ったのだ。
例えその場で、或いは後日ピアさんに断られたとしても、それは仕方がない。
ピアさんが他に好いた男性がいるのならば、それは仕方のないことだ。
ピアさんは孤児院出身で身寄りがない。それに付け込むような物言いはしたくないし、多分ラウラ妃殿下を初め王族の皆様はピアさんを孤児として扱おうという気はないだろうから。
そう考えていたのに、何故私は今日の夕方、迂闊にも本心を口走ってしまったのか。
嗚呼、何故だ? 神よ、何故私に差した魔を払ってはいただけなかったのですか!
いや、わかっている。オーエ教の神は、そんな便利な個人利益を叶えて下さる神ではないことを。
オーエ教の神は、いわば自然の摂理そのものの化身なのだから、人の個人的な利益などという些細なことまで面倒を見るような便利な存在ではない。ただ、暖かく見守って下さるのみ。
人は人が思うがままに生きるべきであるし、思うがままに生きた結果は全てその人に帰結するべきものなのだ。神は、ただすべてに平等に恵みをもたらすのみなのだ。
しかし、女性に対する感情というものは、これはままならない。
今、私は自分の部屋のベッドの上に寝転んでいる。
夕方の失言のことを思い出すと、我ながら何とも言えない感情がこみ上げてきて、頭を抱えてベッドの上を転がり回ってしまう。
ベッドの上にいるが、まだ寝る用意はしていない。
この後9時に殿下とピアさんと一緒に明日の朝焼くための自然酵母を入れたパン生地を捏ねる仕事があるからだ。
とはいっても、これから捏ねる自然酵母を混ぜた小麦粉生地は、大した量ではない。
明日の朝、夜のうちに捏ねたパン生地に更に多くの小麦粉と水を入れて捏ねる、こちらの方が大仕事だ。
ただ、ジョアン殿下は初めて酵母を使ったパンを作るので、自分が一から立ち会いたいと思っておられるようだ。
自然酵母の使い方は私も一緒にニースさんに聞いているのでわかっている。
それでもご自分で最初のパン作りは目で見て知りたいのだろう。
ジョアン殿下は初めてお会いした3歳の頃から変わらず好奇心が旺盛な方だ。
ここ、フライス村に来てからも、私たちが当然と思うようなことも殿下は「なぜ?」と疑問に思われ、一つ一つ確認される。
そうした姿勢が何をもたらした、と言うことはまだないが、今は殿下の中で何か変革のアイデアを育てている段階なのだろう。そう、まるで小麦粉と混ぜ合わされた酵母が増殖し、生地を膨らませるように。
私が殿下に感じた危うさは、時々顔を覗かせることがあるが最近はそれほど頻繁ではない。
殿下にとって落ち着ける環境を私たちが作れている、そう思いたい。
そんなことをつらつら考えてベッドの上に横になっていると、チェストの上に置いてある置時計の長針があと2コマで12を指す位置にきている。
そろそろ厨房に向かおうか。
私は自室のベッドの上に横になっている。
本来であれば主人が休む時間の前にこうやって自室のベッドに横になるなんて、見つかれば解雇も有り得る使用人としての怠慢な行いだ。
ただ私の現在の主人、ジョアン=ニールセン第一王子殿下は変わった人で、私が常に張りつめて職務に取り組むことが嫌らしいのだ。
私は本当に恵まれていると思う。
ジョアン殿下はとても変わった方だが、一面繊細でもある。
無神経な物言いをするかと思えば、とても相手に気を使った話し方をする時もある。
3年前に私があてがいのことをつい口を滑らせてしまった時も、変な気の使い方をして「もしあてがいが必要ならピアがいい」などと言っておられた。
私に女性としての魅力が無い、という意味で言ったと思われないようにそんなことを口走られたのだろう。
あの時の殿下の必死な顔を思い出すとつい笑みが零れてしまう。
私は自分に女性としての魅力があるのかと言われるとわからないのだ。
だから女性としての魅力がない、と言われたとしても「そうですか」としか言えない。
逆に最近殿下がいう良妻候補だのも、今一つピンと来ない。
私のメイドとしての技術を褒められるのは嬉しいが、それは私の覚えて身に付けた技術や工夫したことが間違っていないと思えるからなのだ。
以前殿下に「私は異性を好きになる、というのがよくわかりません」と言ったことがある。
男女の仲はどういうものか、さわり程度はイライザメイド長にもお聞きしたし、行儀見習いで入っている下級貴族家出身のメイドたちもそういった噂話が好きでよくしており、何となく耳に入って来ることもある。
それでも自分自身誰か異性を好きになった事があるか、と言われると、ない。
だいたい、男性と一緒に過ごしたり会話をする機会というのが私には殆どない。
孤児院には確かに男の子がいたけれど、男女で手伝う仕事が分かれていて、作法見習いで入ったメイドたちが言う「女性の困りごとを男性に助けてもらって恋が始まる」みたいなことは殆どなかった。
孤児たちの中のうわさで誰誰と誰誰がいい感じ、程度の事を聞く程度だった。
王宮に上がってからも、洗濯メイドの2年間、外朝の客室係だった4年間は全く男性との接点はなかった。洗濯メイドは洗濯室と干場、水場の移動と洗濯しかしないし、客室使用人もベッドメイクなどの裏方が中心なので、来客の男性の目に触れることは無い。
王宮の仕事も男女は完全に分かれていて、男性使用人は国王が、女性使用人は王妃が、と管轄も分かれている。
内廷付になって初めて男性使用人も混在する空間になったが、それでも殆ど男性使用人と交流するような時間も暇もなかった。
ジョアン殿下付になり、初めて長い時間一緒に過ごすことになった男性がジョアン殿下になる。
ジョアン殿下が好きかと聞かれれば好きだと思う。
でもそれは多分男性としてではなく、やはり私の技術を発揮すべき相手で、私の技術と人格を認めてくれる主人だから好き、ということになる。
メイドの技術は結局のところ発揮する相手がいないと何にもならないのだ。
ここフライス村に来て代官屋敷で暮らすのももう3か月近くになろうとしているが、殿下以外の男性、ダイクさんハンスさん、それにドノバン先生。
皆さまも私の技術や個性を認めて下さっている。そう言う意味では好きだと言える。
そう、ドノバン先生、ドノバン=アーレントさん。
彼は今日、私を好きだ、私と一生添い遂げたい、と口走った。
私はいつも通り、私が行っていない拠点小屋で完成を祝って鍋で煮た料理を食べたことを羨ましく思い、私も食べたかったので拗ねて見せた。
拗ねたところでその時の料理が食べられる訳でもないのだが、どうも私は食べることに関しては、少々意地汚いようなのだ。次の機会があったなら、私にも是非食べさせて欲しい、忘れないで欲しいという気持ちで拗ねてしまった。
ジョアン殿下も「今度そうゆうことがあったら、必ずピアも呼ぶから」と言って下さったので、私は拗ねた気持ちはそれですっきりした。
そうしたらドノバン先生が「私はその時ピアさんも呼びたいな~って思ったんですよ」と調子のいい事を言うので、次は必ずその言葉を行動に移してほしいと思い「行動で誠意を示して頂きませんと」と私は言ったのだが、それで返ってきたドノバン先生の言葉が
「ピアさん、私はあなたのことが好きです。私と生涯を共に過ごして頂けませんか」
だった。
私は予想外過ぎて「え?」と言って固まってしまった。
でも。
私はドノバン=アーレントさんにそう言われて、決して嫌な気持ちではなかった。
思えば、私にとってジョアン殿下が最も長い時間を一緒に過ごした男性、それは間違いないが、ドノバン=アーレントさんは2番目に私が長く接している男性なのだ。
殿下のお世話で王宮庭園に出た際に、殿下の魔法の練習にかこつけて庭園のなりものを焼いて食べるのが常だった。初めて庭園でなりものを殿下たちが焼いた時、私は殿下に勧められてもメイドとして手を出す訳にはいかないと我慢した。
殿下はそれが残念な様子でえーっと言っていたが、殿下しかいない場面ならともかく、他の人もいるのだから無理だ、と私は思っていた。
ドノバン=アーレントさんはそんな私に重ねて声をかけてくれた。
「普通なら使用人に食べ物を勧めるのはご法度ですし、使用人側も断るのは当然ですが、殿下はピアさんを使用人としてではなく、ご友人としてこの場では接してもらいたいと望まれているようですよ。召し上がってあげてください。私も本来なら一介の家庭教師で、殿下と一緒に物を食べるなどあってはならないことではありますし、他の貴族家で教えていた時は一度もそんな失礼なことをしたこともありません。ですがそうしないと殿下が私の授業を聞いて下さらないのでね、止む無くですよ」
そう言ってご自分も笑顔で焼いたイモを頬張っていた。
殿下も重ねて勧めるので、私は私の職業倫理を強引にねじ伏せて、殿下が差し出したイモを食べた。
何の調味料もかかっていない、単なるイモの味。
でも何とも言えない味わいがあった。
それは誰かに初めてメイドという職能以外で私を見て貰えた、そんな感慨が混じった味だったのかも知れない。
そう、思い出すと今の私を作った最初のきっかけは殿下がくれた。でも、ドノバン=アーレントさんの一言が大きく後押ししてくれていた。
フライス村に来てから料理の作り方の心得があったのもドノバン=アーレントさんだけだった。
殿下も料理については何故かご存じだったようだが、東洋の私たちが知らない料理だったり、何か調味料が必要だったりで、日常的に食べる物の作り方はドノバン=アーレントさんだけが知っていた。
私はメイドが仕事だったから料理の作り方を知らないのは当然で恥ずかしいとは思わなかったが、ドノバン=アーレントさんお一人に料理の献立をお任せするのは、森の探索も並行して行う中で大変だろうと思ったので村長夫人のマールさんに料理を習おうと思った。
そう考えると、ドノバン=アーレントさんは私たちにとって無くてはならない存在だ。
殿下たちが森で初めてエルフに接触できた日、帰ってきてからの厨房で夕食を作っている時に、雪狼にも襲われたという話を殿下とドノバン=アーレントさんがしていた。
殿下はドノバン=アーレントさんが剣技もできる、と嬉しそうに話していた。
それを聞いて私は、ドノバン=アーレントさんがどれほど万能なのかと驚き、感心した。
それでつい「何故結婚しないのか」と聞いてしまったのだ。
それ程有能で、お金も暮らしていくには十分稼げている上、多分容姿も悪くないのだろうと思う。
女性に言い寄られない方がおかしい。
純粋に疑問で聞いた。
ドノバン=アーレントさんはオーエ教の教職者ということを理由に挙げたが、改革派は牧師の結婚を勧めている筈だ。
だからもしかしたら、行儀見習いのメイドが噂話で言っていた、男性修道院では男性同士が体を求めあう関係になることが多くなる、ということなのかと聞いてみたが、ドノバン=アーレントさんは非常にショックを受けたようにへたり込んでしまった。
あの様子は自分は女性と結婚する意思があるのに不本意ながらしていない、と言う反応だろう。
悪いことを聞いてしまった、と思ったが、食材を無駄にする訳にはいかないので、お鍋の火の通り具合を見るように言った。
あの時、ドノバン=アーレントさんの反応を見て、私は嬉しいと思った。
ドノバン=アーレントさんが近々結婚されるとしたら、いつまでもこうして殿下のお側に仕えて貰えなくなるかも知れない。
だから、まだしばらくこうして過ごすことができるのだ、と思えて嬉しくなったのだ。
そう、私はドノバン=アーレントさんが私たちと一緒に過ごしてくれることを望んでいる。
でも、それは殿下に対する感情とどう違うのだろう。
私と一生添い遂げたい、とドノバン=アーレントさんは言った。
つまり私に結婚してくれ、ということだ。
私は女性としての魅力があるのだろうか。
そして私はドノバン=アーレントさんのことを異性として好きなのだろうか。
わからない。
ふと目をあけてチェスト上の時計を見ると、もう間もなく9時になる。
エルフの集落で貰ったリンゴの自然酵母でパンを作るため、パン種を捏ねる約束を殿下と、そしてドノバン=アーレントさんとしている。
行かなければならない。
私はベッドから起き上がり、部屋を出て厨房に向かった。
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