第36話 永田未央の苦悩
お正月明け。
お祖母ちゃんが体調を崩して熱を出した。
新型感染症の可能性もあるため、保健所に連絡してPCR検査を受けた。
検査結果は陰性。
保健所から掛かりつけの脳神経内科のある病院に連絡してもらい、診察してもらったところ軽度の肺炎と診断され、念のため1週間程度入院することになった。
入院中、お祖母ちゃんは自分がどこにいるのか理解できなくなり、夜も点滴の針を自分で抜いて病室から出て行ってしまうと病院から連絡があった。
肺炎自体は良くなっているので自宅に戻って療養してもらってかまいません、と担当の呼吸器科の先生から言われて、当初の予定より2日早くお祖母ちゃんは退院して自宅に戻ってきた。
家に戻ったお祖母ちゃんはホッとした様子だったが、入院中は自分で点滴を外して歩き回る以外の時間はベッドで寝ていたため、全体的に手足の動きが衰えて鈍くなっていた。
また、何となくだが言葉が少なくなって、私の話も聞きたがらなくなった。
私が学校や進学塾から帰って、お祖母ちゃんの部屋に話をしに行っても、ベッドで横になって眠っている。TVすら見ようとしない。
私は寝ているのなら起こすのもお祖母ちゃんに悪いかな、と思いそのまま部屋を出る、そんな日が増えていた。
退院後、お祖母ちゃんはまたデイサービスの利用を再開したので、また以前の様に戻ってくれるだろうとこの時は思っていた。
1か月程経ったある日。
その日私は進学塾がない日で、夕方4時過ぎに帰宅した。まだ父母は帰ってきていない。
私が帰宅すると家の中が何か臭う。
便の臭いだ。
考えたくなかったが、お祖母ちゃんが失敗してしまったのだろう。
正直言って、他人のウンチを片付けるなんてしたことがない。
でも、お祖母ちゃんが困ってるなら、手伝ってあげなきゃ。
お祖母ちゃん、着替えしたのかな。
そんなことを考えてお祖母ちゃんの部屋に行ってみた。
いない。
「お祖母ちゃーん、どこー?」
声を出して呼んでみる。
返事はないが、風呂場の方で何か物音がする。
風呂場を覗いてみると、脱衣所に便の着いた衣類が脱ぎ散らかされている。
パンツには便がこんもり着いている。
浴室内にお祖母ちゃんはいるようだ。
その割にシャワー音などはしていない。
浴室の扉を開けると、浴室の床にお祖母ちゃんがしゃがみこんでいた。
私が入ってきたことに気づき、驚いた表情をしている。
「お祖母ちゃん、どうしたの、大丈夫?」
そう声を掛けると、
「ああ、これの使い方がわかんねんだ」
とシャワーを指さす。
そうか、自分で便を洗い流そうとしていたんだ。
「お祖母ちゃん、ちょっと待っててね、着替えとタオル取って来るから」
私はお祖母ちゃんにそう伝えて、お祖母ちゃんの部屋に行って着替えとタオルを持って浴室に戻った。
お祖母ちゃんは、自分の手に着いた便を取ろうとしたのか、浴室の壁に手を擦りつけていた。
「お祖母ちゃん、ちょっとそれはやめて。今シャワーで流すから」
私はシャワーを出してお祖母ちゃんの手にかけた。
お祖母ちゃんはしばらく裸で浴室にいたようで体が冷えていたから、温めようとして気持ち熱めのお湯にした。
「あちっ!」
とお祖母ちゃんはシャワーのお湯がかかった手を振り払った。
お祖母ちゃんの手についた便が私の制服に飛んだ。
「ちょっと、お祖母ちゃん、それはないよ!」
私はつい声を荒げてお祖母ちゃんに抗議してしまった。
お祖母ちゃんは「何をー、お前が俺を殺す気だろ、そんな熱っちい湯かけて!」
と便が着いた手で私を突き飛ばす。
私は転びはしなかったが、更に制服が汚れたことでショックを受けたし、私には優しかったお祖母ちゃんの乱暴な口の利き方や態度にもショックを受けた。
「お祖母ちゃん、私のことがわかんないの? 未央だよ、毎日話してたじゃない」
「おめえなんか知らねえ! 勝手に人ん家入ってきて何してんだ!」
私のことがわかってなかったの?
あんなに毎日話してたのに……
あんなに私のことを可愛がってくれてたのに……
私のこと忘れちゃったんだ……
私は無性に悲しく、切なくなり、自然と涙がこぼれた。
お祖母ちゃんはなおも私に掴みかかろうとしてくる。
私はお祖母ちゃんの変わりぶりが怖くなり、その場から逃げた。
シャワーヘッドを放り投げてお祖母ちゃんの横を抜け、お祖母ちゃんを放ったらかしにして自分の部屋へ戻った。
そのままベッドに倒れ込んで気持ちを整理したかったが、便の着いた制服のままだとベッドまで汚れる。
そう思って制服を脱いだ。
何だか理不尽さに無性に腹が立って、制服を床に叩きつけようとしたが、それも便で汚れる、と思いこらえた。
部屋着に着替えて、制服を洗濯機に入れようと思いもう一度脱衣所に戻る。
出来たらお祖母ちゃんには会いたくなかったが、お祖母ちゃんはまだ浴室の中にいた。
お祖母ちゃんは、私が出しっぱなしにしていたシャワーの止め方がわからず、シャワーヘッドを両手でずっと持ってお湯を自分に掛けていたが、股間などの汚れを落とそうという気がないのか、気が付かないのか、ずっと同じ姿勢のまま自分の胸のあたりにお湯をかけ続けていた。
少し落ち着いた私は、制服を洗濯機に入れると、お祖母ちゃんに声をかけた。
「お祖母ちゃん、大丈夫? さっきはさっきはごめんね」
また怒鳴り返されるのかとビクビクしたが、お祖母ちゃんの反応は違った。
「助かった。何とかしてくれや」
ついさっきのことを忘れている。
豹変ぶりが信じられなかった。
あれだけ私のことを罵ってたのに、突き飛ばしたりしたのに、心細くなったら誰でも頼るんだ。
何、それ。
都合よく回りを使えると思ってるの? どれだけ自己中なの?
そう心の中では思ったが、お祖母ちゃんが怒っていないならお祖母ちゃんの体を洗って壁や床の便の汚れも落としてしまった方がいい。
私はお祖母ちゃんからシャワーを受け取り、お祖母ちゃんの体を流し始めた。
お祖母ちゃんの体を洗い、服を着替えさせ、お祖母ちゃんの部屋へ連れて行き、汚れた浴室の清掃と汚れたお祖母ちゃんの衣類の処理が終わったら、私はぐったりしてしまった。
自分の部屋に戻りベッドに今度こそ横になって目を瞑る。
さっきのことがどうしても頭から離れない。
さっきの人は本当お祖母ちゃんだったのだろうか。
私のことが誰だかわかっていなかった。
あんなに毎日話をしていたのに。
お祖母ちゃんが自分じゃどうしようもないことをやってあげたのに。
感謝もせずに怒り出すなんて信じられない。
そんな考えがグルグルと頭の中をずっと巡った。
大好きだったお祖母ちゃんにそんなことを考える自分を抑えなきゃ、あれは認知症のせい、と冷静に考える自分も頭の片隅にいる。
でも、冷静な自分よりも感情的にショックを受けている自分が、私の心の真ん中の大部分を占めて遥かに大きかった。
感情的にショックを受けている自分はお祖母ちゃんの行動を認めることができず、ひたすらお祖母ちゃんを責め続けている。
夕方6時を過ぎて母が帰宅したら、私はすぐにさっきのことを母に話した。
母はケアマネジャーの事業所に相談してみる、と言ってくれた。
相談して何とかなることなんだろうか。
それから私は進学塾のない日もすぐには家に帰らないようにした。
学校の図書館や、ショッピングモールのフードコートなどで時間を潰してから帰宅していた。
あれから、お祖母ちゃんはデイサービスに行かない日、数日に1回は夕方誰かが帰宅する時に便を失敗している状態が続いている。
だいたい家に一番最初に帰る母が見つけて、母が着替えや後片付けをする。
ケアマネージャーが言うようリハビリパンツも履かせるようにした。
デイサービスに行ったときに浣腸して、家であまり便が出ないように調整してもらうように依頼もした。ケアマネージャーがケアプランを変更して、デイサービスの看護師さんにやって貰えるようにしたらしい。
訪問介護員に決まった時間に来てもらってトイレに連れて行ってもらう提案だけは、家に誰かを入れることに母が抵抗があるのと、お祖母ちゃんが受け入れるとは思えなかったので断っていた。
それでもお祖母ちゃんの便の失敗は続いている。
父は自分では便の失敗の後片付けを一度もやったことがないのに、お祖母ちゃんの便の失敗のことを母が話すたびにお祖母ちゃんを怒鳴りつけ、母に対しては苦言を言う。
怒鳴りつけられたお祖母ちゃんは当然反発する。
苦言を言われる母も、私が抱いたような複雑な思いをしてお祖母ちゃんの世話をしているのに、父がその気持ちを理解しようとしないことに静かな怒りを抱いているのがわかる。
家族が集まる夕食時は、ギスギスするようになった。
父に散々怒鳴りつけられたお祖母ちゃんは、今度は失敗した衣類を隠すようになった。
手に付いた便をそこらに塗りたくるようになった。
自分の手に便が付いていなければバレない、と思うらしい。普通の判断をする力がお祖母ちゃんからは失われてしまったのだ。
壁に塗りたくられた便を見て母は毎回絶望し、夕食の用意もできずに便の処理をし、帰宅した時に便の臭いがまだ残っていると、父は怒り狂ってお祖母ちゃんを怒鳴りつける。
もう私は勉強どころではなかった。
お祖母ちゃんのあの状態、私が医者になったとして治せるようなもんじゃないよ。
認知症の周辺症状の現実に、私の夢見がちな決意は砕かれていた。
もう家に帰りたくない。
私は夕食の時間よりも遅れて家に帰るようになった。
お祖母ちゃんの面倒を全部母に押し付けてしまっている、といういう罪悪感は強く感じた。
自分でやってみてわかっている。
家族の生活スペースに付けられた便の片づけは気を遣うし、便は時間が経っているとなかなか落ちないものなのだ。
でも、またお祖母ちゃんに感情的に拒絶されるのには耐えられないと思った。
これ以上拒絶されたら大好きだったお祖母ちゃんを私は憎んでしまうかも知れない。
そんなある日、私は久しぶりに放課後女子サッカー部の練習場所に足を運んだ。
退部届は出している。
練習に参加するつもりはなく、ただ、まだ今みたいな日々になる前の、普通の日常を送っていた頃を確認したいという追憶みたいな感情で、練習の様子を遠くから眺めようと思ったのだ。
あの中に入って練習していた頃は良かった。
お祖母ちゃん。
同じ話を何度もするくらいで、まだしっかりしていた。
あの練習の輪の中で、余計なことは考えず、ただボールを上手くコントロールしたい、正確な所にボールを蹴りたい、それだけだった。
何でこうなっちゃったんだろう。
考えても無意味なのについ考えてしまう。
グラウンドの元仲間たちは対人パスを丁寧にやっている。
今の時期は大会はない。
というか、昨年は新型感染症の影響で、予定されていた大会は全て中止になっていた。
例年県女子サッカーリーグは4月に開幕する予定だが、今年は開催の方向とはいえ確定ではない。
グラウンドの元仲間たちは、そんな中でもモチベーションを保ち、プレーを楽しんでいるように見える。
今更あの中に入ろうなんて未練だ。
そう思って立ち去ろうとしたら、後ろに女子サッカー部の顧問の先生が立っていた。
びっくりして声が出ない私に顧問の先生は言った。
「永田、部活、たまには出てみないか。体を動かすのも大事だぞ」
「……もう私、退部しました」
「永田の退部届な、俺は机の整理が苦手だから引き出しの中で紛失しちゃったんだ。だからまだ永田の退部は正式に決まってないぞ」
「仲間に合わせる顔がありません」
「……永田も判ってると思うけど、今年は新型感染症のせいで5月まで集まって練習できなかったし、大会だって全部中止になった。
今、ああやって練習してるのは、純粋にサッカーが皆好きだから、理由なんてただそれだけだぞ。
永田が勉強に集中したいから部活に出られないってのは別にかまわないさ。
出られる時だけ出て、サッカーを楽しめる機会がある、それだけで十分だろ。
女子サッカー部は部員数が少ないんだから、一人でも多く参加してくれた方がミニゲームの人数も増えて実戦に近い感覚でできるんだから、他の皆だって喜ぶさ。
ちょっとだけ久しぶりにボールを蹴ってみないか」
いつもの意地っ張りな私なら、ここで無言で帰っていたはずだ。
でも、その時の私は、意地を張るのにも疲れていた。
お祖母ちゃんと父の、怒りのぶつけ合い、意地の張り合いを見ていて、意地を張りあっていても相手が折れない限り憎悪だけが積み重なって虚しいだけだと思ったのもある。
10か月も前に出した退部届を、素知らぬ顔で受理していないと言ってくれる先生。
その思いやりが恥ずかしいけれど嬉しかったのもある。
先生の言う通り、顔を出してみよう、もし元仲間に拒絶されたら、それはそれで私が悪い、そう受け止めよう。
もし受け入れてもらえたら……また無心でボールを追っかけよう。
「先生、私、自分勝手に勉強しようとして自分の思い込みで勝手に退部届まで出して……そんな自分が恥ずかしくて……でも、何で先生は私の退部届、受理しないでくれたんですか?」
「そりゃあ永田がサッカー好きだからだよ。女子がサッカーできるところ、なかなか無いだろう。サッカー続けるのも止めるのも永田が決めればいいことだけど、人間、迷うもんだろ?
一旦決めたことでも後になって後悔することなんていくらでもある。特に若いうちなんてそうさ。
でも若いうちは取返しがつかない、なんてことはないんだ。一応先達として、永田がサッカーしたくなった時にできる可能性は残しておきたかったんだよ。勉強と部活、どちらか一方に絞らなくたっていいのさ」
私は先生の言葉に張りつめていた気持ちが溶かされた。
目から涙が流れてしまい、慌てて拭った。
「……永田の家の事情、担任の先生から少し聞いてるよ。勉強しようとしたのは永田のお祖母ちゃんのためなんだろ?
永田はこうと思ったらそれに集中するからな、それがいいところでもあるけど、行き過ぎると周りが見えなくなって余裕が無くなる。お前のプレーによく出てるぞ。中の人数見ないでクロス入れたりしてたよな。
勉強も大事だけど、サッカーする余裕くらいは持った方が、永田にとってはいいと思うぞ」
先生の言葉に私は何度もうなずいた。
先生が私の背中を少しグラウンドの方に押してくれたので、私は先生と一緒にグラウンドへ向かった。
サッカー部の仲間は、私のことを歓迎してくれた。
少年団から一緒だったのぐちんは、
「みおちゃんはこうと決めたら人の言うこと聞かないからね。みおちゃんが決めたことなら黙って応援しようと思ってたんだ。またサッカー一緒にやろうって思ってくれて嬉しいよ」
と言ってくれた。
私はその日、部活のジャージなんて持ってなかったけれど、先生が特別にグラウンドの端っこで制服に革靴でショートパスだけならボールを蹴っていいと言ってくれた。
のぐちんがパスの相手をしてくれたけれど、久しぶりのボールの感触は懐かしかった。
それから私はまたサッカー部に顔を出すようになった。
進学塾も惰性で続けていた。
投げ出すのは嫌だったから。
進学塾のコマが短い日はサッカー部に顔を出して、またボールを蹴った。
強豪校ならこの時期は体力作りで走り込みやウエイトトレーニングばかりなんだろうけど、うちの高校はボールに触って楽しむ時間を長くしないと上達もしないという先生の方針で、ボールを使ったメニューばかりで楽しかった。
ボールを蹴っている時はお祖母ちゃんのこと、ギスギスし出した家族のことを忘れられた。
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