もう一人の転生者

第35話 永田未央の不安

 



 あの日私は学校から帰る途中だった。



 私の名前は永田未央ながたみお。17歳の県立高校に通う高校生だった。


 私の名前は、私が産まれた頃の女子サッカーのストライカーだった大谷未央さんにあやかって付けられたそうだ。


 私の生まれた年の夏に開催されたアテネオリンピックより後に生まれていたら、きっと吉田沙保里さんから取って沙保里だっただろう。

 野口みずきさんのみずきだったかも知れない。

 結構私の両親はミーハーなのだ。


 私の家族は私も入れて全部で4人。


 両親と父の母、つまりお祖母ちゃんと私の4人。


 父母ともに会社員だ。父は地元建材会社の課長で、母は事務。職場結婚だったらしい。


 お祖母ちゃんは早くに夫を亡くして、女手一つで父を育て、その当時はとても苦労したらしい。

 今は悠々と年金暮らし。


 至って普通の家族だったと思う。


 私もごく普通の女の子だった。


 名前が女子サッカーのストライカーからつけられた縁で、小さい頃から地元のサッカー少年団に所属してサッカーをしていたけれど、澤さんみたいに男子と互角以上、なんてことはなく、ごくごく普通。


 ちなみにポジションは本当だったら私の名前の元になった大谷未央さんのようにFWになりたかったけど、私は身長がそれほどなかったし、テクニックもそんなでもなかった。


 けど、とにかくひたすら長い距離を走るスタミナがあったので、4-4-2ならサイドバック、3-5-2ならウイングバック。


 ずーっとそのポジションだ。


 親に勧められて始めたサッカーだったけれど、小学校、中学校の時に所属していた地元の少年団にも、私みたいに女の子でサッカーをしたいという子が増えて、女の子と一緒にプレーできるようになってから楽しさがわかるようになった。


 女子でチームが作れるようになったし、高校生に上がる時は無謀にも当時なでしこリーグ1部に所属していた地元の女子サッカークラブの下部組織のセレクションを受けた。当然落ちてしまったので、高校では女子サッカー部に所属して続けている。


 高校生になってからはサッカー自体を楽しむというよりは、ある現実を忘れるため、という後ろ向きな理由になってしまっていたけれど。



 私はお祖母ちゃん子だ。


 父、母は共働きで、私は小さい頃からお祖母ちゃんに面倒を見てもらっていた。


 幼稚園の送り迎えはいつもお祖母ちゃんだったし、小学校中学校と家に帰ってから私を出迎えてくれるのもお祖母ちゃん。

 サッカー少年団の練習の送り迎えもお祖母ちゃんだったし、練習後にお腹が空いた時、おやつを出してくれるのもお祖母ちゃん。お祖母ちゃんが出してくれるおやつのお菓子はお徳用の割れせんべいだったり、かりんとうだったり、子供が好きなTVCMで流れているお菓子ではなかったけど、お腹が空いた私にとってはとっても美味しかった。


 父母は私に無関心だったという訳ではなく、土日のサッカー少年団の試合の手伝いや送り迎え、試合の応援には来てくれていたし、サッカー少年団が休みの時期の休日には県外の遊園地に連れて行ったりしてくれた。


 でも、やっぱり普段から一緒に過ごす時間が長いお祖母ちゃんが、私にとっては一番だった。

 小学校で男の子に意地悪された時や、友達の女の子と些細なことで険悪になった時などに、一番に相談したのもお祖母ちゃん。


 お祖母ちゃんは私を全て受け入れてくれる、そんな安心感を私はいつも感じていた。



 お祖母ちゃんの様子が少しおかしくなったのは私が高校に入った後くらいからだった。


 私とお祖母ちゃんは他愛無い話をよくしていたが、何度も同じ話をすることが増えた。

 何となく気になって母にそう伝えたら「年だから、そう言うこともあるわよ」と取り合ってくれなかった。


 お祖母ちゃんは車の運転をする。


 私の地元は田舎だから、どこに行くのも車がないと不便で仕方がない。私の小、中学校の頃のサッカー少年団の送り迎えもお祖母ちゃんが車でしてくれていた。


 高校に入って最初の梅雨が明けた頃から、お祖母ちゃんが車をこするようになった。

 車庫や外出先のフェンスなどにだ。幸いフェンスの時は父が外出先の医院に謝って修理代を払うだけで済んだ。

 医院のフェンスにこすった件はお祖母ちゃんは父母に黙っていたが、医院からの連絡で発覚した。

 父はお祖母ちゃんに「もう年なんだから運転辞めろ!」と怒鳴りつけてしまった。

 お祖母ちゃんも気が強い方なので「車がなきゃ医者にも行けねえ、俺に死ねって言うのか!」と怒鳴り返し、かなり険悪になったが、母がなんとか二人をなだめた。

 私もお祖母ちゃんのことが心配だったので、「お祖母ちゃんが車で事故を起こして大怪我したりしたら嫌だから、車の運転は止めて」とお願いした。

 お祖母ちゃんは「未央が心配してくれるのは嬉しいよ。だから今後は気を付けて乗るから。未央が食べるお菓子なんかも買いに行けないと困るからさ」と聞いてくれなかった。


 それから1か月後にお祖母ちゃんは行きつけの医院に行く道を忘れてしまい、医院と反対方向の山の中の畑道で、車を引き返せなくなって立ち往生しているところを警察に保護された。

 お祖母ちゃんを警察まで引き受けに行った父母は、対応してくれた警官に「多分認知症の症状が出てきていると思われます。これ以上車の運転を続けさせると大事故を起こす可能性もありますので、ご家族が説得して運転を止めさせてください」と言われたという。

 警察では認知症が疑われるからといって免許証を強制的に取り消したりできないんだそうだ。


 その夜、家族みんなで話し合った。お祖母ちゃん自身もこれ以上は運転しない方がいい、と理解したようでその日以降はお祖母ちゃんは運転を止めた。



 車の運転を止めてからのお祖母ちゃんは、家から出ずにずっとTVばかり見るようになった。


 私が家に帰ると嬉しそうに私の今日あったことを色々尋ねてくるけれど、ほんの数秒会話が途切れると、私がさっき話したことを忘れてしまいまた同じことを尋ねる、それが毎日続くようになった。

 父母とお祖母ちゃんの会話の中でもそういったことが度々あり、日曜日に父に「おまえ今日仕事はどうした」と言ったことで、どうも曜日感覚も曖昧になってきている様子が伺えた。


 母がお祖母ちゃんの掛かりつけの医院にお祖母ちゃんを定期受診に連れて行った時、私もお願いして学校を休んでわざわざ一緒に付いて行った。

 多分お祖母ちゃんは認知症。

 治せる方法はないと聞いている。

 でも、お祖母ちゃんが何もかも忘れてしまうのは私は嫌だった。

 私との思い出を忘れてほしくなかった。


 そんな気持ちで一緒にお医者さんに付いて行った。


 お祖母ちゃんの掛かりつけ医は内科の開業医で、普段のお祖母ちゃんは高血圧の薬だけを貰いに行ってる状況だった。


 掛かりつけ医の問診の内容を一緒に聞いていると、本当に簡単な2,3のやりとりにお祖母ちゃんが「元気です」「具合は悪くないです」と答えるだけで診察終了となった。

 私はたまりかねて「先生、実はお祖母ちゃん最近物忘れが出てきているようで、先日も~」とこれまでのことを話した。

 その医師は「人が年を取るというのはそういうことですよ。衰えを受け入れていくしかありません」と少し面倒臭そうに答えた。

 私は、最近は認知症の進行を遅らせる効果がある薬があるってネットで調べたら出ていたので、それを処方してもらえませんか、と先生にお願いした。

 その私のお願いに対してその医師は「ネットで調べたっていう人が結構最近多いですが、誰にでも同じ効果とは限りませんし、ご家族が期待する効果が出るとも限りません。どうしてもその処方を受けたいと希望されるのなら、紹介状を書きますので、心療内科か脳神経内科に掛かって下さい」と投げやりに言われた。


 私と母は相談して、市内の総合病院の脳神経内科に紹介状を書いてもらって移ることにした。


 後で調べたら、内科医師の言っていることは北欧風の考え方らしい。その人が己の能力で出来ることだけして、できなくなったらゆっくりと弱っていく。それもその人を尊重するやり方だと。

 決して間違っている訳ではないのだろうが、それを振りかざして面倒くさそうに対応している様子が許せなかった。人を尊重すると言いながら、目の前の患者と家族は尊重していないように思えた。


 私はこの時、医者になろうと決めた。


 お祖母ちゃんの今の状態は治せないかも知れない


 でも、私が医者になり研究者になって、お祖母ちゃんと同じ状態の人を治せる方法を見つけたい!


 その時までお祖母ちゃんが生きていたら、お祖母ちゃんも治せるようにしたい!


 強くそう思った。



 お祖母ちゃんはその後かかった総合病院の脳神経内科でCTやMRIを撮って調べて貰った結果、海馬の萎縮が見られ、アルツハイマー型の認知症と診断された。

 私の希望した認知症の進行を抑える薬も処方されたが、脳神経内科の先生には介護保険サービスの利用を勧められた。

 「認知症と言う病気は脳の萎縮が原因と言われていますが、根治はできません。脳を元には戻せないからです。症状の進行を抑える薬として今回処方したアリセプト等も出てきていますが、認知症は薬で何とかするというよりも、認知症の人を支える環境を整えた方が進行は抑えられます。介護保険の申請をして、デイサービスなどを使ってもらうと良いと思います」


 脳神経内科の先生の言葉に従って、母はお祖母ちゃんの介護保険の申請をした。

 介護保険の申請をしたら、介護保険被保険者証が届かない状態でも、暫定ということで介護サービスを使えるらしい。

 市役所に申請に行った母は、ケアマネージャーをどうするか聞かれたが、何のことかわからず、とりあえず市役所の方が提示した事業所の中から一つの事業所を適当に選んでお願いした。


 50歳くらいの男性のケアマネージャーがお祖母ちゃんの担当になったそうだ。

 色々とお祖母ちゃんの生い立ちの話や好きな事嫌いな事などを聞いて、いくつかのデイサービスを提示してくれたらしい。

 その中で昼食費だけでお試しで行けるところに一度行ったお祖母ちゃんはすっかりデイサービスを気に入ったようで、週2日通うことになった。

 後日ケアマネージャーがお祖母ちゃんのケアプランという書類を持ってきた。

 この書類の方針に従ってデイサービスの事業所がサービス提供する重要な書類ということで、私も後日控えの書類を見せて貰ったが、お祖母ちゃんの目標は家の玄関掃除を毎日することらしい。

 家の玄関掃除をする動作を維持するためにデイサービスで運動するのだそうだ。

 何かこじつけにも思えたが、お祖母ちゃんが楽しそうに過ごしているのでまあいいか、と思った。

 1か月程通った頃に、お祖母ちゃんが自分からデイサービスにもう少し通いたいと言い出したので、週3回に増やしてもらった。


 お祖母ちゃんはデイサービスに行くようになって、生活に張りが出たようで、毎日玄関掃除をしっかり行って、デイサービスに行く日を楽しみに過ごしていた。

 お祖母ちゃんは話好きで、デイサービスで同世代の方と話が出来るのが嬉しいらしい。

 私が家に帰ると、デイサービスに行った日は、デイサービスで何をやった、誰と話した、と嬉しそうに話してくれた。私の一日も聞きたがったが、以前とと同じように何度も同じことを繰り返し聞くのに変わりはなかった。


 母が言うには、月に1回訪問するケアマネジャーの話として、認知症の人は記銘力、短期記憶という最近のことは忘れて覚えていないが、長期記憶という昔のことはしっかり覚えているので、昔の話に付き合ってあげて色々思い出話をすると、記憶力の低下の進行が抑えられると言っていたそうだ。

 また、認知症で大変なのは記憶力の低下そのものより、記憶力の低下に従って起こる周辺症状という様々な問題行動の方が大変なんだそうだ。

 周辺症状を起こさないためには家族や介護職員が、本人の傍から見たらおかしな行動でも、本人なりに理由があってしていることなので、その理由を察して対応していくことが大事だ、と言っていたそうだ。

 母はお祖母ちゃんの様子が大分落ち着いたことで安心したようで、うちの義母さんは大丈夫だね、と言っていた。


 私もそう思っていた。


 父にもその話を母がしたが、「そんなの本当か?おかしなことをしたら本人を正してやらないといつまでたっても直らないんじゃないか。認知症って医者は言ってるかも知れないが、母さんは昔からあんな感じで自分の非を認めやしないんだから」とかなり疑っていた。



 私は部活も続けていたが、気持ち的には勉強に力を入れるようにしていた。

 医者になる、と決意したのが1年生の7月。

 2年生に進級後、進路希望の調査があり、とりあえず地元国立大学の医学部希望、と書いて出したら担任には渋い顔をされた。

 志望の理由を聞かれて正直に答えたら「永田のお祖母ちゃんへの気持ちは立派だ。でも、医者にならなくてもお祖母ちゃんにしてあげられることはあるんじゃないか」とやんわり志望変更を勧められた。 

 私は考えておきます、と返事したが、内心絶対に合格してやる、とかえって燃えた。


 父母に頼んで進学塾に通わせてもらうようになった。必然的に部活への参加はできなくなり、退部しようと思って顧問に退部届を提出しに行ったら、女子サッカー部の顧問の先生は「永田はサッカーが本当に好きなのはよくわかってる。自分の夢のためにサッカーを犠牲にして勉強に打ち込もうと決心したなら仕方ない。でも、別に部活動は大会のためだけにやるもんじゃない。勉強の気晴らしに偶に顔を出す、そういう関わり方でもかまわないぞ」と言ってくれた。


 正直、うちの女子サッカー部はそこまで強豪でもない。ただ、部員皆サッカーが好きで打ち込んでいたし、私もそんな仲間と一緒にいるのが楽しかった。


 それだけにそんな仲間に対してどっちつかずな不誠実なことはしちゃいけない、そう思って退部届を顧問の先生に渡した。



 2年生になってから進学塾に通うようになったが、私には意外と進学塾の講師陣の講義が合っていたようで、成績が思った以上に伸びた。

 私は単純な暗記があまり好きではない。

 特に「これは必要だから何も考えず絶対に覚えろ」みたいな言い方をされるとダメだ。

 昔からそうだが、自分の腑に落ちる言い方、考え方を提示されるとスパッと目の前が開けたように物事が繋がって面白いように理解できていく。それに付随して覚える必要があることは苦も無く覚えられた。

 進学塾の講師は、その辺りの説明が上手く、私に本当に合っていた。


 2年生の2学期開始時にもまた進路希望の調査があったが、私は1学期と同様に地元国立大学の医学部を第一希望にした。

 担任は「永田の成績だとまだ微妙なラインだが、順調にいけば何とかギリギリ行けるかも」と私の成績向上を認めた。


 2年生の2学期も勉強に打ち込んだ。


 進学塾から帰宅後はお祖母ちゃんの話を聞き、私も出来事を話し。


 私も家族も大きな変化もなく順調に過ぎて行った。



 年が明けて。



 お祖母ちゃんが体調を崩して熱を出した。


 新型感染症の可能性もあるため、保健所に連絡してPCR検査を受けた。


 検査結果は陰性。


 保健所から掛かりつけの脳神経内科のある病院に連絡してもらい、診察してもらったところ軽度の肺炎と診断され、念のため1週間程度入院することになった。


 入院中、お祖母ちゃんは自分がどこにいるのか理解できなくなり、夜も点滴の針を自分で抜いて病室から出て行ってしまうと病院から連絡があった。


 肺炎自体は良くなっているので、自宅に戻って療養してもらってかまいません、と担当の呼吸科の先生から言われて、当初の予定より2日早くお祖母ちゃんは退院して自宅に戻ってきた。


 家に戻ったお祖母ちゃんは、ホッとした様子だったが、入院中は自分で点滴を外して歩き回る以外の時間はベッドで寝ていたため、全体的に手足の動きが衰えて鈍くなっていた。


 また、何となくだが言葉が少なくなって、私の話も聞きたがらなくなった。




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