第32話 スライムのかけら?

 



 フライス村に着いて初めての夜が明けた。


 昨日の夜から雨が降っていたが、今日も雨が結構な強さで降っている。


 これは暗き暗き森の探索どころか、外に出るのも難しいだろう。


 外の便に用を足しに行ったら、床の下の小川の水流が結構激しくなっていて、茶色く濁った濁流になっている。


 これは落ちたら命が無い、と感じさせてくれた。


 この小川も暗き暗き森から流れ出している。


 暗き暗き森も当然大雨なのだ。


 代官屋敷からトイレへの往復だけでもけっこう雨に濡れる。


 ビニールの雨合羽なんてないから、普通に厚手の外套を羽織ったがびしょびしょだ。



 「うわー、こりゃ雨ひどいな。今日はどうしよう、することがないぞ」


 俺がそう言うとハンスが


 「仕方ないですね、殿……坊ちゃん。今日は大人しくここの広間で剣の稽古をしてますか」


 と早速木剣を持ってきて俺に渡した。


 おのれ、最初からそのつもりだったな、ハンス。



 既に朝の食事は食べた後。


 代官屋敷の広間はフライス村の村人が集会できる程広い。


 仕方ない。


 ハンスから渡された木剣を手にした。


 「じゃあ殿……坊ちゃん、いつも通り素振りから行ってみますか」


 「……はーい、お願いします」


 真正面からの切り下ろし、斜めの袈裟懸け斬り、切り下ろしからの裏刃ショートエッジの切り上げ、首の高さの水平切り、水平切りからの裏刃ショートエッジ切り上げなど。


 それぞれ200回。


 刃筋を通して振るのを重視しているので、刃筋がしっかり通っていないとハンスから叱咤の声がかかる。


 西洋剣は重量のある打撃用武器だ、と思っていた時期が私にもありました。


 実際まだ俺は本物の剣を使わせてもらっていないので振ったりしたことはないが、ゲオルグ先生に試しに触らせてもらったことがある。


 バスタードソードだったが、ずっしりとして重かった。2㎏近い重量があるとゲオルグ先生は言っていた。


 確かにこの重量なら、振られた剣が当たるだけで十分相手はダメージを受ける。ただ、剣の持つ質量を正確に対象に叩き込むためには、やはりしっかり刃筋を通して剣を振るえないとただ自分が疲れるだけらしい。


 例えるなら釘を打つのに長い鉄板を使うとして、最も効率よく釘を打つにはどうしたらいいか。


 鉄板の広い部分で釘を叩いても確かに打てる。しかし鉄板を縦に持ち、正確に釘を打つ方が一撃でより深く釘を打てる。その際、縦に持った鉄板の角度が釘に対して垂直に当たるのが、最も釘に力を伝えられる。垂直から角度がズレてしまうと釘も曲がるし鉄板を持っている人の手首を痛めてしまう。


 ゲオルグ先生は剣の刃筋を通して振る大切さをそのように教えてくれた。


 非常に解りやすく腑に落ちたのだが、実際素振りでやらされると、もう厳しかった。


 難しいんだよね、最初のうちは気を付けていられるけど、疲れてくるとどうしてもね、刃筋が逸れてしまう。


 まあ剣の修練を始めて1年半だから徐々に慣れてはきたけど。


 西洋剣の場合、両刃だから裏刃ショートエッジを使った技術などもある。一応素振りでもやってはいるが、実際は裏刃ショートエッジは手首の返しだけで使うことが多いのだとか。


 まだ俺は8歳で体ができていないから、手首だけの動きをすると手首を痛める心配があるから、もっと成長してから教えてくれるようだ。


 まあ、俺はそこまで剣に熱心ではないので、とりあえずは言われたことをこなすだけで精一杯だ。


 素振りが終わったら防御の練習だ。


 木剣を片手持ちに変えて左腕に木製のバックラーを装着する。


 ハンスの打ち込みをバックラーで受け、右手の剣で突く。


 バックラーは実戦で使う物を装着する。実戦で使うバックラーも木製だ。


 木製のバックラーに相手の刃が食い込んで抜けなくなったら相手の攻撃手段を封じたのと一緒だ。バックラーの本来の使い方はその隙を衝くためのものだそうだ。


 バックラーの使い方を最初に教えてくれたのはハールディーズ公爵だった。


 手加減してくれているとは言え、本来のバックラーの使い方を教えると言って真剣の斬撃をバックラーで受けさせられるとは。


 当然手加減していたからバックラーにハールディーズ公爵の振った剣が食い込んだだけだが、あれは本気だったらバックラーごと俺の腕は切り落とされていたと思う。


 チビったのは内緒だ。


 その後、俺の場合は斬撃を受け流すように受けろ、と言われている。


 ハールディーズ公爵の本気の斬撃や、相手が瞬足を使って来たら難しいが、通常の斬撃なら俺は相手の剣筋が見える、とうっかり口にしてしまったせいだ。


 あの時の俺のバカバカ! あたしってホントバカ!


 相手の剣筋が見えるのであれば、相手の刃筋が通っていない場合は刃筋が逸れている方向へ受け流すだけで相手の剣を弾くこともできる、その方が青銅や鉄のバックラーも使えるから、と言われている。パリィって奴だな。


 何でそんな面倒なことを、と思ったが仕方がない。言った言葉は戻らない。


 以来ずっとバックラーでの受けはそれをやらされている。


 しかし、俺の師匠のゲオルグ先生も、先生の息子のハンスも、刃筋がブレないからそんな上手く行くことは少ない。


 まあガリウス=ハールディーズ公爵にしごかれた時に比べればマシだけど。ちょっと本気で剣を振られると、見えない。木剣の一撃でバックラーを壊される恐怖を、全世界の皆さまにも感じて頂きたいと思う。


 「では殿か…っとんぼが飛んでますね春なのに。坊ちゃん、今日の修練はこれで終わっときましょうか」


 カトンボなんか飛ぶか!


 殿下呼びを無理やり誤魔化そうとしたのは分かってるんだハンス。

 しかし俺は努めてにこやかに。


 「ありがとうございましたハンス師範。私をジョアン坊ちゃんと呼ぶの、早く慣れて下さいね」


 ゲオルグ先生が師匠だからハンスは師範、剣の稽古の時はそう呼ぶようにしている。


 ハンスも師範呼びは満更でもなさそうだ。



 「では殿……坊ちゃん、体の汗を拭いましょう。濡れたままは体に悪いですからね」


 そう言ってハンスは上半身の服を脱いで体を拭き出した。


 俺も体を拭こうと上半身の服を脱ぐ。


 そこへピアが俺の部屋から広間に、タオルと着替えを持って来ようとしたが、上半身裸のハンスを見て固まってしまった。


 「おっと、これは失礼。」


 ハンスはそう言って服とタオルを持って自室に戻った。



 「おやおやピアさ~ん、どうされたんですかあ? 男の裸なんか私で見慣れているんじゃあないんですかあ?」


 俺はついニマニマして固まったピアに話しかけた。


 「……殿下、こちらに来てからおふざけが過ぎますよ」


 そう言うとピアはいつも通り俺の体を拭き出した。


 拭く手つきはいつもと変わらない。こういうところはピアは流石だと思う。


 「ピアがあんな乙女な反応するのが珍しいから、つい嬉しくなっちゃってね。

 ピアって、いつも表情が変わらないし、そういう点メイドとしては完璧なんだけど、男性を意識することがないのかなと思ってたんだよ。

 冬にハールディーズ公爵領に行った時も、剣の稽古の後はハールディーズ公爵やダリウスが上半身裸でも驚いたりしなかっただろう?」


 「あの時はもう、そういうものだと思っていましたし、そんな直視するような失礼なこともしておりませんでしたから」


 なるほど、今日は不意打ちみたいにハンスの上半身裸が視界に飛び込んできたって訳か。


 「ピア、以前も言ったと思うけど、私はピアが結婚して、子供を私に見せに来てくれるのが楽しみなんだ。メイド長のイライザさんにも言われたと思うけど、ピアが男性を好きになったなら、その方と結ばれていいんだからね。身分が違い過ぎる場合とかは私に相談してくれれば、母たちと相談して力になるようにするから」


 「はい、殿下。その時はよろしくお願いします」


 そう言っているうちに体を拭き終わった。


 「それと、ピア」


 「はい、殿下。何でしょう」


 「何度も言うようだけど、私はここではジョアン坊ちゃんだからね」


 「はい殿……ジョアン坊ちゃん」


 だめだこりゃ。


 みんななかなか慣れないもんだな。




 その後、村長の使いの村人が代官屋敷に来て、フライス村に何本か流れている川で氾濫しそうな箇所があるから、応急で補修する手伝いに人手が欲しい、と言われハンス、ダイク、ドノバン先生は出かけていった。


 ピアはその間、皆の洗濯物を洗濯していた。


 洗濯板と石鹸を持ってきているのでそれをピアは使って洗っている。



 俺はというと特にやることもないので、ピアの手伝いをした。


 洗濯も結構水を使う。


 なるべく衣類も汚さないようにしよう。



 洗濯しながらピアに思ったことを聞く。


 「ねえ、ピア。ピアはさ、王宮に来てからずっとメイドしかしてこなかったんだろ? 何かやってみたいこととかないのかい?」


 ジャブジャブ


 「私は教会の孤児院から王宮に来て、その後はずっとメイドでしたから、孤児院と王宮しか知りません。7,8歳の頃は洗濯メイドをしながらメイドとしての仕事を覚え、9歳で客室のベッドメイクをさせていただくようになり、12歳の頃に現メイド長のイライザ様が来られ、内廷付になりました。16歳で殿下付きに抜擢された時は、私の仕事ぶりも認められたのだと嬉しく思いました」


 ジャブジャブ


 「うん、ピアのメイドとしての仕事ぶりは本当に完璧だと私は思うよ」


 「17歳の時に殿下にうっかり口を滑らせてしまった時は、もう絶望で頭が一杯でした。メイド長のイライザ様からのことは言い含められていたとはいえ、自ら殿下にそのことを言ってしまうなど、殿下のお心とお体を我が物にしようとしていると取られても仕方ないことだったからです。

 ですが、ラウラ王妃殿下を始め王家の皆様は私の落ち度を咎めることもなく、その後も変わらずジョアン殿下付で使って下さっております。

 王家の皆様には返しきれない御恩をいただいてしまいました。

 ですから私は王家の皆様のために、今後も私に出来ることを精一杯務めさせていただくことで御恩をお返ししていきたい、そう思っています」


 ジャブジャブ 


 そうか、あの時ピアが流していた涙は、迂闊に口を滑らせてしまったことでピアが俺を誘ったと俺を始め王家の者に思われたという絶望からだったんだな。


 軽々しく冗談を言うものじゃない。


 「ごめんね、ピア。私はピアの立場を考えていなかったよ。ついピアに甘えていたようだ」


 「殿下に謝っていただくことではありません。それにああいう下品な冗談を言ったり、時々天然気味に常識とズレていたり……そんな殿下らしさを失って欲しいとは私は思いませんので、お気になさらないで下さい。

 あ、殿下、そちらを持って貰ってよろしいですか」


 今洗濯板で擦っていた洗濯物の片方の端を渡される。


 「殿下はそのまま持っていて下さい」


 そう言うとピアは洗濯物をギュウギュウと絞り始めた。


 ジャーッと水が勢いよくたらいに落ちる。


 絞り終えると俺から洗濯物を受け取り、パン、パンと伸ばす。


 「では殿下、これをあちらの広間の端の干場に干してきてください。私は次の洗濯物を洗いますので」


 「ピア、随分王子の私を使うじゃないか」


 ちょっと意地悪くピアに言ってみる。 


 「殿下はここではジョアン坊ちゃんなのでしょう? 優しいジョアン坊ちゃんならば、これくらいのお手伝い、何も言わずにやって下さるものだと私は思いますよ」


 「まったく、ピアには敵わないよ~」


 よかった。こうゆうある意味厚顔な部分がピアのいいところだと俺は思っている。


 ピアじゃないと俺のお付きメイドは務まらなかっただろう。


 「ありがとう、ピア」


 「何を言ってるんです? 殿下。そんなことを言われたら私こそ御礼を言わなければなりませんよ。

 殿下は型破りなお方ですが、私に色々気を使ってらっしゃるのでしょう? わかっています。

 私が口を滑らせた時も正妃陛下や王妃殿下に私のことをかけあって下さったのも王妃殿下からお聞きしました。殿下には深く感謝しております。

 でも殿下は私がそんな感謝の気持ちだけで殿下にお付きするのはお嫌なのでしょう? それで私が気を使わないように殿下が冗談めかした態度を取られるのも存じ上げています。

 殿下のお気遣いのおかげで、私は殿下を弟のように感じ、接することができているのです。

 まだ私は異性を好きになる、というのがよくわかりませんが、これから好きな方ができましたら遠慮なく弟の殿下を頼らせていただきます」


 「うん、その時は頼ってよ。いいアドバイスを姉に贈れるか判らないけどね」


 「8歳の殿下にそんなアドバイスを受けたら、私は一体何なんですか。その時殿下はただ私の話を聞いて下さるだけでいいんですよ。私の話を殿下が聞いて今後の参考にして下さい」


 「何だよピア、お姉さんぶるなあ。まあ早くノロケ話を聞かせておくれよ」


 「はい、殿下」


 ピアはいい笑顔で笑った。







 その日の夕食時、昨日の残りのウドンを食べながら、俺は皆に宣言した。


 「すまない、皆。今日はまだフライス村に来て二日目だが、初日に皆にお願いした私を『ジョアン坊ちゃん』と呼ぶ件、まったく徹底されていない。誠に遺憾である。どうだねハンス、何か申し開きがあるかね?」


 「いや、殿下は殿下ですし、急に変えろってのも口が馴染まなくて……」


 「そうですよジョアン坊ちゃん、それはまだまだ時間が必要です」


 「……いけませんなあ、ドノバン先生。ご自分のことを棚に上げられては。ピアもだぞ! 全く何時まで私は殿下呼びを我慢せねばならんのかね。明日からフライス村周辺の探索に出るというのに、もし村人に私が王子だと知られたら、どのような騒ぎになるのか……一人の迂闊さがどのような事態を招くか判らんのだぞ!」


 演説しながら俺は、そう言えばダイクは俺のことを名称で呼びかけてなかったな、と思い出し、意外にダイクは世渡り上手なのではないか、と推測した。


 「今だに私を殿下と呼んでしまう諸君らのために、私はとっておきの秘策を考え付いた!

 明日から私のことを呼ぶときに諸君らは『ジョアン殿下』と言う発音をしても良い!」


 「殿下、そいつは有難いんですが、それだと殿下が殿下とバレてしまうのでは?」


 「安心したまえ! 『ジョアン殿下』の殿下は尊称ではない、姓ということにするのだ!」


 「は?」


 「つまり私は王都アレイエムにある中小商会『デンカー商会』の息子、ジョアン=デンカーなのだ!」


 「……それで大丈夫なんですかね」


 「大丈夫だ! もしデンカー商会のトップは誰だと聞かれたらダニエル=デンカーと答えればよい、ファーッハッハッハ」


 「本当にいいんですか?」


 「良い! まさか王都の父上にまで伝わることはあるまいて! さあ、諸君、明日からの為に私の名を呼ぶがいい、ハイッ」


 「「ジョアン=デンカー、ジョアン=デンカー、ジョアン=デンカー」」


 「うむ、明日からのこの設定、皆よろしく頼むぞ、ファーッハッハッハ」


 みんな、子供の戯言に付き合ってくれて、本当に出来た人たちだ。


 いいメンバーを集めてくれたパパ上とゲオルグ先生には感謝だ。







 次の日の朝は良く晴れていた。


 昨日の大荒れの天気が嘘のようだ。


 俺は朝のお勤めをしようと外の水洗便所に向かった。


 川の水はまだ茶色く濁っており、水の勢いもあるが、流石に昨日程ではない。


 俺は川に掛かっている水洗便所を支える川の中から建てられた柱を、何の気なしに見た。


 その柱には何か引っ掛かっていた。


 前世ならよく見た、透明なビニールのような物が、川から突き出した柱に引っ掛かって川の流れで揺れ動いている。


 何じゃありゃ?


 ビニールのみ異世界転移か?


 暗き暗き森に昨晩異世界転移者が来てそいつが流したのか?


 まずこの時代では見かけない物だ。


 俺は辺りから長めの棒っ切れを拾ってきて、慎重にビニールらしきものが流されないように棒に引っ掛け手繰り寄せた。


 手に持って広げてみる。


 水をまとったそれは縦横1mくらいのようだ。


 俺の手足が短すぎて全部広げられない。


 それの表面は透明で色は着いていない。印刷等もないので、転移でやってきた可能性は低いか。


 持った感触はサランラップに近い。


 とりあえずそれを代官屋敷に持ち帰る。


 「ドノバン先生、これをご存じですか」


 広間のテーブル上にドノバン先生の手を借りて広げてみた。


 やはり大きさ、広さは1mを超えており、所々破れてちぎれそうになっている。


 「……初めて見るものですね。殿下、これは何処で見つけたのですか」


 俺はトイレの柱の川面と接する部分に引っ掛かっていた、と正直に答えた。


 「上流からの漂流物ですか。この村の人が流した物であれば村長あたりに聞けばわかると思いますが、そうでないとすると暗き暗き森から流れてきた物、ということになりますね」


 ドノバン先生の他にハンス、ダイク、ピアにもこれを見たことがあるか聞いたが、誰も見たことが無いと言う。


 「ドノバン先生、これって先生が以前言っていたスライムの皮膜なんじゃありませんか」


 「殿下、まだ急いで結論付けるのは早いですよ。まずは村でこれのことを聞いてみてからでも遅くはありません。まずは、一日動けるようにしっかり準備しましょう」


 そうだな。


 時間はたっぷりある。


 このビニール様の物体が何なのかを調べる時間は。



 俺は逸る心を抑えて、まずは行きそびれた水洗便所に行くことにした。












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