サイダーと砂のお城
露草 ほとり
雑踏の中に、その人と二人で居るのは初めてだった。その人は誰を気にすることもなく、いつもと変わらぬゆったりした動作で構えて、切符のボタンを指差した。
「どこでもいいよ。今日だけ。」
だけ。という音が耳に残る。甘い何かがジワリと胸中を広がって蝕んでいく。これが何という現象か私は知らない。その刺激が体や頭の中で処理される順序を知らない。多分、他の人も知っているこの感覚を、私たちは互いに口にして説明し合うことも、学校で習うこともない。なのに、多分、他の人も知っているのだろうと思っている。そう、だって本で読んだことがある。
「どこがいい?」
優しい声が降ってくる。どうして優しいのだろう。厳しい人だと言われている。けれど、私はその優しい声の方をたくさん知っている。
「一番遠く。」
私は前を向いたまま小さく呟いた。
「遠くか。海か山かどっち?」
私の中で答えは決まっている。即答できる。それなのに、小さい子供の頃に戻ったみたいに、あまりに優しい問いかけに、次の言葉を発することを躊躇う。
「海が見えるところにするけど、いい?」
その声色を聞いていたい。いつまでもただ、その人の感じがわかるところに居たい。決して本当には邪見にしない強さの近くに居たい。困らせてみたい。困らせたくない。何かできることがあればしたい。滅多に他へ持たない感覚を、その人に会ってすぐに持ってしまった。それが見当違いなら、もう、世に何も望まないだろうというくらいに、妄信的に持った。
きっとまた崩れてしまう。それを確かめないといけない。確かめるために崩れそうなことをしてみないといけない。嫌な癖だ。一つで良いから世の中に、崩れない砂のお城もあるのだと知りたかった。
鄙びた無人駅に降りる頃には車内はとっくにまばらになっていて、じっと座っていた二人が、降りることを気に留める人は誰も居なさそうだった。無表情に肘をついていた横顔や、安堵する家を思わせる匂いや、何もかもを、潮風にさらわれないように、私はしっかりと持っていた。
「適当に飲み物買ってくる。ここで待ってて。」
温かい空気がぱっと横から消失する。大丈夫、戻ってくる。子供の頃、こういう時に無性に心細くなってしまったのは、戻ってくる感覚の経験を十分にしていないからなのだろうか。
私の状態に関わらず、規則正しく変わらず居られる生物の傍に置いておかれたかった。 旅先の常連客の多いお店とか。いつも通りの日常の中に、そっと、放られていたかった。
お金で買えるものには限界がある。 叶えられないこともある。 それなりに旅をして、美味しいものを食べ、人に会い、そういうことがわかってしまった。 欲しいものはあっても、どうしてもというものはほとんどない。代わりに、どうしても買えない何かには、鋭敏だった。
波打ち際が見える石段に座っていると、石が吸い込んだ日中の陽光の温度や、粒粒した石の感じが伝わってくる。 石の合間に風で流れてきた砂が少し混じっていて、その細かな模様をじっと眺めていた。
風が何度か頬を叩いて、顔を上げると、前方の波打ち際の辺りに砂のお城が見える。 やがてそれも、満ちてきた波に流されてしまうだろう。 流れない位置につくることもできたのに、流れてしまう位置につくることがいいのかもしれない。
「ん。」
言葉少なに缶を差し出すと、その人は私の隣に遠慮なく座した。その人がこういうところで何を飲むのか知らなかった。普段居るところで見たことのない種類の缶が手元にあった。さいだぁ、と平仮名で書かれた文字の近くに、よく知らないキャラクターが描かれている。その人も、私が何を飲むのか知らないはずだったが、炭酸を飲めるか聞かずに私の手の中には同じ炭酸飲料が渡されていた。
「同じの?」
「同じの。」
切符の時みたいに、二つの選択のどちらがいい?と聞くかと思ったのに、同じが良いだろ、という優しい決めつけが、こんなところへ連れてくるのだ。
私は砂のお城を眺めながら、さいだぁの、缶のプルトップを立てた。液体が勢いよく泡立って、端から溢れる。その人はとっくに器用に缶を口元へ運んでいるのに。
「大丈夫?」
恥ずかしい失敗は、その声を聞いていると余計に膨らむような、そのまま見ていてほしいような、変な気持ちになる。ハンカチを取り出してスカートを拭くと、つい、とその人の注いでいた目線は砂のお城の方へ逸れた。
いつもなら、この辺りの時間に、砂のお城は崩れる。わざとそうしたわけではなく、自然に起きたことを積み上げて、上手にできたお城が崩れる。 私の見立てでは、今回だけは違う崩れ方をする。そうであってくれないと困る。
甘い崩れ方はもう、たくさんだった。上手に砂のお城をつくっては崩して確かめないと気が済まない私を叱ってほしかった。今日の砂のお城はずっと、波や風に耐えていた。 夕暮れのオレンジが紫に代わりはじめ、光を何度も変えて、砂がだんだんと辺りの色と同化を始めても、まだ、波にさらわれずにいた。
「そろそろ、帰るぞ。」
「・・・。」
「寒くなるからな。」
「・・・。」
「寒いところに置いておきたくない。」
私はすっと立ち上がる。いつもなら、忘れてしまった幾多の生暖かい手が降ってくるけれど、自分で砂利へ手をついて立ち上がる。温かい陽光の残りが手の平の裏に生きている感じを押し返す。悪くない。
「ん。」
いい子だな、とでも言いたげな優しい目線がこちらを確認して、前方へ行く。 少し行って、こちらを待った後、足取りを確かめながら、ぴたりと同じ速度で歩く。 ぴたりと同じなのに、とても自然で楽なのだ。 その人の側を歩くことは、初めから私を無垢にした。
「これ、持っといて。」
帰りがけのホームで、その人の行きの切符を手の中に握らされる。
「今日だけ、って言ったけど。どうしても、って時は、それを見せてくれたらいい。」
私はじっと隣を見る。そんなことを言っては、今度こそ砂のお城は崩れてしまうから、と警告するように。それから、そう考えた自分が急に恥ずかしくなって、目線を下げ、渡された切符を強く握る。
おかしい。こんな感情を持たされたことは一度もないのに。
苦しい。もう何もかも、全部わかってしまって。
嬉しい。その強さが、あまりに本物で。
哀しい。私にはそれを、仰ぎ見るしかなくて。
そんな感情、一度も、もったことがなかったのに。
たくさん会っても一度も、もったことがなくて、知らなかったのに。
次の電車を待つ間、辺りは藍色を濃くし、草木が風に揺れて、潮の匂いを緑っぽい匂いが覆い隠す。虫の音が合唱を始めて、星がぽつぽつと光り始めている。鄙びた無人駅が、私の胸に食い込んでくる。 初めて、波打ち際で見た砂のお城が流される前に背を向けて、ホームへ着いてしまった。
* *
どうしても、という時は来ないから、切符は今も二枚手元にある。
本当は来ないようにやせ我慢している。 ぐっと歯を食いしばって。時々、星を見上げて。 いい子だな、ってあの目が含んでいたものが、それまで見たどの目よりも優しくて。 そういうものは世の中にあるらしい。 その人はずっとそれを持っていられるらしい。
あの日のホームで見ていた宵闇は、何よりも美しい景色として封じられた。
私は切符を、部屋の隅っこの、蓋つきの缶の中に収めている。
引っぱり出して二枚あるか確かめる、なんて少女の頃のようなことは、気恥ずかしくてしない。
代わりにあれから私たちの言語は増えた。どうしても、って時が来そうな時は、サイダーを手渡す。 この辺に、さいだぁ、は売ってないから、サイダーと呼べるものを探してくる。 夏でも冬でも炭酸って気分でない日でも構わない。するとしばらくして、サイダーが返ってくる。不敵な笑みと共に。するともう、大丈夫になってしまう。シュワシュワと溶ける。それは言語なのだ。どんな言語よりも確かな言語なのだ。
――崩れない砂のお城はこの世にあったらしい。
サイダーと砂のお城 露草 ほとり @fluoric
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