アルビノの章(後編)
夏休みは、ゆっくりゆっくりと過ぎていくのが常だった。母は平日は仕事で、休日も趣味や習い事で外へ出掛けることが多い。私が小学生でありとあらゆる習い事に落ちこぼれ、中学で勉強の成績も落ちて塾でいちばん成績の悪いクラスになって辞めてしまったあたりから母はもう見切りをつけたのか、そういうところには一人で出掛けて行くようになった。
誰かと遊びに行くような約束もなく、毎朝、母が出勤前に点けていた冷房の残滓の残る居間へ降りて、食卓のテーブルの上にぽつんと置かれた昼食代の五百円玉を持って図書館へ通うのが、ここ何年もの習慣になっていた。
だから、麻生さんに誘ってもらってすずらん祭へ遊びに行った日曜は夏休みのはじめにしてもう、過ぎてしまえば夢だったような、とても特別な気持ちだった。
そのすずらん祭の次の週、麻生さんから電話があった。朝、外は雨で風はなくて、窓を開けて扇風機をかけていても蒸し暑かった。母が仕事に出掛けたあと何となくぼうっとして、ベッドの上に寝転んでいたらいつのまにかまた眠ってしまっていて、急に強くなった雨の音にはっとして目が覚めたのと同時に、着信音が鳴った。
「麻生です、高野さん、突然すみません」
「は、はい」
今大丈夫ですか、と訊かれて、だいじょうぶです、と答えながら、わけもなく立ち上がってしまう。窓枠のところを確かめてみたら幸い雨は降り込んでおらず、かなり大粒の水滴が暗い空からまっすぐ落ちてきている。窓を閉めて、エアコンのスイッチを入れた。
「えっと、こないだ話してたケアホームで、人手が足りないのでアルバイトを探していて……高野さん、バイト探してるって言ってたなって、思って電話してみたんですが」
「あ、わ、え」
「あ、すみません急に、でも、日曜にすごく落ち着いて利用者さんの相手をされてたので、良いんじゃないかなって……勿論、まだ高校生だから夜遅くまでは入れないし、あんまり時給も良くないんですが」
「わ、私で、いいんでしょうか、あの、資格とか何もないんですが」
「それは大丈夫です、一人でやるわけではなくて、あくまで専門の職員がいて、その手伝いという扱いなので……でも、向き不向きのある仕事なので、最初の三ヶ月は試用期間になります、利用者さんと接してみて、相性もあるでしょうし……あの、ほんとに条件はあまり良くないんですが、もし、高野さんが嫌でなければ、一度見学にでも来てみませんか」
「はい、ぜひ」
即答してしまった。できるかできないかとか、先のことを考える前にもう口が動いていた。見学に行く日にちをその場で決めてしまって、電話を切ってしばらくずっと、心臓がドキドキしていた。
アルバイトをする、と母に言った。答えはほとんど決まっていたようなものだけれど、ある意味、私が何か新しいことを始めようとするときの洗礼のようなもの。そして、今まで大概のことは、ほらやっぱり、という結果になっていた言葉。
「あんたにそんなことちゃんとできるわけないじゃない」
「ちゃんとできる、かどうか、は」
「できるわけないわ、あんたみたいなのろまに」
「……、やってみないと、わからない、」
「勝手にすればいいけど。周りの人に迷惑かけるだけよ、どうせすぐ辞めることになるんだから」
完敗だ。じわんと胸のうちが苦しくなる。でも、ともかくこれで許可は得た(と、いうことにしておこう)。ちゃんとできるわけない、なんて、少なくとも最初からちゃんとできるなんてことない。怖いけど、叱られたり失敗しながら、やればいいんじゃないだろうか。それで、どうしても駄目だったら辞めよう。そう、頭の中で何度も繰り返して、一睡もできないまま夜を明かした。明け方に少しだけ眠って、夢の中で私はやはりアルバイト先で取り返しのつかない失敗をして、どうしよう、とただ立ち竦んでいた。やっぱりやめればよかった。やっぱりやめればよかった、やっぱり。ううううう、と自分のうなされる声で目を覚まして、しばらく心臓がばくばくいって動けなかった。全身にびっしょり汗をかいていて、外はもうすっかり明るかった。目覚ましが鳴って、今日は高校の登校日だと思い出す。かちんとスイッチを止めて、身体を起こした。
高校までは自転車で二十分ほどの道のりで、黙々とこいで行くとすぐ背中に汗が伝う。七月ももう終わりだ。宿題の提出と連絡事項だけで、登校日のプログラムは午前中の早いうちにあっという間に済んだ。
教室を出たあと、生徒指導室へ向かった。ノックをして部屋に入っていった私を、生徒指導の先生は不思議そうな顔で見た。昨日、あれからアルバイト申請の書類にサインはもらったけれど、その横に判子を押してもらわなければいけないのをすっかり忘れていた。部屋に戻ってすぐに気付いたのに、結局そのあと母に判子のことを言いだせずに玄関にあったシャチハタの判子を勝手に押してきた書類は、拍子抜けするほどあっけなく受け取ってもらえた。よく考えたら、書類をもらいに学校に来たとき担任の先生には話をしたわけで、それが伝わっていただけなのだろうけれど。
お母さんひとりで大変だろうから支えてやれよ、ただ成績もいい方じゃないんだから、手を抜くなよ、と言って、髭面の生徒指導の先生は私の肩をボンと叩いた。はい、と答えた私の声は、窓が閉まって冷房が効いた指導室の中だけでも霧散して消滅してしまうほど小さかった。もしかしたら、先生には聞こえていなかったかもしれない。
一礼して、廊下へ出る。なぜだか少し涙が滲んで、目の前がぼやけた。成績が良くないのは本当のことだし、似たようなことを担任の先生にも言われたから、そんなにショックじゃなかった。ただ母には果たして私の支えなど必要なんだろうかと思いながら、下を見て歩いた。
廊下のゴムのような灰色の床には窓からくっきりと陽が入ってきていて、蝉の声と外の自転車置き場にいるひとたちの声が渾然一体となって、みんみんわしわしと迫るように聞こえていた。急に胃のあたりが締め付けられるように痛くなって、私は足を止めた。視界がぼやんと緑色にハレーションを起こしたけれど、なんとか座り込まずには済んだ。しばらく廊下に立ち止まって、痛みと眩暈が行き過ぎるのを待つ。昇降口を通り、外へ出て自転車置き場へ行ったときには、もうそこには誰も居なかった。私は来たときと同じように黙々と自転車をこいで、家に帰った。
午後、私は麻生さんに連れられて、これから働くことになるホームを訪れた。初めて降りる地下鉄の駅から出て五分ほど歩いたところにある、静かな住宅街の中の一軒。ケアホームという名前から私は小学生のころ慰問に行った老人ホームを連想して、なんというかもっと施設っぽい、全体的に白くて平坦で四角いような建物を想像していたのだけれど、そこはまったく普通の民家だった。利用者さんのご家族の持ち家を借りているのだという。なかなか、そういう伝手がないと難しいんです、と、少し厳しい顔をして麻生さんは言った。
ホームでは、佐々木さんという中年の男の人が待っていてくれた。佐々木さんはちょっと太めの柔和な感じの人で、にこにこしながら自己紹介と挨拶だけすると、んじゃ、あとよろしくね、と麻生さんに言って玄関を出て行ってしまった。あっけにとられる私に、麻生さんは苦笑して言う。
「あの人、ああ見えてホームの代表なんですよ……おっさーん……俺ほんとは職員じゃないんすけど……くっそ、丸投げしやがって……」
その言い方が可笑しくて笑ってしまった。こんなふうには言っても、きっと優しくて信頼されている人なんだろうなあ、というのが、親しみを込めた麻生さんの口調からわかった。
「えっと、さっきの佐々木さんは、もう一つのホーム……ここがホームすずらんで、もう一個はホームひまわり、って言うんですが、ひまわりの方で普段働いてるんです。僕の、兄がお世話になってるところ」
同じ法人の経営しているホームがもう一箇所あって、そこはマンションの一室を法人名義で借りて使っているのだという。私は、主にこの民家のホーム、「ホームすずらん」に、専属の職員さんの手伝いとして通う。たまにもう一つの「ホームひまわり」で人手が足りないときは、ヘルプで入ってもらうかもしれません、と、居間の低いテーブルに向かい合って座って、麻生さんは説明してくれた。
勤務時間は夕方五時から。ホームは月曜から金曜、と言っても利用者さんたちが働いている作業所から帰って来る時間から始まり、作業所への出勤を見送るまでが一サイクル。土日は作業所は休みだが、ほとんどの利用者さんが自宅へ帰るので、正確には月曜の夕方から土曜の朝までが稼働時間になる。正職員と大学生のアルバイトには泊まりの勤務があるが、高校生は夜中は働けないから、夜は九時まで。すずらんの方は比較的生活に手がかからない利用者さんたちが暮らしているので、普段は正職員の水谷さんという女性が一人で切り盛りしているのだという。
私は持ってきた大学ノートにメモを書きながら、麻生さんの話を聞いた。麻生さんは、話の切れ目でしばらく黙っては、おそらく私が文字を書き終えるのを待っていてくれた。
「あの、高野さん」
「はい」
「体調が良くないですか」
「え」
説明が一段落ついたときに、ふと問われて、驚いた。もう朝の不穏な動悸も、午前中に感じた胃の痛みも治まって、歩いて来た道は暑かったけれど、体調が悪くなったりはしていなかったのだけれど。
ふっと、また心臓が動いた。いろいろなことで、情けなくふらついた気持ちを、見透かされた気がして。
「え、いえ、そんなことはないです、……あの、もしかして、何か、失礼な態度を」
「あ、違います、全然……ごめんね、顔色があまり良くない気がして」
「あ、あの、それは、今朝の、夢見がわるくて」
「ああ、それはサカユメなんで大丈夫ですよ」
「え、え、なぜ、わかるんですか」
「なんとなくです」
どんな夢かも言ってないのに、いくらなんでも判断早すぎる。意外に適当なひと。それなのにすごく自信たっぷりに言われて、私はつい笑ってしまった。
「根拠なさすぎです」
「でも、僕にはわかりますから」
「あの」
「はい」
「とても、素敵だと思います」
ん、と言って、麻生さんは黙った。何か、私はまた的外れなことを言ってしまったのかもしれない。でも盗み見た彼の顔は少し気恥ずかしそうであれ、気を悪くしているようには見えなかったので、いいかな、と思う。わからなかったり変だったりしたら、きっと麻生さんは訊いてくれるだろう。
契約のための書類に名前を書いて、判子を押して手渡す。網戸にしていた居間の窓から、すうっと涼しい風が通った。
初出勤は八月のはじめ。始業時間より少し早めにホームに着いて、緊張しながらドアのチャイムを鳴らすと、中から女性の声で返事が聞こえた。
ホームすずらんの正職員は、水谷もえみさんという。私は水谷さんの手伝いとして、ここで働くことになる。この間説明を聞きにきたときには水谷さんは居なかったから、今日が初対面。
玄関を開けて出てきた水谷さんの姿を見て、一瞬、私は怯んでしまった。彼女は金に近い茶髪のドレッドヘアーで、大きな二重の目はバッチリと濃いマスカラにアイライン、青いアイシャドーに囲まれていた。耳元には細い銀の輪っかのピアスが揺れ、黒いTシャツの肩はざっくりと開いている。これは、ギャル系の人だ、と思って口を開けたままフリーズしてしまった私に水谷さんは、バイトの子だよね、よろしく、と気さくな調子で言って、にっこりと笑ってくれた。私は緊張しながら挨拶をして、慌てて靴を脱いで、ホームに入った。
ホームでの初めての夜ご飯は、カレーライスとサラダだった。水谷さんが手際よくいろんなスパイスを入れたりしてカレーを煮ている間に、私は言われるがまま、サラダにする野菜を切った。
ホームの台所には、壁にくっつけるような形で奥行きの狭い木の棚が置かれていて、そこに調味料や調理器具がところ狭しと並んでいる。扉のついていない棚にそうやっていろんなものが置かれている台所が私には新鮮で、あれどこにあったかなあ、とか言いながらぱっぱっと道具や塩やコショウや見たことのない瓶の調味料とかを手に取っていく水谷さんの姿とぴったり合っていて素敵だと思った。
私は、家ではほとんど料理をしたことがない。家の台所は白色で統一されていて汚れひとつなく、母は調味料や道具類を見えるところに置いておくのが嫌いだと言って、全部仕舞って棚の扉を閉めてしまう。そうやって綺麗に整頓されてぴかぴかの白い扉が全部閉められた台所は平坦でつるんとしていて、何がどこにあるのか、どこを開けてよくてどこを開けてはいけないのか、私にはまったくわからない。
「あ、ゆきちゃん」
「は、はい」
「キュウリの細切りはね、最初ナナメに薄く切ってから細く切るといいよ」
こうやって、と言って、水谷さんはさくさくとキュウリを切った。出来上がったものは、細切りのどの一本にもちゃんと外側の緑色の部分がついていて、お店のサラダとかで見覚えのある、しっかりした細切りだった。私の切ったものは最初に縦みっつに切ってしまってからまっすぐ切って細くしようとしたから、いちばん真ん中は緑の皮の部分が全然ついていなくて、フニャフニャの頼りない線になってしまっている。水谷さんの言ったとおりにやってみると、私にも綺麗なキュウリの千切りができた。
そういえば、むかし一度だけ、母を手伝ってサラダを作ったことがあった。そのときも、私はこんなふうに不恰好な千切りを作って、それでは駄目、と叱られたのだった。母の機嫌が悪かったので、私は、どうやったら正しい千切りが出来るのか訊けなかった。
今、どうしたらちゃんとした千切りができるのか、やっとわかった。もう、これからちゃんと、千切りできる。誰にも恥じない、正しい千切りができるのだ。そう思ったら、一応注意されたはずなのに、私の頬っぺたは勝手に笑っていた。
「水谷さん」
「ん?」
「あの、あの、ありがとうございます」
水谷さんは一瞬きょとんとしたあと、大きな口を開けて、あはは、と笑った。
「たいしたことじゃないよ、っていうか、まあ別にどんな切り方したって食えるしねー」
夏休みの間、午前中から夕方まで図書館で本を読んだり宿題をしたりして、平日は夕方からアルバイトに行った。四時半過ぎにホームに行って、水谷さんを手伝って掃除をしたり、夕食の支度をする。五時すぎに利用者さんたちが帰ってきて、六時ぐらいに皆でご飯を食べる。
ホームすずらんには四人の利用者さんが暮らしている。男性二人、女性二人。食事を終えてもいつも居間にいるのは、ミキオさんという三十代ぐらいの男の人。もう一人のヒロシさんという人と、アイさんとケイさんという女性二人は、ご飯が済むとだいたい自分の部屋へすぐ戻っていく。部屋はちゃんと一人一室あって、決して広くはないけれど、どの部屋も置いてあるものが少ないからか、さっぱりして住みやすそうに見えた。
ご飯を食べ終えたら、手分けして後片付けをしながらお風呂のお湯を入れて、利用者さんたちに順番にお風呂に入ってもらう。
すずらんの利用者さんは、基本的には自分でちゃんとお風呂に入って身体を洗うこともできる。でも、やっぱり自分だけでは綺麗にしきれないところもあるから、週に一度ぐらいは、アイさんとケイさんは水谷さんが一緒に入る。ミキオさんとヒロシさんはというと、時々佐々木さんや他の男性スタッフが来て一緒に入るのだという。お風呂の順番は、ホワイトボードに日付を書いて、その下に名前を書いたマグネットが貼りつけてあり、一日ごとにローテーションしていく。一概には言えないけれど、知的障害のある人にとって予定は口で言うより目に見えるように書かれているのがずっと安心するのだそうだ。そして、予定が急に変わるのが苦手な人が多いから、お風呂の順番も滅多なことでは予定表から変わらない。
みんな、自分がお風呂を上がると、明日は一番、とか、二番、とか、口に出して確認してから、部屋に戻っていく。しばらくして九時少し前に一度台所に来て、薬を飲む。それぞれ飲む薬は違うけれど中身は睡眠薬や安定剤で、飲まなければうまく眠れないのだという。本で見たことのある、ハルシオン、とかの名前を見かけて、ドキッとした。
水谷さんのことは、すぐ私も、もえみさんと名前で呼ぶようになった。ゆきちゃんもたまにはアイさんかケイさんと一緒にお風呂入ったら、ともえみさんは言ったけれど、私はアイさんもケイさんも、まだあまり知らない人と一緒に入るのは嫌なんじゃないかなあ、と思って躊躇した。
お風呂の介助はホームすずらんより、ヘルプで入るホームひまわりの方で先にすることになった。その日は服を着たままお風呂場に入ったのだが、ハルカさんという年配の利用者さんは、やはり初めての人だから嫌だったのか、その日機嫌が悪かったのもあって、私は頭から水をかけられてTシャツが透けるほどびしょ濡れになった。結局まともに身体も洗ってもらえず、悔しくて涙が出た。
でも、その次の週にもう一度ひまわりに入ったときにはハルカさんの機嫌が良くて、お風呂で身体を洗うのは勿論、私も裸になってみたら一緒に浴槽にまで浸からせてくれた。ひまわりの利用者さんはハルカさんのほかにも比較的生活に手のかかる人が多く、最初の二、三回のうちに、お風呂で身体を洗うことも、トイレでお尻を拭くこともした。
自分でもびっくりするほど、そういうことに抵抗はまったくなかった。それよりも、最初は暴れて手も触れさせてくれなかったひとが一緒にお風呂に浸かって歌を歌ってくれたり、機嫌が悪いと暴れたり寝転がって起きないひとが、トイレで用を足したあとお尻を拭くあいだ丁度いい位置にお尻を出して動かずにいてくれたりしたことが、ただ嬉しくて誇らしかった。それが良いことなのかどうかはわからないけれど、アルバイトをする上では良いことなのだろうし、何より、何かをできた自分を誇れるということが私には今までほとんどなかったから、とにかく嬉しくて一生懸命だった。
今まで喧嘩の仲裁なんて一度もしたことがなかったのに、すずらんでアイさんとミキオさんが喧嘩しそうになったとき、間に入って話をして、気持ちを静めてもらうことができた。ヒロシさんと一緒に洗濯物を干して、タオルを両側から引っ張って、きちんと伸ばして干すことができた。利用者さんと同じように、私にもひとつずつできることが増えていっているような気持ちになった。家に帰ると十時近くになっていて、夕食は六時過ぎに済ませたあと何も食べずに眠ってしまうから、半月で二キロ痩せた。
お盆も過ぎた金曜日、夜九時を過ぎて帰り支度をしていると、もえみさんに声をかけられた。
「ゆきちゃん」
「はい」
「明日ひま?」
ホームすずらんの利用者のケイさんは、いつもなら毎週末は自宅で過ごす。でも、今週はご家族に用事があって、もう一日ホームに泊まることになったのだという。
「ひまだったら一緒にお出掛けしない?」
ボランティアになっちゃうから、ほんとに暇だったらでいいんだけど、と言うもえみさんに、行きます、と即答した。明日と明後日、図書館は蔵書点検で臨時休館だった。母は出掛けるかもしれないけれど、予定のない私は一日中家にいて、もし顔を合わせたらまた嫌味を言われるのかと思うと気が重くなっていたところだった。
「地下鉄乗って、ウィンモール行こうよ」
ウィンモールというのは、ホームのある地下鉄の沿線に数年前できたショッピングモールで、私はまだそこへ行ったことがなかった。
次の日、お昼過ぎにホームに着くと、もえみさんとケイさんと、佐々木さんと、ひまわりの利用者の田口さんという男の人がいた。四人で駅まで歩き、地下鉄に乗る。みんな定期券を持っているのを見て急いで切符を買いに行こうとした私を、もえみさんは、あ、ケイさんの定期あるからいいよ、と言って止めた。ケイさん、ヘルパーさん用の定期をゆきちゃんに渡して、ともえみさんが言うと、ケイさんは自分の定期入れの中から定期券を一枚出して渡してくれる。障害があって一人で通学や通勤するのに支障のある人は、ヘルパーさんの分も割引定期券というのを買うことができるのだという。
ケイさんは自分の定期で、私はケイさんから受け取った定期で改札を通る。もえみさんはこの路線が通勤経路なのだという。電車は休日のわりには空いていて、もともと無口なケイさんは黙ったまま電車に揺られていた。田口さんは駅に着くたびに小さな声でこそこそ電車のアナウンスの真似をして駅名を言い、それがあまりにも似ているので私は可笑しくてつい笑ってしまった。佐々木さんによると、田口さんは市内の普通電車と地下鉄の駅名を始点から終点まで順番で全部言えるらしい。
「電車の中で大声出して周りの人に迷惑かけないようにってね、普段から言ってるの、ちゃんと守ってるんだけど、どうしても好きで言いたくて仕方ないからの、このささやき声なの」
佐々木さんはいつも通りののんびりした声で言う。しばしの沈黙ののちケイさんが突然へへっと笑い、え、そのタイミング?ともえみさんが突っ込み、私はまた笑ってしまう。もう無口に戻ったケイさんが早くもうとうとし始めたところでモールの最寄り駅に着き、これまた土曜にしては空いていたウィンモールのフードコートでタコ焼きとポテトを買って皆で分けて食べ、少しだけウインドウショッピングをして、また電車に乗ってホームに戻った。もういつでも帰って大丈夫だよ、ともえみさんは言ってくれたけれど、私はケイさんのご家族が迎えに来るまで一緒に待たせてもらってから、家に帰った。
八月も終わりがみえてくるころ、夏から秋になっていくのをいちばん最初に感じるのは電車の中だと思う。外はまだじりじりと暑いのに、冷房の効いた車内に入った途端、体温が下がる速度が速くなる。二の腕が冷たくなって、薄手のカーディガンが欲しくなる。そこに窓から斜めに、盛夏より少しオレンジ色を増した太陽の光が差し込んできて、その部分が攻撃的な暑さを思わせるのと同時に、皮膚にほっとする暖かさを持つようになる。
そのうち電車は地上から地下へ潜り、外の景色を映していた窓が今は暗くなって車内の風景だけをぼんやりと映すのを見るともなく見ながら、ホームへ向かう電車に揺られていた。もうあと一週間ほどで、夏休みも終わる。
「すみません」
突然、近くで声がして、はっとした。話しかけてきたのは、若い男の人だった。私とそう変わらないぐらいの背丈だけど、たぶん年は少し上。黄色のポロシャツの裾をジーパンに入れて、青のキャップをかぶっていた。右手に定期入れを持って、左手で、私のすぐ隣の吊革を握っている。ぼうっと考えごとをしていて、すぐ近くまで人が移動してきたのに気付かなかった。
「え、はい」
「今何時ですか」
「え」
いわゆる変な人かな、やばいのかな、と思って、背中がぎゅっと強張った。でも、咄嗟にどうしたらいいかわからなくて、私は腕時計を見て、真面目に返事をした。
「え、よ、四時です」
「お姉さん車って知ってますか」
「え」
それとなく周りを見回すと、何人かの人がちらちらとこちらを見て眉を顰めたり、どうしよう、というような顔をしているのがわかった。
あ、これはほんとに変な人なんだ、絡まれてるんだ、無視するか、逃げなきゃ、と思ったけれど、その男の人はおそらく困った顔をしているであろう私の様子に全く構わず話しかけてきた。
「お姉さん車って知ってますか」
「え、」
「お姉さん車って乗ったことありますか」
「え、あの」
「お姉さんセックスって知ってますか」
「え、え」
「お姉さんセックスってしたことありますか」
次の駅で逃げるように電車を降りた。その人は、地下鉄がトンネルの暗闇の向こうへ行ってしまうまで、座席に座って首を巡らせてこちらを見ていた。
その人が握りしめていた定期入れに入っていたのは、このまえすずらんの皆で電車に乗ったとき、利用者さんが持っていたのと同じものだった。私がケイさんから一枚受け取って、改札に通したのと同じものだった。
その日は、本当は、ホームひまわりの方へ臨時で入る予定だった。でも、私は反対方向の地下鉄に乗り家に帰って、ぎりぎりの時間まで携帯電話と睨めっこをして、やっと、電話をかけるためのボタンを押した。
三コールと半分でホームひまわりの固定電話に出たのは、麻生さんの声だった。麻生さんの姿は確かに今日、図書館では見掛けなかった。けれどホームにいるとは思っていなくて、彼の声が聞こえたことに私はとても動揺した。
「あ、あの、佐々木さんは」
「ああ、ちょっと出かけてて、僕、今日休みでたまたま寄ったら留守番頼まれて……えっと、どうしましたか?」
「あの、……今日一日だけ、アルバイトをお休みさせていただけませんか」
「どうしたの、体調が悪いですか?」
「……、いえ、違うんです、でも、あの、……一日だけ、お願いします、次は、必ず行きます……申し訳、ありません」
「……、わかりました」
電話を切ったら涙が零れた。麻生さんは驚いたふうではあったけれど、決して責めたり、怒っているような声はしていなかったのに。
私は、行きたくないやりたくないと思うことでも、さぼったり休んでしまうことは苦手なのだ。学校も、昔やっていたいくつかの習い事も、どんなに嫌だと思うときでも、怠い身体と気持ちをむりやり起こして行っていた。一回休んでしまったら、もう二度と行けないような気がして。一回座り込んでしまったら、もう、二度と立ち上がれない気がして。
泣いたままベッドに倒れ込んで、いつのまにか眠っていた。一度目を開けたとき、窓の外はもう暗かった。汗をかいていたし、ひどく喉がかわいていたけれど、起き上がれずに、もう一度目を閉じた。
まどろんだり目を覚ましそうになったりしながら、長い長い長い、たくさんの夢を見た。そのどれもが何かできないことをやりなさいと指示され、できないと責められるという夢で、私は眠りながら、できないよ、できない、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も言って、ずっと泣いていた。
握りしめていた携帯が鳴ったのは、次の日の朝八時だった。画面には麻生さんの名前が表示されていて、私は咄嗟に起き上がって、通話ボタンを押した。
朝早くにすみません、と前置きをして、今日、水族館に行きませんか、と麻生さんは言った。
「でも、」
言った私の声は、ひどく鼻声で掠れていた。乾いた涙で顔が突っ張っている。
「遅い時間でもいいんです、高野さんの、準備ができたときからで」
「……でも」
「もし、体調が悪いのでなければ」
「……、」
「ウーパールーパーも、いるみたいですよ」
わかりました、と私は言った。そうしたら、カピカピになった頬をまた涙が一粒伝った。
出掛ける前に、ホームひまわりにもう一度電話をした。土曜日だけれど、この時間なら佐々木さんはまだホームにいるはずだった。携帯電話の番号は知らないから、ホームから帰ってしまったら来週まで連絡できないから、と言い聞かせて、ためらいそうになるのを振り切るようにして電話をかけた。
麻生さんは、佐々木さんには私が体調不良だと伝えてくれていたようで、電話口で怒ることもなく心配してくれた佐々木さんに、申し訳ありません、もう大丈夫です、と私は話した。
麻生さんとは、午後三時に現地集合で待ち合わせをした。地下鉄の終点にある駅から直通になっている水族館を訪れるのは数年ぶりのことだった。前に来たときはたしかまだ小学生で、家族と来たのだと思うけれど、よく思い出せなかった。水族館は夏休みの期間中だけ、特別に夜の八時まで営業しているのだという。
ウーパールーパーは館内へ入って間もなくの、小さい水槽が幾つか展示されている部屋にいた。
「図書館のあの子と、ちょっと違いますね」
「あ、そう、この子は」
「アルビノ、ですか」
「お、よく知っていますね」
「前に、図鑑で見ました」
麻生さんが働いている、私がよく行く図書館の待合室には、ウーパールーパーが一匹いる。図書館にいる子はリューシスティックという種類で、肌の色はどちらもピンクっぽい白なのだけれど、リューシスティックは目が黒いのに対して、アルビノは目も皮膚と同じ白っぽい色をしている。
ウーパールーパーのいる部屋を抜けると、天井まである大水槽の前に出た。大小さまざまの魚が目の前を横切っていく。
そういえば、私は小さいころ、この水槽が怖かった。奥の方が暗いのが怖かったのか、水がたくさんあるからこのガラスが割れたらどうしようと想像して怖かったのか、止まらず泳ぎ続ける大きい魚たちの虚ろな目が怖かったのか、そのどれもが理由であるような気も、どれも違うような気もした。
行き交う魚たちを眺めながら、しばらく小さな声で、取り留めのない話をした。麻生さんは、私の高校や普段のことを話せるようにいろいろ訊いてくれたけれど、私はそのどれにも、ぼんやりとした答えしか返せなかった。それでも彼は、うんうん、と頷いて話を聞いてくれた。
「進路とかいろいろ大変なのかな、でもまだ一年生だからそうでもないか」
「あ、でも、あります、進路調査とかは」
「ふうん、気が早いような気もするけどねえ……もう、決めているんですか?」
「いえ、……でも、大学には行く、と思います」
「そうなんだ」
「はい、母が、母は、その、高卒じゃなくて、大学に……公立の、レベルの高い大学に行きなさい、と言うんですけど、私は成績もよくない、し、やりたい勉強もあまりないので……ちょっと、不安で」
「そうかあ……僕は大学行ってないからなあ」
「そう、なんですか」
「高校は福祉学科だったし、専門学校卒だからね」
一応ね、すずらんとかで働けるような資格も持ってるのさ、手伝ってるのは無免許じゃないんだよん、と冗談めかして麻生さんは言った。図書館で働くための資格は、夏休みに他の大学へ講義を受けに行って取ったのだという。
将来はおろか、三年先すらまったく見えていない私には隣にいる人がとても眩しく、そして、人生には私が思いつくよりずっと、いろんな道のりがあるのかもしれない、と思った。
「昨日は、ごめんなさい、ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
それを言うのに、会ってから今まで時間がかかった。口にするのと同時に、きん、と小さく耳鳴りがした。
「大丈夫ですよ、でも、何かあったんですか」
「あ、」
「言いたくないなら、いいんです、本当に……怒ってるとかじゃなく」
「いえ、……話します」
私は麻生さんに、昨日電車であったことを話した。話し終えてしばらく、麻生さんは水槽のほうを向いたまま黙っていた。私も水槽のほうを向いて、少し顔を上に向けて、はるか頭上をたゆたっていくエイのお腹の部分を見た。エイのお腹は白く柔らかそうで、水面がチラリと反射して、眼球の奥がズキンと痛んだ。
「ウーパールーパーは、ネオテニーの生き物なんです」
随分長い時間が経ったように思えたあと、麻生さんが口を開いた。
「ネオテニー、
その電車で会った人が、高野さんにしたみたいに、と、麻生さんは静かに言った。その声色は、怒りも同情も悲しさもない、穏やかな声だった。ただ、ほんとうのことを言っている声だった。そんなことありません、とは到底言えなくて、私はただ、黙って頷いた。
「でも、その点に関して、障害者ということは免罪符にはならない。法的には、たとえば法廷で争うような事態になったときに量刑が軽くなるとかのそれには、なるかもしれません。でも、社会的には、ならないんです。それどころか、障害者はこういうことをする人だ、と一括りにして、思われてしまう。たとえば男だから、とか女だから、とか、さっきの、学歴が大学卒だから、高卒だから、とかね、そういうのよりもっと強く、障害者だから、というのは、社会的なカテゴリーなんです」
何も言えなかった。ほんとうのことを知っているひと、の言葉は、重かった。私が綺麗なことや繕うようなことをもし、いくら言っても、何にもならないと思った。
「嫌になったのなら、しばらくお休みしてもいいと思いますよ」
言った麻生さんの声は優しかった。決して見限られたり、怒られたりしているわけではないと、すぐわかった。それでも、
「嫌です」
「え」
「嫌なんです」
気付けば私はまた泣いていた。隣を通ったカップルの二人が、こちらを見て一瞬びっくりした顔をする。麻生さんの手が、背中にあった。静かに空調のきいた館内で、分厚い硝子に隔てられた薄青い水槽、暗い寒色の照明の中で、そこだけにじんわりと熱を感じた。
魚たちと、行き過ぎる人たちを驚かせないように、嗚咽しそうになるのを堪えて、できるだけ小さな声で喋った。
「せっかく、はじめたことを」
「うん」
「せっかく、私にもやっとひとつ、できそうなことが、……い、居てもいいところが、できたと思っていたんです」
「うん」
「だから、休みたくないし、辞めたくないし、逃げたくないんです」
そうですか、と麻生さんは言った。
「ゆきさんが辞めてしまうのは、僕も困りますね」
なかなか勤務しているところを見られる機会はないですが、頑張ってると聞きます、水谷さんも褒めてましたよ、と、麻生さんは言ってくれた。もしお世辞や励ましのための言葉だったとしても、それはすごく、とても、すごく、嬉しかった。
手の甲で涙を拭って、深呼吸をひとつする。目の前を、さっき頭上にいた大きなエイが今度はこちらに背中を見せて、ゆっくりと通り過ぎていった。背中はお腹の白さと対照的に、つやつやとして頑丈そうな褐色だった。
「あ」
「はい」
「初めて、名前で、名前を、呼ばれました」
「あ、……嫌でしたか」
「え、いえ、全然、嫌じゃなくて、あの」
「はい」
「珍しいなあと、思っただけです」
「うん、しれっと、呼んでみようかなと思って、呼んでみたんですが」
「あ」
「気付かれてしまいました」
「……、気付いてしまいました」
それから、私たちは最後まで展示を見て回ったあと、水族館の中にあるレストランでご飯を食べた。レストランの壁も水槽になっていて、小さな魚がたくさん泳いでいた。
麻生さんはクジラの形をしたオムライスを一口だけ残しておいて、水槽のすみっこにいるナマコを面白そうに眺めながら、ゆっくり食べてくださいね、と笑って言ってくれて、私は初めてお店で食べるご飯を全部、残さずに食べることができた。
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