アルビノの章(前編)

 長い梅雨が明けたのは、夏休みに入る一週間前だった。今年の梅雨は、雨がいきなりたくさん降ったり晴れの日が何日かあったり、そうして明けたのかなと思ったらまた雨がたくさん降ったり、なんだか迷っているような梅雨だった。

 空気が変な色になって大きな音で雷が鳴った次の日から、空はからんと晴れて暴力的なほどの太陽の光。ああ、こんなふうだったな、夏は、と、毎年のように思い出す、七月の真ん中。



 一学期の終業式が終わって、帰り道に図書館に行った。金曜日。カウンターには縁の細い眼鏡をかけたお姉さんが座っていて、本を返すときと借りるときと入り口の横にあるお手洗いに立ったとき、三回こっそり見たけれど、彼はいなかった。


 彼の名前は麻生あそうさんといった。麻生、史孝ふみたかさん。先月、駅で具合が悪くなってしまった私のことを助けてくれた人。その週の週末、いつものように図書館に行った私がお礼を言うより早く、話しかけてくれた。そのときに、首に掛けている名札を見せて、名前を教えてくれたのだった。私は慌てて鞄を探って、なぜか入っていた高校の生徒手帳を出して、自分の名前を麻生さんに見せた。よく考えれば、口で言うだけでじゅうぶん伝わったのだろうに。


高野たかのさん、ですか」

「そうです、高野、ゆきです」

「ゆき、は平仮名なんですね」

「はい、あの、とても簡単です」


 変なふうに言ってしまった、と思ったけれど、麻生さんは眼鏡の奥の目を三日月型にして、くっくっく、と声をひそめて可笑しそうに笑ってくれた。



 夏休みはいつもより図書館が混むので、それを思うと少しだけ向かう足が重くなった。それでも入り口を入ってすぐの右側にある待合室はいつもどおり閑散としていて、隅っこでウーパールーパーの棲む水槽のポンプがぽこぽこと小さな音を立てている、それを確認してほっとする。

 二階の自習室が空いているときは自習室で宿題をして、席が埋まっていたり、勉強に疲れたときには待合室に降りてきて、午後六時の閉館まで本を読んだ。並べられたソファーの一角、ウーパールーパーの前が私の定位置で、今のところ百発百中その席には座ることができた。

 待合室はウーパールーパーが生活するのに支障がない程度に涼しいとはいえ、自習室や閲覧室に比べると冷房が弱い。ごくたまに短いスカートやショートパンツを穿いた日は、合皮のソファーに汗をかいた太ももがぺたりと貼りつくような感覚があって、少し気持ち悪かった。それでも、そこは今のところ私にとって、他のどこよりも居心地のよい場所だった。


 麻生さんには、翌日の土曜日に会うことができた。返却する本にバーコードを通しながら、声を掛けてくれた。昨日はお休みだったんですか、と尋ねると、彼は頷いた。


「そうです、あ、昨日も来られたんですか?」

「はい、あの、いつもは、平日は、学校の……高校の、図書室に……でも、夏休みになったので、ここに」

「あ、そうか、高校はもう夏休みなんですね」


 いいですねえ、と、黒縁眼鏡の奥で目を細める。素敵な笑顔だなあ、と、素直に思う。本当に、素敵な人。


「はい、あ、あの、いつも平日は、図書館にはみえないんですか」

「あ、そういうわけじゃないんですよ、昨日はたまたま」


 ちょうどお昼どきだったからか、珍しくカウンターの周りに他のお客さんは一人もいなかった。少しぐらい会話をしていてもおそらく誰の迷惑にもなっていなかったし、もっと話をしたいと確かに私は思っているのに、すぐに黙ってしまう。麻生さんがふっと視線を逸らして、少し困ったような顔をした気がしたから、なおさら。

 そうして沈黙が、私の隣にいつもあるものが、また降りてきた。数秒ののち麻生さんは、そういえば、と言って、カウンターの上に置いてあったちらしを一枚取って渡してくれた。


「……明日なんですけど、これ、僕もここに居るんで……急だけど、もし、暇で、よかったら来てください」


 ちらしには、緑色の字で大きく「すずらん祭」と書いてあった。フランクフルト、焼きそば、バザー、といった文字がイラストと一緒に並んでいる。開催場所は、最寄り駅から電車とバスを乗り継いだところにある、臨海公園。いきなりだったのでびっくりして何と言おうか迷っている間に、幼稚園ぐらいの男の子が走ってきて、かりるー、と言って抱えていた絵本をぱたんとカウンターに置いた。後ろから追いかけてきたお母さんらしき女性が、こら、順番でしょ、と言ってその子をたしなめるのに、慌てて会釈をしてカウンターを離れた。



 何が本当のことかわかれば良いのに、と時々思う。対面している人が、私のことをどう思っていて、何を求めていて、そのひとに対して私は何を言えばいいのか、とか、そういうことを。でも、それがもしわかるようになってしまったら、誰かと面と向かい合うことが、今よりもっと怖くなってしまうのかもしれない。

 チラシをふたつに折り畳んで鞄に仕舞って、いつものように待合室で本を読んでから家に帰った。チラシは借りた本と本の間にまっすぐ挟んでいたはずなのに、どこかで緩んだのか家に帰って本を取り出してみると少しだけ紙が下に落ちていて、端っこが鞄の底に当たって斜めに曲がってしまっていた。部屋の学習机の椅子に座って、もう一度それを広げてみる。すずらん祭、という文字の横に、小さくすずらんの絵と、知的障がい者授産施設 すずらん園、と書いてあった。



 日曜日、私はお昼前に家を出て電車に乗った。駅まで歩く間にもう汗が止まらなくなるほど暑く、日傘をさしていても肌が焼けるような感覚がする。いつも行かないところで電車を降りるのは、少しわくわくした。バス停でバスを待ちながら、足もとを見る。ジーパンにスニーカーじゃなくて、サンダルで来れば良かったのかも。でも、サンダルの形に日焼けしてしまうから、やっぱりいいや、と思って顔を上げたら、眩しい水色の空に真っ白な入道雲がもこもこと上がっていた。

 バスはほどなく来た。一番前の窓側の一人掛けの席に座って、見ている景色は新鮮だった。私は嬉しくなってわくわくしながら、ちょっと緊張しながら、終点の臨海公園駅でバスを降りた。


 バス停のすぐ目の前が公園の入り口で、ちらしと同じ緑色の文字で「すずらん祭」と手描きされた看板が置いてある。奥の方に、小学校の運動会で使うような、金属の骨組みの上に布の屋根がついている形のテントがいくつか張られていて、その下や周りにぱらぱらと人が集まっているのがみえた。

 その中の、いちばん左側のテントの下に、彼はいた。声を掛けに行こうか迷っていたら、少し遠くに居たのに気付いてくれて、こちらまで歩いてきてくれた。


「本当に来てくれたんですね」


 ありがとうございます、えっと、と言って、麻生さんはまた一度ふっと目を逸らした。数秒間の、。強く照っていた日が一瞬、陰って足もとが暗くなった。


「あ、あの、ごめんなさい、すぐ帰ります、私」

「あ、いや、違うんです、全然」

「でも」

「本当に違うんです、高野さんが来てくれたのは、すごく嬉しいんです、でも」

 

 麻生さんは野球帽みたいなキャップをかぶっていて、額に大粒の汗をたくさんかいていた。ハンカチを差し出そうか迷って、でもさっきまで私が汗拭きに使っていたのを渡すのも、と思って咄嗟にポケットティッシュを差し出すと、麻生さんは、あ、ありがとうございます、と言って受け取ってくれて、やっと少しほっとした顔をしたようにみえた。

 麻生さんが居たテントの中では焼きそばを作っているようで、鉄板の熱ですごく暑そうだったけれど、とても美味しそうなソースの匂いがした。その隣のテントでは、大きな機械でかき氷を削っている。


「あの、本当に嬉しいんです、来てもらえて」

 

 折り畳んだままのティッシュで汗を拭きながら、真面目な顔で麻生さんは言った。さっき空と一緒に少し陰った気持ちが、ふっと楽になる。もう雲はどこかへ行って、強い日差しが地面を焼いていた。そんなふうにまで言ってもらえて、もう何も疑うことはない。ありがとうございます、と笑顔で言えた。


「あのね、兄のことを見たら、びっくりするかもしれません」


 ティッシュの残りを返してくれながら、麻生さんはそう言った。


「お兄さんも来ているんですか」

「うん」


 麻生さんはテントの下を指差した。


「あれが兄です」

「えっと」

「あれ、あの緑色のTシャツを着ている」


 緑色のTシャツを着ている男の人はすぐにわかった。そのひとが、いわゆる普通の人、と少し違うことも、すぐに。麻生さんのお兄さんは、頭を少し右側に傾けて前後に小刻みに揺れながら、視線は斜め上と下をせわしなく行き来させていた。すぐ隣にショートカットの小柄な女の人がいて、その人が手伝いながら鉄板のところで調理をしている。焼きそばの匂いがもう一度漂ってきて、くう、と小さくお腹が鳴った。


「あの」

「あ、はい」

「お腹が減ったので、焼きそばを買ってきてもいいですか」

「へ」


 麻生さんは一瞬きょとんとした顔をしたあと、目尻を下げてあはは、と笑って、どうぞ、ぜひ、と言ってくれた。


「というか僕、ご馳走しますから」

「え、いいです、買ってきます」

「でも、ぜひ」


 そんな話をしながらテントのところまで歩いて、結局、私は麻生さんに焼きそばとペットボトルのお茶をタダでご馳走になってしまった。麻生さんはお兄さんを呼んで、紹介してくれた。

 

「兄の、恒明つねあきです」

「こんにちは、はじめまして、高野です」


 頭を下げると、恒明さんは口を「あ」の形に開けたまま固まってしまう。でも、隣に立った女の人が声を掛けると頭を下げて、こんにちは、と言ってくれた。女の人は、すずらん園の職員の坂本です、と挨拶してくれた。


「高野です、あの」

「うん、麻生くんから聞いてるよ、図書館の常連さん」


 来てくれてありがとね、と言って、にこっと笑う。たぶん三十代ぐらいの人だけれど、短く切った前髪と、笑顔がすごく若々しかった。良かったらあっちで食べてきなよ、と、少し離れたところにある、椅子の並べられたテントを指す。そこでは何組かの家族連れや、エプロンをつけた職員さんと思しき人たちが食事をしていた。私はその隅っこで焼きそばを食べて、少しの間ぼうっとした。とても、いい天気。暑いけれど、業務用の大きな扇風機が回っていて、時折風がくる。調理スペースの近くにあるゴミ箱にごみを捨てに行くと、恒明さんと坂本さんはいなくて、麻生さんが一人で焼きそばを炒めていた。


「ごちそうさまでした」

「あ、ごめんね、一人で食べるの寂しくなかった?」

「いいんです一人のほうが」


 即答で言ってしまってから、あ、しまった、と思った。折角気遣ってくれたのに、感じの悪い言い方だったかもしれない。あの、食べるの遅いので、いいんです、と重ねて言うと、麻生さんは何てことないように、それならいいんだけど、と笑った。そこに、ごめんごめん、と言いながら坂本さんが戻ってくる。その横に恒明さんと、もう一人、利用者さんと思しき女の人も一緒だった。


「あれ、坂本さん、旦那さんと子どもさんいいんですか」


 麻生さんが尋ねると、坂本さんは、いいのいいの、と言って、ベンチのある木陰の方を指さす。


「ふたりであっちでかき氷食べてるよ」

「氷、盛況ですねー」

「暑いもんねー……あ、そうそう、それで新しい氷運ぶの手伝ってほしいって」

「じゃあ僕行って来ます」

「よろしくー」

「ここ一人で大丈夫ですか」

「うん、いいよー」


 じゃあ、と言って、麻生さんは入り口の方向へ歩いていく。


「あの、よければ私、手伝います」


 考えるより前に喋ってしまっていて、余計なことを言った、と思った。でも坂本さんは恒明さんに調理用の三角巾を着けてあげながら、え、マジで、と嬉しそうな顔をした。


「あ、でも油はねたりするかもだから……」


 言いかけて坂本さんは、私のスニーカーの足もとを見て、お、バッチリだ、と言って、白い歯を見せてまた笑った。

 私は余っていたエプロンを借りて、坂本さんと恒明さんとあともう一人、恒明さんと同じすずらん園の利用者さんだというカヨさんという女の人と一緒に、野菜を切ったりそれを鉄板のところまで運んだり、食事スペースのテーブルを拭いたり、一緒にお茶を飲みに行ったりした。来ている人はほとんど職員さんか利用者さんの知り合いのようだったけれど、私にも、こんにちは、とか、お疲れさま、とか挨拶をしてくれて、なんだか嬉しかった。

 氷を運んできた麻生さんが焼きそばのテントに戻ってきて、やることがなくなると、カヨさんと一緒に食事スペースに座って、坂本さんがふたりぶん買ってくれたかき氷を食べながら少し話をした。と言ってもカヨさんは言葉を殆ど発しないから、私がひとりごとのように、今日は暑いですね、とか、かき氷好きですか、とか、ぽつぽつと話し掛けてみるだけだったけれど。

 カヨさんはあっという間にかき氷を食べ終えると、私が鞄に入れていた折り畳みの日傘に興味があったようで、しきりに指さしていた。鞄から出して渡すとそれを開いて、そのままこちらに手渡す。少し迷って、傘を閉じると、また横からそれを取って開く。そして、また私の方へ。戸惑っていると、早く、と言うかのように手を差し出してくる。これ、楽しんでるのかも、と思って、もう一度。私が閉じてカヨさんが開いて、私が閉じてカヨさんが開いて、をひたすら繰り返していると、何となく周りに人が増えてきた。腕時計を見ると、午後二時半を過ぎたところ。ちらしには、お祭は午後三時までと書いてあった。終わりがけになって人が増えるのかな、と思っていると、坂本さんと、年配の女の人がこちらへやってきた。


「カヨさん、田中さん来たよー」


 坂本さんが言うと、カヨさんは開きかけていた折り畳み傘を勢いよく私に返して立ち上がった。田中さんと呼ばれた初老の女の人は、ヘルパーの田中です、と自己紹介をしてくれた。坂本さんに説明してもらったところによると、一人から数人に一名、田中さんのように、家から授産施設や作業所と呼ばれる職場、ときにはこういったイベントのある会場まで、利用者さんの送り迎えをする仕事をしている人がいるのだそうだ。殆ど、定年で仕事を辞めたり、結婚して主婦の人が、パートタイムでやっているのだという。

 周りを見ると、他の利用者さんたちもそれぞれヘルパーさんや家族らしい人たちが来ていて、家に帰るようだった。七月の午後三時は、まだまだ夕方にならない。何となく帰るのが惜しくて、私はこっそり職員の人たちに紛れて、片付けを少し手伝った。ボランティアの人も何人か残っていて、私もその一人だと思われたのか、テーブルの脚を畳んだりしていても誰にも不思議な顔をされない。それが何だか不思議な気持ちだった。


 テントの骨組みを積んだ軽トラックが走り去ると、職員とボランティアの人たちに一本ずつ缶ジュースが配られた。ジュースを取りに行っていたらしい麻生さんは、戻ってくると、私がまだいるのを見て、あれ、と驚いた顔をした。これ、余分あるからどうぞ、と言って、麻生さんは私にもオレンジジュースの缶を渡してくれた。

 後ろでは、お疲れさま、と挨拶を交わして三々五々みんな帰っていく。来たときに見た帰りのバスの時間までしばらくある、と思って立っていたら、いつの間にか麻生さんが隣にいた。


「高野さん、どうやって来られたんですか、ここまで」

 

 バスです、電車と、と答えると、じゃあ、と麻生さんは言った。

 

「よかったら駅まで送ります、たしかここのバス、あんまり本数ないし」



 麻生さんの車は、黒色の軽自動車だった。すみません狭くて、と彼は言ったけれど、助手席は広くて乗り心地がよかった。それでも普段、母以外の人の車に乗ることはほとんどないから、背中が少し緊張しているのが自分でわかる。車内はすぐに冷房がきいて、全身の汗が引いていった。


「今日はありがとう、結局丸一日手伝ってもらってしまって」

「いえ、私こそ、長く居てしまって」

「助かりました、実は今日、職員が一人体調不良で来られなくなってしまって、人手不足で」

「わ、私、何もしてませんけど」

「兄貴とか、利用者さんの話し相手になってもらっただけで助かりました、水分補給もできるように気を遣ってくれていたし」


 感謝の言葉をもらったことが気恥ずかしくて、窓の外に目をやった。少し空が曇ってきていて、そういえば、明日は雨の予報だった。強張っていた背中を意識して、少し緩めるようにしてみる。


「今日はどうでしたか、お祭り」

「楽しかったです」

「高野さん、兄貴みたいな知的障害の人と接したことあるんですか?」

「いえ、はじめてです」

「そうなんですね、何か、結構慣れた、っていうか、落ち着いた感じだったから」

「そんな……はじめてなんです、全然」

 

 麻生さんは、お兄さんや麻生さん自身のことやすずらん園のことを、少し話してくれた。麻生さんは二十六歳で、お兄さんの恒明さんは二歳違いの二十八歳。恒明さんは知的障害といって脳に障害を持っていて、養護学校の高等部を卒業してから幾つか同じような施設を転々としたあと、すずらん園で働くようになった。すずらん園では、布や粘土で小物を作って売ったり、割り箸の袋詰めとかの単純作業を委託してもらっているのだという。


「園の利用者さんたちは、仕事が終わると自分の家に帰る人もいるんですが、同じ法人でケアホームという施設を持っていて、平日はそこで共同生活をしている人もいるんですよ」

「ケアホーム……そんな、ところがあるんですね」

「そうなんです」

「知りませんでした」

「僕はご存知の通り、普段は全然違う仕事……図書館で働いてるんですけど、兄貴がすずらんのケアホームに入ってるんで、その縁で休みの日は事務仕事とか手伝ったり、たまにホームも手伝ったり、今日みたいにイベントがあると焼きそば焼いてたり、するんです」

「そうなんですね」


 そうなんです、ともう一度言って、麻生さんは車の冷房のスイッチを回してひとつ風を弱くした。車内には私の知らない男性ボーカルの曲が流れていて、母はいつも車に乗るとき音楽をかけないから、たったそれだけのことが私にはとても新鮮だった。


「高野さんは高校生なんでしたっけ」

「はい、高校一年です」


 そうか、若いねえ、と言って彼は笑う。


「高校生か……俺アルバイトばっかしてたなあ」

「あ、そうなんですか」

「うん、喫茶店とか写真屋とか、あと夏休みに野球場でビール売ったりとかね……高野さんもアルバイトとかしてるの、あ、でも、最近の高校はバイト禁止なのか」

「いえ、そういうわけじゃ……でも、私はしてないです」


 私の通う高校では、アルバイトは申請制になっている。といっても、校則で「経済的事情等により必要と認められた場合のみ」と書かれていて、認められる基準はそんなに厳しくはないらしいと聞いたことはあるけれど、よくわからない。なので、クラスの子たちはこっそりやっている子の方が多いと思う。

 私の場合は、経済的に困っているわけではないけれど、父と母が別居していて事実上母子家庭状態だということは入学当時から先生も知っているから、おそらく普通に申請すれば許可してもらえるだろう。でも、私はまだ一度もアルバイトをしたことがなかった。


「そっか、勉強とか忙しいよね……というか、まだ入学したばっかだしね」

「そう、なんです、……でも、でも、始めたいとは、思ってます」


 ひとつ、小さな嘘をついた。アルバイトを始めたいなんて思ったこともなかった。ただ、やりたくないわけじゃなくて、中学のときは特にずっと、早くアルバイトとか仕事をして自立したい、と、漠然と思っていた。勉強も運動もできなくて、母に叱られるたびに、そこから逃げるかのようにそう思っていた。睨まれたり嫌味を言われたりしながら、母の稼ぎでしか生活できない自分が悔しかった。

 高校に進学してから、もうアルバイトもできる年齢になったのに何もしていないことにずっと罪悪感に似た気持ちがある。それでも、たとえばアルバイト情報誌を見て電話をする、面接試験を受ける、お店でレジを打ったりお客さんと話したりする、そう考えたらもう道のりは遠すぎて、踏み出せもしないまま夏休みになってしまった。

 一瞬で胸のうちに広がったもやもやは、たぶん高校のときからバイトを頑張っていたという麻生さんにそんな自分を知られるのが嫌だったからで、気付いたらそう言っていた。


 麻生さんは安全運転で、車線の多い街なかの道路をすいすい走っていく。進行方向を見たまま、そういえば、と言った。


「高野さん、少し時間ありますか」

「へ」


 車のデジタル時計の文字を見ると、時刻は夕方五時ちょうど。今日、母は職場の人たちと食事会があるので遅くなると言っていた。あります、と答えると、じゃあ、と言って、麻生さんはウインカーをかちんと出して、右に曲がる車線に入った。


「手伝ってもらったお礼に、お茶飲んでいきませんか」

 

 一方通行の看板だらけの路地をゆっくり入っていった先の喫茶店は、静かで、木でできた動物のオブジェがテーブルにひとつずつ置いてあった。私たちが座ったテーブルには丸っこいシルエットの鳥がちょこんと座っていて、可愛いなあ、と思いながら、アイスティーを飲んだ。グラスには透かし模様で蔦のような葉っぱと、テーブルに置いてあるのと同じ鳥の模様があしらってある。

 麻生さんは、私のよりもう少し背の高いグラスに入ったアイスコーヒーを飲んでいた。水滴がふたつ側面を伝って、布でできたコースターに吸い込まれていった。からん、と氷が溶ける。綺麗な、透明な氷。透明な氷は、普通の氷よりゆっくりゆっくり凍らせないとできないと、小学生のころ図書室で読んだ本に書いてあった。麻生さんおすすめの桃のアイスティーはとてもいい香りで、ほんのりと甘くて美味しかった。


 喫茶店を出て、麻生さんは行きにバスに乗った駅まで私を送ってくれた。切符を買ってホームに行くとちょうど電車が来て、私はどこかふわふわした気持ちのまま、電車に乗って家に帰った。

 母はまだ帰っていなくて、家の中は熱がこもっている。部屋に行って、窓を開けた。扇風機を回して、ぱたんとベッドに倒れ込む。ほとんどテントの下か電車や車の中にいたはずなのに、鼻の頭が日焼けして熱をもっている。足がじんわりと重たい。目を閉じるとまぶたの裏も温かかった。沢山の人と話したのに気持ちは疲れていなくて、心地よい肉体的な疲れだった。



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