ウーパールーパーに関する考察

伴美砂都

リューシスティックの章

 ウーパールーパー。学名、Ambystoma mexicanum。和名、メキシコサラマンダー。名の通りメキシコ原産の、両生類、実は絶滅危惧種。日本では一九八〇年代に某インスタント食品のテレビコマーシャルに登場して一躍有名になり、その後も細々と、一部の水生生物マニアの中で愛されているとかなんとか。 

 知る人ぞ知るのかどうかわからないけれど、ウーパールーパーは大きく分けて五色いる。リューシスティック、アルビノ、ブラック、マーブル、ゴールデン。彼らのなかで一番有名なのは、皮膚はピンクに近い白色で目が黒の、リューシスティックという種類。顔の横にもさもさと生えているのは毛でも飾りでもなく酸素を取り込む器官、いわゆるエラ。ふにふにした柔らかそうな、少し皺の寄った頼りない皮膚に、腕力のなさそうな手足、何を考えているかわからない、つぶらな黒目だけの目玉。素人目には性別もわからないけど、どこか少年ぽい、口角がちょっと上がったように見える口もと。子供のようにも、老人のようにもみえる、不思議な生物。


 週末になると、図書館へ行く。自宅から歩いて十五分。図書館は煉瓦造りで、道路に面した駐車場の脇、四角く剪定された木の茂みの横を入り口まで少し歩く。自動扉とその周りの壁は一面マジックミラー、外側から見ると鏡張りになっていて、少し広くスペースが取ってあるので、部活動か友達同士なのか、そこに自分たちの姿を映して、ダンスの練習をしている光景がよく見られる。

 その隣を通り抜けて、自動ドアが開くまで、マジックミラーに映る私の姿はいつも、やけに頼りなくみえる。痩せているといえば聞こえは良いけれど、Tシャツの袖から出ている二の腕もスカートの裾から覗くふくらはぎも、ひょろんとして柔らかさも硬度も足りない、どっちつかずの身体。肩に掛けた鞄の、本の重さに負けてる。六月の梅雨の晴れ間、日差しがもうじりじりと熱い。日傘も帽子もせずに来てしまったから、首もとが少し日焼けして、頬が上気している。

 自動ドアが開くと、下のほうから冷たい空気が流れ出してくる。入り口から向かって左側に少し進むともうひとつ自動ドアがあり、その奥が図書閲覧室。右側の窓側には喫茶コーナー、その隣に、色あせたソファーがいくつか置かれた待合室。

 その隅に彼はいる。一匹だけなのに不釣り合いなほど大きな水槽の前面は緑に苔むして、しかしプラスチックのポンプがぽこぽことそこに酸素を供給している。近くに寄ると思ったより全然水は汚くなくて、きっと職員の誰かがちゃんと世話しているんだろう。

 待合室は、図書室や喫茶コーナーに比べて少し照明が暗い。窓に面していないし、天井についている蛍光灯の数が少ないのだ。さらに、水槽の真上あたりにある照明は、「あとちょっとで電球切れそうだけど、変えようかな、もうちょっとしてからかな、どうしようかな」という状態を、私が知る限りもう一年ぐらい保ち続けている。

 君がここにいることに気付いたのは春先のころだったかな。そっと横から水槽を覗いて、ぽやんとたゆたう白っぽい姿を確認する。あなたが何者なのか、ずっと気になっていたの。今日は、児童書のコーナーで図鑑を借りてきた。白い皮膚にちょっぴりの雀斑そばかす、黒い目をした彼は、アンビストマ・メキシカナム、リューシスティック。尻尾の先は、心なしか透けてる。



 休日に私が家に居ると、母は機嫌が悪くなる。何をさせても愚図だからイライラする、とか、あんたはまだこの歳にもなって、一緒に出掛けて遊ぶ友達もいないの、と。小さい頃からずっと同じセリフを言われているから、もう日常茶飯事になってしまっていて、反論できないのもいつものこと。

 だから週末はひとりで外に出る。喫茶店とか美術館とかのお金を使うような場所にはたまにしか行けないけれど、ありがたいことに近くに図書館がある限り、行く場所に困らない。その中でも少しだけ照度の低い待合室は、いつも閑散としている。閲覧室や自習室が混んでいるときでも、ここなら何時間居ても、誰の邪魔にもならない。


 私は、ときどき半透明になる。家でも、学校でも。気付くと、迷子になっていたり、奇数の人数で歩くとき、後ろにはみ出てしまったり。高校に上がってやっと、クラスの女の子たちからわざといないようにされたり聞こえるように痛い言葉を投げられたり、靴が行方不明になったりすることはなくなった、それでも。

 幼いころからずっと、通知表の連絡欄には、のんびりした子ですね、と書かれていた。もう少し、みんなのペースに合わせて行動できるとよいですね、と。ぼうっとして、注意力散漫であることは、自覚している。一生懸命急いで歩いても、前を行く「みんな」に追いつけないことも。望ましいのは、追いついていくべきである、ということも。そんなとき、ぽつんとひとり列から外れた後ろで、図書館の寂れた待合室の隅の、濁った水槽にいる彼のことを思う。ゆらゆらとたゆたう、孤独。口もとにわずかばかりの笑みを浮かべて、ほんとうの孤独を、君は知っている。彼となら、分かち合ってもらえるような気がしていた。人間と言語を共有しない君が、違うよ、とか言わないからっていい気になって、勝手にそう思っている。ごめんね、ウーパールーパー。君を見つける前は、私はあそこやここで、何を思っていたのか。今では、うまく思い出せない。



 日曜日、母と買い物に出た。明日は買い物に行くわよ、と、土曜の夜ご飯のときに宣言されたのだ。結局、毎回怒りながら帰って来る派目になるのだから、私じゃなくて、お友達とか、他の人と一緒に行けば良いのに。

 でも、母には理想があるのだと思う。しっかり者で快活な娘と、街へ出て楽しく買い物するという理想。その望みを、私はかなえられない。人混みはどうしたって苦手だし、お店に行っても早くしなさいと言われては慌てて、いろいろなものにぶつかったり落っことしたりして店員さんに迷惑をかけるし、ご飯を食べるのも遅い。理想をかなえられなくて、期待外れの娘で、ごめんね、ごめんなさい、と、いつも思っている。ごめんなさいと思ったところで歩くのが速くなれるわけでもなく、お店のご飯はいつも半分ぐらいしか食べられずに席を立ってしまう。


 空は晴れて、もう夏のような陽射し。駅もショッピングモールもすごい人で、高いヒールの靴なのに器用に間を縫ってどんどん歩いていく母に、ついていくので精一杯だった。案の定、改札の前の雑踏で、私は母を見失った。すれ違ったひととぶつかりそうになって、避けた拍子に帽子を落としてしまって、拾おうとする間に。

 待って、と言おうとしたけれど、たぶん声には出ていなかった。どうしよう、と思って、転がった帽子を追いかけた。追いかけて途中で、お母さんが行っちゃう、と思って、振り返った。母の姿は見えず、あ、帽子がどっか行っちゃう、と思って、今度はそちらを向いて。あっちとこっちを何度も振り返って、その間にも立ち止まる私を避けたりたまに避けきれなかったりしながら、沢山の人が通り過ぎて行った。

 お気に入りの帽子は幸いなことにすみっこに落ちて、踏まれたりはしていなくて、ここからたった一メートルむこうにあったけれど、動けなくて、拾えなかった。胸と胃のあたりがぎゅうううっと苦しくなって、気付いたらその場にしゃがみ込んでいた。ああ、駄目だ、立ち上がらなくては。また、怒られてしまう。見えなくなって、消えてしまう。いなくなってしまう。どうして、いつもちゃんとできないんだろう。私だって、ここにいるはずなのに。置いて行かないで、みんな。置いて行かないで。


 ひとりでいるのが好きなのは、本当だけど、全部は本当じゃない。会話をうまく交わせなくて黙ってしまうとかそういうことで、誰かと一緒にいることでの、お互いの気詰まりさを拭いきれないから。だから、ひとりでいる方が楽、というだけ。

 本当は、誰かと一緒に居たいのだ。誰かと一緒にいて、よどみなく喋って、屈託なく笑って、居たいのだ。でも、その誰かがいったい誰なのか、誰となら楽にいられるのか、私にはまだわからない。十六歳なんて、そんなものなのかもしれない。でも大人になったとして、もっとちゃんとできるものなのかな?誰もいないときの孤独より、誰かといるときの孤独のほうがもっと孤独。そう思うのは、私がこれまで、ほんとうに誰もいないときの孤独を知らない、ぬるい日々を生きてきたからなのかな?

 鳩尾みぞおちのあたりが刺されたように痛くて、息ができなくて、涙が零れた。最近、こうなることの頻度が増えてきているような気がする。以前は、お腹が痛くなるとかトイレに行きたくなるとか、そんな感じだったけれど。どちらにしても、遅れたくないという焦りからそうなっているだろうことはわかるのに、そうなることで余計に遅れてしまうのだ。不便なこと。

 私が泣くのも母は嫌う。本当に、あとで叱られてしまう。いい加減にして、これ以上、私をイライラさせないで、と、何度言われたことだろうか。それでも、追いつきたい。追いついて、苛立ったり見えなくなったりされないで普通に、並んで歩いて、話ができるようになりたかった。母と、友達と、誰かと、そうなりたくて、まだ、なれない。


「だいじょうぶですか」


 背中に手をかけられて、顔を上げた。黒の太い縁の眼鏡、紺のシャツ。若い、男のひとだった。知らないひとに触れられている、と思ったけれど、嫌な感じはしなかった。だいじょうぶです、と言いたかったけれど声が出なくて、すぐ下を向いてしまって、嗚咽が漏れた。

 病院に行きますか、と訊かれて、そうか私は病気にみえるのか、と思って、それは違います、ということだけ、何とか言葉にした。身体に異常はありません、よく、こうなるのでわかります、しばらくしたらなおります、と。青いスニーカーの足もとがみえる。歩きやすそうな靴。


「だいじょうぶですよ」


 今度は断定された。だいじょうぶなのか、と思ったら少し安心して、わかりました、ということをこのひとに伝えねばと思って、私は涙をぼろぼろ出しながら、懸命に頷いた。いくつもの脚が、座り込んだ顔の横をぎりぎり避けて通って行く。

 声を掛けてくれたひとは、私と一緒くたに、邪魔だ、と思われているかもしれないのに、堂々と隣にしゃがんでいてくれて、しばらくして立てるようになるぐらいまで回復すると、近くのベンチまで連れて行ってくれた。何時の間にか帽子を拾ってくれていて、俯いていた私の頭にぽこんと置いてくれて、そうしてもらってやっと、その陰からこっそりそちらを伺う。よくよく見たら、彼は全然、知らないひとではなかった。


「図書館のひと、ですか」

「あ、よくわかりましたね」

「あの、そちらこそ」

「毎週通われてますから、知ってました」

「そう、ですか」

「ああ、でも、貴女はあまり僕たちの顔を見ないので、外で会ったらわからないだろうなと思っていました」

「あ、違うんです」

「うん?」

「違う、あの、顔を見ないのは、目が、斜視なので」

「ああ、言われてみれば、確かに少し、そうですね」

「そう、なので、あまりこれで、人の顔を見るのは、良くないと」

「僕はあまり気になりませんが」

「……そうですか」


 沈黙が降りた。ありがとうございます、ごめんなさい、なぜ助けてくれたのですか、嬉しかったです、とか。頭の中でだけ回って、いつのまにか、消えていく言葉の数々。


「まだ苦しいですか?」


 先に、喋ってくれた。ほんの少し、おなかの上のほうに、しこりのような痛みが残っていた。それでも、いいえ、と首を横に振る。きっと、もうすぐ直ると思えた。


「あのウーパールーパーは僕が持って行ったんです」

「え」

「なんか友達がモンゴルに旅に出るからとか言い出して、いきなりもらったんですけど、一人暮らしなんで、夏とか、冷房つけっぱなしにもできないし、家空けてる間に茹だっちゃうんじゃないかと思って」

「え、でも、あそこは暑くならないんですか」

「開館時間中は空調がかかっているし、そうでなくても、陰になっていて窓から離れているから」


 それに、あそこはもともと他の魚を飼っていた水槽だから、エアレーションとかファン、水温を下げるために空気を送り込んだりするものなんですが、そういうのもついているんです。実はハイスペックなんですよ、と、彼は淡々と、でも少し嬉しそうに言った。


「そう、なんですか」

「うん、そう」

「あの」

「はい」

「私が、ウーパールーパーのこと知ってる、と」

「ええ」

「知っていたんですか」


 あ、と言って、そこで彼は黙った。私も黙ったまま、しばらく、続きの言葉を待っていた。その間に右目の縁に残った水滴を拭って、それで涙はやっと止まった。息を深く吸うと、少しだけ喉の奥が震えた。


「えっと、はい、知っていました」

「そうなんですか」

「そうなんです」


 ぶー、ぶー、と、かばんの中で携帯電話が鳴いた。母から、三回も着信が入っていた。おそらく、というか、間違いなく怒られると思ったけれど、涙も乾いたし、立ち上がっていかなきゃ。


「母が、電話が、来ているので行きます」


 助けてくれて、ありがとうございました。と、今度はちゃんと言うことができた。彼が大きく頷いてくれたので、自分が言ったことが受け止めてもらえたように思って、すごく安心した。


「また図書館に来てください」

「あ、行きます、あの、たぶん、というか、絶対、というか、むしろ来週も行きます」

「楽しみにしています」


 そうか、楽しみにしてくれるのか、と思ったら、ふっと頬が緩んだ。水槽の隅で微笑むあの角度、と思って、私は口角を上げて笑っていた。


「あの」


 呼び止められて振り返った。彼もベンチから立ち上がって、まっすぐに、こちらを見ていた。そうされたら、私もまっすぐに見ないと失礼な気がして、帽子を少し後ろにずらして、視線を定めにくい目で、それでも、いちばんまっすぐに近い角度で、なんとか目を合わせることに成功した。


「これから、きっと、生きやすくなります」

「え」

「だいじょうぶですよ」

「……、そうでしょうか?」

「はい、だいじょうぶです」


 その言葉はとても唐突であったけれど、生きやすい、という言葉は、とても優しいなと思った。図書館のカウンターの向こうとこっちで見かけるだけの私に、真面目な顔をしてそう言ってくれる彼も。優しい、あの、リューシスティックの黒い瞳のよう。後ろから、まだ見ていてくれるとわかったから、背中を伸ばして、今度は帽子が飛ばないようにぎゅっと押さえて、まっすぐ、改札へ向かった。


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