第400話 令和4年5月10日(火)「駆け落ちの結末」湯川湊
『出国の準備が整いました。
いきなりそんな風に言われても思考が追いつかない。
「何をどうすればそんなことができるの?」
ようやく絞り出すように私は声を出す。
それが彼女への回答ではなく質問になってしまったのは衝撃の大きさゆえだった。
家格はそれほど高くはないとはいえ、いまの鹿法院の影響力は絶大だ。
一国の総理の首をすげ替えることさえ容易だなんて噂を聞いたことがある。
生徒会長である日野さんがただ者ではないと分かっていても、彼女に鹿法院を止める力があるとは思えない。
『鹿法院家の長女が4月から臨玲高校に進学します。その保護者として連絡が簡単に取れたことは幸いでした』
スマートフォンから聞こえる声は何でもないことを話している様子だった。
一般人と我々との間に、鹿法院に対するイメージの違いは相当あるのだろう。
日野さんを一般人に含めていいのかどうかは検討が必要だと思うが……。
『臨玲高校に在学中の生徒に手を出さないよう誠心誠意お願いしたところ了承していただきました。事後承諾になってしまいますが、そういった理由から湯川さんにはあと1年在学してもらいます』
「はあ?」と大声を出したのは隣りで聞いていた暁だった。
『榎本さんは推薦入学が決まっていますので卒業済みです。大学でのご活躍を期待しています。臨玲の評価を高めるためにも』と日野さんは先手を打つ。
「それってつまり、海外に出るのは
『行くのは構いませんが、就労ビザがなく生活基盤もないというのではただの旅行です。湯川さんはお母様が海外在住と伺っていますので対処が可能かもしれませんが』
正論で質されて暁は表情を歪める。
電話だったから良かったものの、こんな顔を後輩に見せたくはないだろう。
「……湊のパートナーだぞ」と苦し紛れの理由を挙げるが、『潜伏している間に今後について考える時間は十分にあったと思いますが、具体的な計画は岡本会長代行の下に届いていないと聞いています』と手厳しい指摘が返って来た。
私も「それは……」と言い掛けるが言葉が続かない。
諦めの気持ちが半ばだったし、海外に出ればなんとかなると甘く考えていた。
『湯川さんは日本に戻ってからの6年間のうちに勉強よりもほかにやるべきことがあったと思います。しかし、それを問い詰めても状況は変わりません。いまはこれからどうするかを早急に決める必要があります』
「日野! 先輩にそんなことを言っていいと思っているのか。湊がこれまでどんな思いをしてきたか知らないくせに」
「暁、もういいから……」
臨玲高校での3年間、暁は私をずっと支えてくれた。
それがどれほどありがたかったことか。
だが、私はたぶんそれに甘えていた。
現実から目を背け、海外に逃げさえすればという期待だけを夢見て過ごしてしまった。
暁が助けてくれたらなんとかなるとそう信じていた。
「タイムリミットが1年伸びたというだけなんだよね?」と私は確認する。
『1年もあれば何だってできますよ』と日野さんは簡単に言う。
未成年の間の6年間ではほとんど何もできなかった。
妾にさせられると聞いてからの1ヶ月間は監視下に置かれて何もさせてもらえなかった。
学校を出たら鹿法院のところに連れて行かれると理解した数時間、あの時初めて岡本さんを頼るという正しい判断ができた。
いま何が最善なのか。
何をすれば後悔せずに済むのか。
今度選択を間違えたら、最悪の事態が待ち構えているはずだ。
「……ごめん。最低だと軽蔑されるだろうけど、私じゃどうしたらいいか分からないの。お願い。教えて……教えてください」
暁の目の前でこんなことは言いたくなかった。
こんな惨めな自分をさらしたくなかった。
境遇の酷さを暁やゆかり以外に隠してきたのも同情されたくなかったからだ。
名家の出身で、ヨーロッパで育ち、学業は優秀。
クールで、何でも軽々とやってのけると思われることが心の支えだったのだ。
しかし、いま取り繕っていては待つのは地獄だ。
「……湊」
『そうですね。選択肢はいろいろあります。例えば、一生日本に戻らないと覚悟を決めて海外で生活する。母親の支援次第では可能でしょう。ただし、母親は娘を分家の人々に引き渡してからはほとんど連絡を取っていないと聞いています。支援があると考えるのは楽観的過ぎるのかもしれません』
これまで考えないようにしていたことを日野さんは平然と口にする。
私は唇を噛み締めながらそれを聞いていた。
『あなたを食い物にした分家の人々に復讐がしたいのであれば、鹿法院の妾になり彼の力を使って果たすということもできるでしょう』
「それは……嫌よ……」
『そうですか。ならば、自分自身で闘う覚悟が必要です。海外に行くにしても、日本に残るにしても、自ら行動しなくてはなりません。誰かの助けを待つのではなく、目的のために手を借りるのです』
「……手を借りる?」
『漠然と助けてと言われても周りは動いてくれません。ちょっとした見返りと具体的なお願いがあれば意外と人は手を貸してくれます。クラウドファインディングが結構うまく行くのも人のそういう性質を利用しているからでしょう』
私は暁を見る。
彼女は幻滅しただろうか。
「考えることは苦手だからって、応援するだけであとはすべて湊に任せてきた。もっとちゃんと一緒に考えれば良かったっていまは思ってる」
「……暁」
「それはそれとして日野には言いたいことがあるけどな」
その呟きは聞かなかったことにして、私は「暁と一緒なら闘えると思う。だから、日本に残る」と日野さんに伝える。
それは逃げ出すことしか考えていなかった自分との決別だ。
『闘うには武器が必要です。湯川さんの場合、法律を勉強すると良いでしょう』
彼女はそう言うとこちらの返答も聞かずに具体的な勉強法を話し始めた。
さらに、『4月から鎌倉にある法律事務所のアルバイトを始めてください』とまで言い出した。
話はついているという手回しの良さに唖然とするほかない。
日野さんとの話し合いが終わったあと、私は暁の家で暮らすこととなった。
彼女の家は鎌倉の中でも著名なお寺だ。
その敷地内にある質素な木造建築が彼女が家族と生活している住居だった。
「こうでもしねえと『駆け落ち』は何だったんだってなるだろ」
「でも、本当に良いの?」
「親父とお袋に事情を説明したら幸せにしろよって言われたしな」
「それって……」
「うちは家族が多いから家事は結構大変だ。お嬢様にそういうことをさせるのはどうかと思うんだけど、ここに住むからにはしっかりやってもらうって言われてさ。悪ぃな」
片手を挙げて謝る暁に私は首を横に振って答える。
ヨーロッパで母と暮らしていた時は自分のことは自分でやっていた。
それが通用するかどうかは分からないが、身につけておいて損はしないだろう。
それからあっという間に1ヶ月以上が経過した。
法律の勉強、家事、アルバイト、どれも決して楽ではないが新鮮な気持ちで取り組むことができている。
鹿法院との企てが一時的に頓挫したことで分家の間に目立った動きは出ていない。
財産をすべて放棄するなら海外脱出を手助けしてやるという人間もいるくらいなので分家の連中も一枚岩ではないと分かる。
人生で初めてもらったお給料は暁へのプレゼントと、母の日の贈り物に消えた。
そう、あれから母の消息を知るためにヨーロッパ時代の知り合いと連絡を取っていたのだ。
母はあちこちを転々と移りながら相変わらずの暮らしを続けているようだ。
大きなコンサートに出るような一流のピアニストではないが、どこでも誰とでも溶け込むことができる人だった。
『湊。プレゼント、ありがとう。嬉しいわ』
突然の電話に私は「ママ……」と言ったきり言葉を失う。
頭の中ではふたりで暮らした日々が鮮明に蘇る。
狭いアパートメントで身を寄り添って暖を取ったこと。
もの凄いパーティーに出席し母のピアノで会場が盛り上がったこと。
野宿したこと、知らない雑貨屋に1週間も預けられたこと、豪邸に毎日友人知人が集まって飲み食いしていたこと等々。
思い出しても仕方がないと封印していた記憶が次から次へと出て来る。
嫌な思い出すら甘い記憶になっている。
『でもね、贈るのならお金にして。こっちは戦争のせいで物価が上がって大変なのよ。湊は良い暮らしをしているんでしょ』
冷や水を浴びせかけられた気がした。
しかし、思い返せば母はこんな人だ。
小さな娘を連れて自由奔放に暮らす。
娘のことを考えていたならできるはずがない。
湊さえいれば幸せだとよく語り掛けてくれたのに、あっさりと私を手放した。
いま私がいなくて寂しいかどうか尋ねても答えは分かり切っている。
「私はこっちで頑張って生きていくね」
自分なりに重大な決意を込めたセリフだったが、母は『そんなことより最近”髭もじゃのアル”が結婚してくれってうるさいのよ。湊も知ってるでしょ? あの成金オヤジ』と近況とも愚痴ともとれる話をし始める。
現実とはこんなものなのだろう。
私は過去を美化しすぎていた。
そこに暁が大学から帰ってきた。
私が小声で「母」とスマートフォンを指差して伝えると、「おおっ! やっぱり挨拶しなきゃマズいか」と彼女は騒ぎ出す。
湊を母に紹介したらどんな反応をするだろう。
そう考えると気持ちがふんわりと軽くなっていく。
「湊さんを一生幸せにしますから」とカチコチに緊張した暁が甲高い声で言った。
そんな暁を見ることができただけで私は今日という日を永遠に忘れないだろう。
††††† 登場人物紹介 †††††
湯川
榎本
日野可恋・・・臨玲高校2年生。生徒会長兼臨玲理事を務める。生徒会は生徒を守るものという理念に沿って行動したが、それとは別の思惑もあった。
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