第393話 令和4年5月3日(火)「ライブコンサート」依田こゆき
ピアノを弾いている時、楽器の一部になったようにわたしは感じる。
この感覚はほかでは決して味わえない。
楽しいという言葉が陳腐に思えるほどわたしは魅了されている。
気がつけば疲労困憊で腕も上がらないなんて日常茶飯事だ。
それほどピアノを弾くことが好きなわたしだが、人前で弾くことはあまり好きではなかった。
もちろん褒めてもらえたら嬉しい。
しかし、聴いた人がどう思ったかなんて正直どうでもいいことだ。
そう思っているのにピアノの前を離れると他人の視線が気になる臆病者になってしまう。
できることなら山里にある自宅で一生涯思うがままにピアノを弾いて暮らしていきたい。
そんな夢想を中学時代はよくしていた。
両親はわたしに負担を掛けないように温かく見守っていて、こうしなさいと言ってくることは稀だ。
学校への送り迎えを始め、わたしのピアノに対して献身的に協力してくれる。
ありがたいと思いつつも、その期待に応えなくてはというプレッシャーがあった。
先生もいつもニコニコとわたしのやる気を引き出してくれる優しい人だけれど、コンクールが近づくとその笑顔すら見るのが辛くなることもあった。
「お待たせ!」
吹奏楽部のコンマスが舞台の上でマイクを手に持ち堂々と観衆に呼び掛ける。
その落ち着き振りからわたしよりも遥かに舞台慣れしていると分かる。
「全国金賞の演奏をタダで聴けるんだから感謝するんだ。鎌倉をジャズで染め上げるぞ!」
ハイテンションでそう叫ぶと彼女はマイクをスタンドに取り付け、サックスを握る。
合図とともにドラムがカウントを取り始め、いよいよ1曲目がスタートした。
瑠菜先輩が頑張ってくれたお蔭か観客席はほぼ埋まっている状態だ。
グラウンドに会場を設営したので天候が心配だったが、今日は一日好天に恵まれた。
気温もちょうど良い感じで、絶好のコンサート日和と言えるのではないか。
ふたりのサックスが会場に鳴り響く。
先ほどまでの軽音バンドとは曲調がガラリと変わったので観客がついてこられるか心配だったが、演奏しているうちに舞台の外のことは気にならなくなった。
「どう? ジャズも良いだろ? 最高だろ?」
1曲目が終わって再びコンマスによるトークの時間だ。
後方のドラムに座る部長から「キャラがおかしいだろ!」とツッコミが入る。
それに対して「
観客の反応はさっぱりだったけど……。
「次はピアノが主役の曲。演奏するのは高女1年の依田こゆき!」
コンマスはサラリと切り換えて次の曲へ移る。
わたしは一度立ってペコリと一礼した。
「プロを目指す逸材だから名前を覚えておくように。あ、ジャズだけだともったいないからクラシックのピアノ曲を1曲入れようか?」
突然そんなことを言い出したコンマスはさらに「『ヴェクサシオン』なんてどう?」と無茶振りする。
わたしが「それ、18時間の曲なんですけど」と答えると、「ここで見守っていてあげるから」と笑った。
わたしはピアノの前に着席し、息を整えるとおもむろに演奏を始める。
コンマスは驚いた顔で「えっ、こゆきちゃん?」と駆け寄ってくる。
その慌てぶりにわたしは手を止め、「本当に『ヴェクサシオン』でしたよ。弾けるのは最初のこれくらいだけですけど」と親指と人差し指の間に数ミリの空間を作って説明する。
「打ち合わせなしで慌てさせるつもりが、返り討ちに遭っちゃったぜ」とコンマスは大げさな仕草で嘆いて観客の笑いを誘った。
「巻きの指示を出されたから次の曲に行くぞ!」
ジャズっぽくない振りから演奏が始まる。
わたしはリラックスして曲に入ることができた。
吹奏楽部の3人と息を合わせられるかどうか不安だったものの、わたしが無理して合わせるのではなく3人に合わせてもらうという気持ちに切り換えた。
それだけの音楽の才能を持っている人たちだ。
信じて、わたしはわたしの演奏をしよう。
「こゆきちゃん、素敵な演奏をありがとう! ついでにほかのメンバーも紹介するぜ」
もっと弾いていたかったのに。
わたしがメインの曲が終わった。
いままで経験したことのないバンドでの演奏はとても刺激的だった。
それがもうすぐ終わってしまう。
名残惜しい気持ちに浸るわたしを置き去りにしてライブは進行していく。
「そして最後の曲にはスペシャルゲスト! なんと第2部で登場するバンド『ピンキー・サマーソルト』のメインボーカルであるエフさんが歌ってくれるよ」
「「「「「おおー!」」」」」
地鳴りのような歓声が起きた。
エフさんが登場するとさらに大きな地響き。
本当に地震が起きたと錯覚するような揺れを感じた。
クラシックのコンサートやコンクールでは絶対に起きないものだろう。
観客はそれまでただの人の集まりに過ぎなかった。
それがエフさんの前だと熱気を帯びた存在へと変容する。
わたしは唖然とした表情で「何、これ」と呟いた。
「こゆきちゃん」とコンマスから名前を呼ばれて我に返る。
文化祭でリベンジしようって言われたけど、このメンバーで最後となるかもしれない曲だ。
ボーカルが入ることでピアノは脇役に回る。
それでも悔いのないように演奏しなければ。
エフさんへのゲスト参加の依頼はかなり急なことだったのに快く引き受けてもらったと聞いている。
合わせたのも本番前のリハーサルで1回だけ。
しかし、感情の籠もったジャズにピッタリの歌だった。
人の心を揺さぶる歌。
それは観客の様子からも分かった。
……こんな風になるんだ。
歌い手、演奏者、観客の一体感。
それはわたしがピアノを弾いて没頭する境地を集団で共有するような感覚だった。
心がひとつになる。
いまこの瞬間この場にいる全員が同じ気持ちになっているんじゃないか。
そう感じるほどすべてが渾然一体となって溶け合っていくように思えた。
「最高だよー!」とエフさんが叫ぶ。
それに応えるように観客席が蠢く。
舞台の上に立つことは何度も経験した。
だが、今日のこの心地よさは初めて味わった。
舞台から降りる。
エフさんは簡単な挨拶を済ますと自分のバンドの準備のために慌ただしく戻って行った。
それを見送ったわたしたち4人はなかなか言葉がでなかった。
吹奏楽部の3人にとっても貴重な体験だったのかもしれない。
わたしは思い切って口を開く。
3人に向かって「ピアノでもあんな風に人の心を動かせますか?」と。
「できるよ」とコンマスが即答し、ほかのふたりはハッとした表情で彼女を見つめた。
「それが音楽の力だよ。我々がそれを信じないでどうする?」
コンマスのその言葉は決意に満ちていた。
††††† 登場人物紹介 †††††
コンマス・・・高女の3年生。吹奏楽部。女子だから本当はコンミス。吹奏楽部ではフルート担当だがサックスの腕も一流。
部長・・・高女の3年生。吹奏楽部ではパーカッション担当。
"逸材"・・・高女の2年生。吹奏楽部。サックス奏者。部内でも屈指の才能の持ち主でこのバンドのメンバーに半ば強引に選ばれた。
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