第389話 令和4年4月29日(金)「日本選手権」和泉真樹

 昨日から競泳の日本選手権が始まりました。

 すでに2年後のパリオリンピックに向けた戦いはスタートしています。

 高校生になったばかりのわたしにとっても重要な戦いの舞台です。


「真樹ちゃん、久しぶり~」


 久しぶりといっても3月に東京で代表選考会があり、ほとんどの選手とはその時以来の再会となります。

 全年齢の大会ではわたしと同じ歳の選手はまだ少なく、顔を合わせるとこうして挨拶をして情報交換するのがいつものことです。

 今回の舞台は横浜。

 まさに地元開催なだけにいつもより気合が入るとともに、地方から来た競泳仲間にお勧めの観光スポットを教える役割もあったりするのです。


「横浜と言えば中華街かなぁ。あと、最近できたスイーツのお店で……」


 試合前とはいえ、いまから緊張していたのでは疲れ果ててしまいます。

 基本的に、午前中に予選があって午後に決勝やB決勝が行われますので、メリハリをつけることは大切なのです。

 もちろん中には常にピリピリしている人や独りで集中を保つ人など様々なタイプがいます。

 しかし、わたしたちはこの場でいちばん歳下であるため、お姉様方のキツい視線――本人は意図したものではなくても、わたしたちはそう受け止めてしまう――から逃れるためにも身を寄せ合っている状況なのでした。

 周囲からは和気あいあいとリラックスしているように見えたでしょうが。


 あとは「○○ちゃん、東京の学校に進学したんだって」だとか「××ちゃん、最近大会に出てないよね」といったライバルたちの動向に関する噂話に盛り上がります。

 特に世界大会に出ると国内の同世代の競泳選手はライバルという以上に仲間意識が強まります。

 他国の選手とも仲良くなれれば良いのでしょうが、やはり言葉や文化の壁は高く簡単ではありません。

 そんな中で同じ日本人同士という安心感は計り知れないものなのです。

 とはいえ、離れた場所に住んでいると頻繁に連絡を取り合う人は限られていて、このように大会でのお喋りによって最新情報を得るというのがわたしたちの常でした。


「聞いた? △△さん、高校では水泳やらないみたいよ」


「福岡の時だっけ? すごいレースしたのにね」


 辞める理由は人それぞれですが、怪我、伸び悩み、家庭の事情といったところが多いでしょうか。

 いま日本で最高峰の舞台に立つわたしたちも数年後に競泳を続けることができているか確信を持っていません。

 競泳の場合、高校生や大学生になってから突然現れる新星というものは極めて稀です。

 ほとんどすべての選手が小学生の頃から有望視され、周囲と自分自身の期待に応えるために懸命に続けてきた者なのです。

 そこからひとり、またひとりと脱落していき、オリンピックに出場するようなトップスイマーだけが卒業後も競技を続けられます。


「ところで、昨日安藤さん凄かったね」


「でしょ! でしょ!」


 待ってましたとばかりにわたしはそれまでとは態度を一変させて、その言葉に食いつきます。

 安藤先輩は日本選手権に初出場でしたが、大会1日目に見事決勝進出を決めたのです。

 優勝は逃しましたが、まだ出場種目は残っています。

 中学時代に伸び悩み未完の大器と言われていましたが、完全に覚醒しました。


「先輩、絶好調って感じだし、もしかしてもしかするかも!」


「真樹ちゃん、興奮しすぎ」


「だって、これから先輩はもっともっと伸びていくよ。その時にはわたしが最初に目をつけてたって言ったら自慢できるじゃない」


「なに、それ」と友人たちは大きな声で笑っています。


 ここにいる人たちはみんな他人を応援するよりも自分が結果を出すことがすべてだと考えています。

 ですから、わたしの言葉を理解してくれないのでしょう。


「安藤さんに負けず、高校生組の活躍を見せたいよね」


「この中から何人か優勝すれば黄金世代って呼ばれるんじゃない?」


「自己ベストを一気に更新できればワンチャンあるから」


 実際に彼女たちは自信をみなぎらせています。

 いまは記録が伸びやすい時期ですし、当然このペースで伸びていけば日本記録はおろか世界記録だって望めます。

 現実にはどこかで頭打ちになってしまいますが。

 そうだと理解していても、現実より希望を夢見ていられるのが若さなのです。


 運営スタッフが来たところでお喋りはお開きになり、そうするとみんなの雰囲気がサッと切り替わります。

 この切り替えの速さもトップアスリートの持つ力なのです。

 わたしもまた適度な緊張感に包まれ、試合に向けて集中力を高めていきます。

 イメージ通りに泳ぐこと。

 周囲の動きに神経を使うと余計な力が入ってしまいます。

 すると、水に力を伝えられなくなる上にスタミナも消耗します。

 一方で、スタートからゴールまで完璧にイメージに沿った泳ぎができるとは限らず、修正力も求められます。

 そして、修正能力が高ければ心に余裕が生まれ、失敗を恐れずにチャレンジできます。

 わたしがこれまで安定した結果を残してきたのもその力によるところが大きかったのですが、それはジュニアでは通用してもシニアの大会では通用しません。


 予選が始まりました。

 決勝に進めるのはタイム順に上位8名だけです。

 わたしはほかのスイマーのことは忘れて、自己記録更新だけを目標にスタートを切りました。

 昨日の先輩の躍進を目にして、わたしもできると思ったことが泳ぎにも伝わったのかもしれません。

 うまく集中でき、理想の泳ぎにかなり近づくことができたのではないかと思ったほどです。

 水と一体化したような心地よさに包まれ、このままずっと泳いでいたいと感じました。

 しかし、ゴールした瞬間、わたしは一秒も無駄にしたくないというくらい早く電光掲示板に視線を送りました。

 パーソナル・レコード。

 しかも、期待以上のタイム更新でした。

 ガッツポーズを高々と掲げたのは言うまでもありません。


 引き上げるわたしに今日はレースのない安藤先輩が「良い泳ぎ」と声を掛けてくださりました。

 それだけで天にも昇る心地になります。


「先輩のお蔭です! 次も頑張ります!」


 夕方の決勝でも納得いく泳ぎができたと思います。

 優勝は逃し、派遣標準記録にも届きませんでしたが、自分なりの手応えはありました。

 わたしには時間が残されていません。

 パリオリンピックがラストチャンスだと考えています。

 自分より上位に入った選手は20代後半でしたので、2年もあれば立場は逆転できるでしょう。

 あとはタイムをどれだけ縮めていけるのかが鍵です。

 競泳は世界と戦えるような標準記録を破らなければ代表に選出されません。

 標準記録を上回り、そして上位2位以内に入る。

 現状なら後者を心配する必要はなく、タイムだけを追い求めていけば願いは叶うと思っていました。

 その時はまだ……。




††††† 登場人物紹介 †††††


和泉真樹・・・臨玲高校1年生。臨玲競泳部と連携している横浜のスイミングクラブ所属。純に憧れて臨玲に進学した。普段は女子高生のキャラを演じているという意識が強く、その時その時でのキャラの使い分けは気持ちの切り換えに役に立っている。


安藤純・・・臨玲高校2年生。女子選手の中では抜きん出た体格と筋肉を持ち、将来を嘱望されてきた。中学時代は伸び悩んでいたが高校入学後はインターハイで優勝するなど結果を残している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る