第385話 令和4年4月25日(月)「公正世界仮説」日野可恋
一昨日の夜、東京から帰ってきたひぃなは生気のない顔をしていた。
普段であれば美しさを引き立てる透き通る白い肌は青ざめ、まるで死人のようだ。
「わたしがあんなことを頼まなければ……」
「それを言うなら、私が3校合同イベントを企画しなければ良かったとも言えるよね」
私の言葉に納得できず「でも……」と言い返そうとするが、しばらくこちらをじっと見たあとひぃなは視線を落とした。
慰めをいくら言ったところで彼女の罪の意識は消えないだろう。
だが、話はキチンとしておかなくてはいけない。
「飯島さんの事件は相手が悪いのであってこちらに非はない。飯島さんはもちろんのこと一緒にいた岡崎さんや原田さんも相当ショックを受けているはずだから、いまのひぃなの役割は彼女たちのフォローだよ」
「うん。分かってる……」
「公正世界仮説という認知バイアスがあって、犯罪にあった被害者が何の落ち度もないのに自分に非があったせいではないかと考えてしまうことがある。一緒にいたふたりも助けられたのではと後悔しているかもしれない。いまはそんなことはないとハッキリ言ってあげることが大切だよ」
公正世界仮説とは「正しい行いをしていれば正しい結果がもたらされる」という世界観を信じ、その考えを現実の出来事にも当てはめようとする認知バイアスのことだ。
一見正しそうだが、この命題が真だとするとその対偶である「悪い結果がもたらされたのは悪い行いをしていたからだ」も真だとなる。
つまり、このバイアスを盲目的に信じていると、不幸な目に遭ったのは当人に非があったからとなってしまうのだ。
世の中には本人の努力だけでは避けられないことはいくらでも起きる。
戦争もそうだし病気もそうだし犯罪被害もそうだ。
そんな辛い目に遭っている人に向かって自業自得だなどと平気な顔で言ってしまえる人が残念ながら一定数存在する。
「公正世界仮説が正しければ、私のこの体質も私自身の罪がもたらしたものなんでしょう。前世なんて信じていないから、生まれた瞬間に相当大きな罪を犯したんでしょうね、私は」
「そんなこと、絶対にない」
ひぃなにしては珍しく感情が昂ぶった声だ。
私は優しく微笑みながら「だから、悪いのは飯島さんを階段から突き飛ばした犯人。自分を含めほかを責めないでね」と諭すように言った。
飯島さんたちは東京の広告代理店を訪ねた帰りに地下鉄の駅でこの事件に遭遇した。
若いサラリーマン風の男性が階段を駆け上がってきて、すれ違い様に飯島さんの肩を突き飛ばしたらしい。
彼はぶつかったことは認めているが、故意ではないと主張している。
この接触により飯島さんは転落して足の骨を折る重傷を負った。
怪我もヒドいが精神的なショックも大きいと思われる。
この一報を聞いたとき、同じ東京にいたひぃなに3人の精神的ケアを頼もうかと考えた。
しかし、彼女に電話で事情を話したときの様子から考えを変え、すぐに帰ってくるようにと伝えた。
ひぃなのショックが大きく、とても他人を気遣える状況ではなかったからだ。
3人がそこにいた要因は確かにひぃなが出したアイディアに行き着く。
だが、それは結果論に過ぎない。
こんなことは誰にも予想できなかったことだ。
土曜日の東京で臨玲の制服姿が目立ったということがあったかもしれない。
それもひぃなの責任ではない。
ひぃなが3人と一緒なら車を使っただとか、私がいれば防げただとかは言えるが、切りのない話になってしまう。
ひぃなの自責の念は簡単には消えないだろう。
それでも翌日からはこのプロジェクトのリーダーとして前面に立たなければならない。
代わってあげたいという気持ちはある。
ただ、それをしても彼女が喜ぶとは思えない。
私はひぃなを支えつつ、私にしかできないことをするべきだろう。
昨日は、北条さんを伴ってひぃなは被害に遭った3人の自宅を訪問した。
ふたりの話を聞いた限りでは、3人に塞ぎ込む様子はないようだ。
プロデューサー役の原田さんはあんなことがあった次の日も普通に仕事をする気だったようだ。
1日休むように言われたことに納得できず、「これを乗り越えてショーは絶対に成功させましょう」と力強く語っていた。
岡崎さんも父親の権力をフルに使って犯人に社会的制裁を下すと息巻いていたらしい。
怪我を負った飯島さんはさすがに落ち込んでいたようだ。
事件に対しては「咄嗟に反応するのが遅れた」と明るく笑っていたみたいで、そうやって気持ちを切り換えようとしているのだろう。
ただ実行委員の仕事を続けるのは難しく、周りに迷惑が掛かることを申し訳なく思っているみたいだったとひぃなが教えてくれた。
日曜だったこともありテレビでは軽くニュースで報道された程度だったが、インターネット上では多少話題になっていた。
予想通り、女子高生が騒いでいたからだという犯人擁護のコメントが書き込まれている。
既に制服から彼女たちが臨玲の生徒であると特定されている。
臨玲の公式サイトに法務部の名で誹謗中傷には断固たる措置を取るとメッセージを発している。
それでもたいした抑止力にはならないだろう。
メディア対策としてOGのネットワークを利用しているがどれほどの効果があるのかは不透明だ。
例えば、犯行の瞬間を撮影した防犯カメラの映像をメディアに流してもらえれば同情を集められるだろう。
それでも注目が集まれば、公正世界仮説のような考えの人やもっと訳が分からない有象無象が出現する可能性は高い。
できることなら騒ぎにならず静かなまま世間から忘れ去られて欲しいところだ。
そして、今日。
学校に向かうひぃなを見送り、私は病院に行く前にテレビのワイドショーとインターネットをチェックする。
いまのところ過度な誹謗中傷は起きていない。
渦中の3人やひぃなには見せられない内容のものもあるが、多少は目を瞑るしかない。
さあ病院に行こうと腰を上げたところでワイドショーがこの事件を取り上げた。
淡々と事実関係を報じたところまでは良かった。
そのあとに女性コメンテーターが述べた内容も妥当ではあった。
一時騒がれた女性にわざとぶつかりに行くという男性の迷惑行為に言及し、今回も同様だろうという分析だ。
だが、これを機に事件への書き込みが一気に増えた。
なぜ平日の午前中に放送されているワイドショーが即座にインターネット上で反響を及ぼすのか謎だ。
起きてしまったことは仕方がない。
私は北条さんにワイドショーの件をメールで伝えてから病院に出掛ける。
体調は随分マシにはなったものの治療に行くのは気が重い。
その上、インターネット上で悪意の監視なんてしているとますます精神的に滅入りそうだ。
ひぃなに癒やしを求めたいところだが、彼女もいまが頑張りどころだ。
しばらくは安らぎが手に入らないかもしれない。
……犯人の足の骨を1本や2本折ったくらいでは気が済みそうにないね。
私はそうマスクの下で呟くと迎えに来たハイヤーに乗り込む。
外は春の好天なのに私の気分が晴れることは相当先になりそうだ。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・臨玲高校2年生。生徒会長。昨年11月から今年3月まで入院し、退院後も自宅療養が続いている。
日々木陽稲・・・臨玲高校2年生。生徒会副会長。可恋のパートナー。ゴールデンウィークに開催されるファッションショーでは主導的役割を果たしている。
飯島
岡崎ひより・・・臨玲高校2年生。キッカの友人。義理の父はエンターテイメント業界に顔が利くことから広告代理店に行くメンバーに選ばれた。
原田朱雀・・・臨玲高校1年生。ファッションショーのプロデューサー。可恋や陽稲の中学の後輩。
北条真純・・・臨玲高校主幹。学校実務のトップであり、理事長の腹心。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます