第377・378話 令和4年4月17日(日)18日(月)「想いを伝える」石川千聖・椿乙葉
「もしかして、石川さん?」
周囲にハッキリ聞こえる声で呼び掛けられ、わたしは心臓が止まりそうになった。
向こうもびっくりした顔をしているが、驚きを顔に出していることにかけてはこちらも負けてはいないはずだ。
「……あ、ごめんなさい」と相手が慌てて頭を下げた。
この場には似つかわしくない洒落た春物のワンピース姿。
頭には可愛いベレー帽をちょこんと載せ、品の良いお嬢様のような出で立ちだ。
「お嬢様……ああ、そうか。クラスメイトの……」と彼女に聞こえないように口の中でわたしは呟く。
「本当にごめんなさい。名前を出してしまって……」と恐縮した顔つきでクラスメイトはもう一度謝った。
周囲にはいまのやり取りを気にした人はいないようだ。
わたしはそれを確認してから「いいよ、気にしないで」と答える。
そして、彼女の名前はなんだっけと中空を見上げた。
ここは横浜市内のホール。
学校の体育館くらいの広さがある。
そこで、とある人気コミックの同人誌即売会が開催されていた。
ホッとした顔つきになった彼女はわたしの前に並べられた同人誌に視線を送り、「見ていいですか?」と尋ねた。
この会場ではごく普通のやり取りだ。
わたしもこれまで何回かそれに肯定の返事をした。
相手がわたしの同人誌を手に取るたびに緊張に胃が痛くなる思いをしていたが、いまはその100倍くらいドキドキしている。
名前を覚えていない相手とはいえ、顔見知りに読まれるなんて想像していなかった。
ここから一目散に逃げ出すことも考えたほどだ。
クラスメイトはわたしの返事を待っている。
焦って頭が真っ白になり、断る理由がまったく浮かんでこない。
結局、「ど、どうぞ」とかすれた声を出してしまった。
彼女はにっこり微笑んで同人誌を手に取った。
それはわたしが初めて作った同人誌であり、これまで描いてきたこの作品のイラストの中の選りすぐりだ。
pixivで良い感想をもらったものだからヒドい絵ではないとは思うものの、それでもわたし程度の画力で同人誌を出してもいいのかという葛藤はいまもある。
知らない人であれば不興を買ってもこの場だけのことで済む。
しかし、彼女はこれから毎日顔を合わせる相手だ。
明日にも学校で嫌な噂が広まっている可能性だってある。
わたしが通っていた私立中学はちょっとでも変わったことをすれば変わり者扱いをされるところだった。
それを見て、わたしは自分がこういう絵を描いていると誰にも打ち明けられずにいた。
そんな息苦しさから逃げ出したくて臨玲に進学した。
様子を見ながら趣味のことを明かしていきたいと考えていたが、入学して半月も経たないうちにこんなことになるなんて……。
「素敵です!」
サークル参加なんてしなきゃよかったと後悔し始めたわたしに彼女は弾んだ声で感想を述べた。
特にこの絵がとわたしも気に入っている一枚を開いて指し示す。
わたしはさっきまでの緊張が急に解けて、パイプ椅子の背にもたれ掛かった。
「保存用と観賞用に二冊、いただけますか」
「知り合いだから、お金はいいよ」
「でも……」と躊躇う彼女に、「同人誌にpixivのアカウントを記載しているから、そっちも見て感想を聞かせて欲しいな」とわたしはお願いした。
クラスメイトは上品な笑みを浮かべ、「そういうことでしたら」と了承してくれた。
プレゼントした本を大事そうに胸に抱え、「では、また明日お会いしましょう」とわたしの前から去って行く。
それを目で追いながら、わたしはふーっと息を吐く。
「あっ……そうだ。椿さんだ」とその時になってようやくわたしは彼女の名前を思い出すことができた。
* * *
「ご機嫌よう」
月曜日の朝、私は教室に着くと友人たちに挨拶をする。
いつもであれば姫香様たちとのお喋りでホームルームが始まるまでの時間を過ごすのだけれど、今朝はひとりの少女の席に向かった。
「おはようございます、石川さん」
彼女は顔を上げ、少し驚いた顔をした。
……昨日は驚くのも当然だと思いますが、どうして今日もそんな顔をするのでしょう。
私が小首を傾げると、彼女は「あ、おはよう……ございます。昨日はその……ありがとう……ございます」と要領を得ない挨拶を返してくる。
「感謝されるようなことなどありましたか?」と私が疑問を口にすると、彼女は「感想。あんなにたくさん書き込んでくれて……」と理由を説明してくれた。
「Chise先生のイラストがとても素晴らしかったものですから、つい。……ご迷惑ではなかったでしょうか?」
私は素敵なものに出会うとジッとしていられなくなってしまう。
子どもの頃から芸術を鑑賞し心が揺さぶられるたびに、作者の方が存命ならファンレターを送っていた。
その回数は数え切れないほどにのぼる。
長じるにつれ、手紙の内容は熱く、量も多く、褒め方も巧みになっていった。
親が代わりに書いたのではないかとよく間違われたものだ。
また、両親はあまり良い顔をしないが、私は小学生の高学年くらいからマンガにハマった。
こちらでもいくつかの出版社の住所を諳んじられるほどファンレターを送っていた。
そして中学生になったあたりからインターネット上でファンによる様々な活動を知るようになる。
ただそちらではファンレターと同じようなノリで書くと批判されることも少なくなかったのだ。
それからはインターネット上でのマナーに気をつけるようにしているものの、それでも人によっては冷ややかに受け止められることもあった。
「そんなことないよ!」
私の憂慮を吹き飛ばすくらいの大きな声で石川さんは否定した。
こんなに声を張り上げるとは思っていなかったので今度は私が驚く番だった。
「もの凄く嬉しかった。周りはみんなもっと上手いし、わたしなんかが描いていてもいいのかっていつも思う。でも、あんなに喜んでもらえて、描いていて良かったって……」
彼女は涙ぐみながら想いを口にした。
これまでに溜め込んでいたものが一気に噴出したような勢いだ。
私はそんな彼女を見て胸を打たれるとともに、自分が書いた感想の及ぼすものを初めて目の当たりにした。
ファンレターを送った相手はほぼ全員すでにプロとして名を馳せている人だった。
それに対してインターネットで感想を送った相手はアマチュアであり、まだ世に認められていない人が大半だ。
文字だけのやり取りだと相手が感想をどんな気持ちで受け止めたのかも伝わらない。
これまではそうした違いをよく理解していなかった。
「Chise先生の絵は魅力的ですよ。どこに出したって恥ずかしくありません」と私が断言すると石川さんの顔は真っ赤になり、それを隠すように両手で顔を覆う。
「Chise先生って言うのは……」とか細い声で抗議してきたので、「Chiseという名前で登録していますよね? 同人誌もその名前でしたし……」と私が真顔で確認すると、「……恥ずかしい」と彼女は身もだえする。
あまりの可愛らしさに私の顔がにやけてしまうほどだ。
彼女はこちらを見ていないので、ニヤニヤしながら「では、先生と呼びましょうか?」とからかうと「やめて!」と悲鳴が上がった。
これ以上は可哀想なので「Chiseさんとお呼びしますね」と解放してあげると、指の間からこちらを見上げて「うん」と頷く。
繊細で、愛らしく、まるで子猫のような人だ。
それが絵にも表れているから人を惹きつけるのだろう。
「そろそろ席に戻りますね」
ホームルームの時間が近づいてきたのでそう言うと、Chiseさんは「うん。じゃあ、また。椿さん」と名残惜しそうな顔つきで話す。
私は「椿、ではなく
††††† 登場人物紹介 †††††
石川
椿
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