第376話 令和4年4月16日(土)「人を動かす方法」戸辺シャーリー
何の因果か私はいま教職に就いている。
人生は数学同様に何が起きるか予測不能で興味深い。
「先生はどちらが勝つと思いますか?」
深刻な顔つきで私にそう問い掛けたのは生徒会長代行の役を担う岡本真澄だ。
教師の間では2年生になって変わったと言われているが、私は1年生の時の彼女を知らないのでそれが正しいかどうかは不明である。
そういう意見が多いのだからそうなのだろうというのが数学的な解となる。
生徒会室はふたりきり。
私は顧問として顔を出すことが多い。
ここは快適なので自宅よりも研究が捗るという理由が大きい。
いまは自分の研究ではなく来週行う生徒との面談の準備に当たっていた。
「生徒会長選挙のことですか?」と私は彼女の曖昧な質問の意図を明確にする。
「はい。本来なら生徒会長が率先して副会長の選挙運動をサポートしますが、日野会長が登校できる時期は不明ですし……」
「彼女なら登校せずともどうにかするんじゃないですか」
日野さんにはそれだけの実力がある。
実際、新入生に対しては裏工作を施すことで副会長の支持率を増大させた。
これで合同フェスを成功させればその実績をアピールすることで互角の勝負に持ち込めるだろう。
「それはそうなんですが……」と岡本さんは言葉を濁す。
「会長の入院中、対立候補が支持を広げたのは君の責任ではありませんよ」
私の慰めにも憂いは晴れないようだ。
彼女は昨年の会長選挙に立候補しながら不戦敗に終わった。
辞退せずに投票が行われていたらどちらが多数を得たかは神のみぞ知るといったところだが、前回の選挙は個人の能力や資質ではなくまったく別のことが争点となった。
それが日野さんの狙いだったのだろうが、岡本さんとしては不完全燃焼に終わった心残りがあるのだろう。
今回は生徒会長選挙らしい選挙になると予測される。
会長の後継者である日々木さんを勝たせることでそんな思いに決着をつけたいといったところだろうか。
「昨年の選挙では油断がありました。ほかに立候補者が現れるとは考えていませんでしたし、たとえ選挙になっても余裕で勝てるだろうと思っていました」
昨年4月に私は教師としてこの学校に着任した。
それまでは外資系企業で働いていた。
大学院まで進んで探求した数学を社会でどう生かすかというテーマを抱いて挑み、自分なりに納得したタイミングで臨玲主幹の北条さんから話を頂いたのだ。
仕事内容は異なるが彼女もまた外資系からこの学校に引き抜かれている。
その際、私はこの学校の実情について詳細なレクチャーを受けた。
理事長と学園長の対立がようやく解決したこと、争いの間に生徒会やOG会が力を持ち制御が難しくなっていること、校名についた傷を払拭することが喫緊の課題であることなどだ。
日野可恋という新入生による生徒会奪取作戦についても知らされた。
ただ北条さんは成功率はかなり低いだろうと見積もっていた。
選挙の時期がゴールデンウィーク前後と早く、学校に入ったばかりの生徒では上級生の支持を集めるのが難しい。
1年間を準備に充て、障害となる3年生の卒業を待って生徒会改革を実行するというのが本来の予定だった。
岡本さんは油断と称したが、日野さんは大人たちの思惑すら軽々と超えてしまったのだから相手が悪かったというほかない。
「だから今年の選挙はしっかり準備を調え結果を出そうと決意していました。それなのにこんなことになって……」
「藤井さんがあれほど変わるとは誰も思っていなかったでしょう」
藤井菜月が生徒会長選挙に立候補する意向を示したとき担任である私は無謀だと感じた。
もちろん可能性はゼロではない。
だが、藤井本人を除く全員が勝負にならないと考えたのではないだろうか。
当時の彼女は周囲から浮いた存在だった。
成績優秀、眉目秀麗、スポーツ万能と非の打ち所がない学生ではあったが、人間関係だけは壊滅的と言えた。
それとなくアドバイスは送ったものの聞く耳を持たず、どうやってコミュニケーションの価値を伝えるか私も頭を悩ませていた。
それが一転して積極的にコミュニケーションを取るようになる。
選挙に勝つためにはこれしかないと誰かから指摘されたのだろう。
彼女にとって決して楽なことではなかったはずだ。
それでも校内を回って多くの生徒と対話を重ねていった。
相手にされなくても粘り強く回を重ね、次第に打ち解けていく。
性格的なあくの強さは残っているが、それすら受け入れてもらえるようになってきた。
「それでもです。会長はあらゆる事態を想定することが大切だと仰います。その薫陶を受けてきたのにできなかったことが恥ずかしい……」
消え入るような声で岡本さんは語った。
彼女は私の前では一学年下の生徒会長への尊敬を隠そうとしない。
おそらく日野さんに評価されることが彼女にとっての最大の喜びだろう。
逆に、無能と見なされることは耐えがたいに違いない。
このことで日野さんが代行への評価を覆すとは考えられない。
残りわずかとなった任期を全うすれば、選挙運動に関わらなくても十分な感謝をされるだろう。
それを理解していてもそれで満足できないからこそ苦悶している訳だ。
「いま日々木さんはファッションショーの成功のために全身全霊をあげて取り組んでいます。そんな彼女の代わりに私ができることがあれば……」
「土曜日だというのに学校に来て生徒会の仕事に取り組んでいる君に、ご褒美としてヒントをあげましょう」
私がそう言うと彼女は期待を込めた目をこちらに向けた。
普段は大人っぽい黒い瞳がいまは歳相応となって縋るようにこちらを見つめている。
教師は学生に考えさせるのが仕事であって無闇に正解を与えるべきではないというのが私の持論だ。
しかし、迷える子羊にヒントを与えるのも教師の役割の一つだろう。
「藤井さんは成長していく姿を見せることで共感を得ました。この『物語』に対して理を論じても相手には響きません。いかに感情に訴えかけるかが鍵になるでしょう」
「感情ですか……」と岡本さんは虚を突かれたような顔をしている。
ヒントを出しすぎたかと後悔したものの、頭が良いだけに感情を軽視しがちな彼女にはこれくらいハッキリ言わないと伝わらないかと思い直す。
実際、彼女は先ほどよりも難しい顔つきになった。
考え込む姿を私はつぶさに観察する。
生徒会の顧問として彼女とは1年のつき合いだ。
接する機会も多かっただけに、どんな思考のクセがあるのかある程度は把握している。
納得しきれない表情で顔を上げた彼女は「……意外でした。先生が論理よりも感情に重きを置くなんて」と言葉を漏らす。
予想通りの反応に「もちろん私はロゴスの信奉者ですよ」と微笑んでみせる。
その上で「感情や人の心というものはロゴスと対立するものではありません。それもまたロゴスに支配されたものなのです」と言葉を続ける。
一見不合理な人の行動も内在的な論理に導かれたものだ。
五感から認識したものを脳が処理をして行動に移す。
他人から理解不能な行動は認識や脳の処理に問題があって発生したものだと考えられる。
認知の歪みをもたらすバイアスの存在や、発達障害といった脳の処理の不具合が解明されている。
そこから分かるのは、人は自分なりの合理性に従って行動しているということだ。
感情もまたその合理性の一部に過ぎない。
むしろ合理性の根幹に関わるものと言っていいだろう。
合理性の基準となる正誤の判断は経験から学ぶ。
直感は経験に紐づけられた思考のショートカットだ。
人は考えてばかりだと疲れるのでとりあえず直感で判断するが、残念ながらこの直感は間違うことも多い。
それでも日常生活を送る上では直感だけで十分だったりするので、ほとんどの人は直感に頼り切ることになる。
直感は基本的に好悪として思考に現れる。
これまでの経験上よく知っているものには”好”の感情を持ちやすく、未知のものには”悪”の感情を持ちやすい。
また、”好”の感情を抱く人の言葉は耳に入りやすく、逆の時はどんなに正論でも穿った見方をしてしまう。
つまり、相手が信用できないとどんな正しいことを言われても受け入れられないというのが一般的な人間なのだ。
頭が良い人は正論を唱えていれば伝わるだろうと思ってしまう。
それはそういう訓練を受けた人だけができる芸当である。
面倒な思考を何時間も行える人なんて限られているのだ。
周囲に同じような人ばかりいるとこの陥穽に陥りやすい。
知識人、専門家、インテリと呼ばれる人たちの支持が広がらないのもこの罠にはまるからだ。
当然、岡本さんも……。
「君ももうすぐ成人ですから、正論では人を動かせないことを学ぶのもいいかもしれませんね」
††††† 登場人物紹介 †††††
岡本真澄・・・臨玲高校3年生。生徒会長の可恋が入院したことを受け補佐から代行に役職名が変更された。優秀なだけに他人任せにできず自分で仕事を抱え込むタイプ。
日野可恋・・・臨玲高校2年生。入学早々に生徒会長選挙に立候補し、真澄の辞退により信任投票となった選挙で当選した。
日々木陽稲・・・臨玲高校2年生。生徒会副会長。可恋のパートナー。可恋から生徒会改革を引き継ぐため生徒会長になるよう言われている。現在はファッションショーの準備として”工房”に詰めている。
藤井菜月・・・臨玲高校2年生。可恋や陽稲のクラスメイト。超大手IT企業創業者の一族。家の財力は校内随一だが新興なだけに社交的な交流はこれまでほとんどなかった。
北条
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