第373話 令和4年4月13日(水)「音楽」依田こゆき
「ジャズ、ですか……」
それはわたしとにって思いがけない提案だった。
ジャズのこともそうだし、バンドを組むということもそうだ。
驚いたのは、昨日ハッキリ断ってしまったのにお昼休みにわざわざ1年の教室まで来てくれた先輩に対してもだった。
ライブコンサートに誘ってもらえたことは正直とても嬉しかった。
わたしの演奏を聴いて評価してくれたということなのだから。
気持ちは揺れ動いていた。
ひとりのピアニストとして大勢の観客の前で演奏できるなんて幸せなことだ。
その機会は逃したくない。
しかし、不安もあった。
コンクールではないので順位がつけられる訳ではないが、普段クラシックを聴いたことのないお客さんにどう受け入れられるのか。
何より、わたしが演奏する姿をあれこれ言われるんじゃないかと怖くなったのだ。
わたしは物心ついた頃から家にあったピアノを弾いていた。
県内ではあるもののもの凄く田舎で、防音なんてしなくても好きなだけ弾ける環境にあったのだ。
近くにピアノ教室なんてものはなかったが、かなり早い時期から定期的に先生に来てもらっていた。
その先生は最低限のマナーを守っていれば自由に弾かせてくれたし、うまくいかない時はすぐに答えを言わず一緒に考えようとしてくれた人だった。
ますますピアノが好きになったわたしは来る日も来る日も引き続けた。
楽しくてしょうがなかった。
次に先生が来たときに驚かせようと様々な曲に挑戦した。
やがて発表会というものに出るようになる。
おめかししてみんなの前で演奏を披露する。
先生の喜んでくれる顔が好きで、わたしは頑張って全力を出した。
ところが、何回目かの発表会で同じ年頃の子にこう言われたのだ。
「変な弾き方」
それからほかの子の演奏を観察してみたら、みんなわたしのようにクネクネと身体を動かしながら弾いていないことに気づいた。
その時はただ単純にビックリしたのだ。
先生にそのことを言うと、プロのピアニストの動画を見せてくれた。
普通に演奏している人も多いが、中にはわたしのようなスタイルの人もいる。
それで安心したつもりだったが、発表会の舞台に立つと身体が固くなるようになってしまった。
どうしても人の目を気にしてしまう。
練習で出せた力が本番では出し切れない。
中学生になると、そんな思いが増していく。
自分にとって唯一得意なものであり将来もピアノに関わっていきたいと思えば、コンクールの結果は大切なのにそこで実力が出せない。
先生は「子どもの頃のように楽しんで弾くことが大切」だと言う。
だけど、わたしは……。
「どうかな? 相方のアイディアなんだけどね。こゆきさんが承諾してくれればメンバーはあたしが全力で集めるよ」
瑠菜先輩は頼りになるお姉さんという感じの人だ。
彼女が教室に入ってきたときにざわめきが起こった。
内部進学の1年生には顔が知れ渡っているようだった。
そんな先輩がわたしに力を貸してくれるという。
一度は断ったのに、それでもこうして新しい提案までしてくれた。
バンドのメンバーであればわたしひとりが注目を浴びることもないだろう。
「分かりました。精一杯頑張ります」
そして、放課後。
わたしは瑠菜先輩に連れられて第二音楽室に来た。
ここは吹奏楽部の活動拠点だそうだ。
「餅は餅屋。楽器の演奏ならまずはここに当たらないと」
そう言って先輩は部屋の扉を開ける。
すると中にいた人たちの目が一斉にこちらを向いた。
かなりの大人数だ。
第二音楽室は昨日わたしがピアノを弾いていた正規の音楽室よりもかなり広い。
吹奏楽部の部員数は100人を超えるところも少なくないと聞くからこれだけの広さが必要なのだろう。
「何? もう部活は始まっているんだけど」
部長か何かだろうか。
部員たちの前に立って話をしていたらしき人が瑠菜先輩の方を向いてキツい口調で叱責した。
しかし、瑠菜先輩は動じず、「先輩、ほんのちょっとだけお時間もらっていいですかね?」と右手の親指と人差し指で1センチほどの間隔を作ってお願いした。
相手の人は嫌そうに顔をしかめたが、「1分ね」と先輩の申し出を受け入れた。
「ライブコンサートでジャズバンドをやります! 腕に自信のある人だけ募集します!」
大声でそうまくし立てたあと、後ろにいたわたしを前に引っ張り出して「この子、ピアノがムチャクチャ上手いです! 彼女の足を引っ張らない人っていますかね?」と明るく言い放った。
その途端、視線に物理的な力があるんじゃないかと思うくらい身体にチクチクと突き刺さるのを感じる。
いや、ザクザクというのが正解か……。
「ケンカ、売ってるのか」と部長さんらしき人に詰め寄られるが、売っているのはわたしじゃない。
逃げ出したくても背後から両肩をガッチリ掴まれているので叶わず、わたしは両手を前に出して首を振るしかできなかった。
それでも部長さんは眼光鋭くこちらを見つめる。
なんでわたしが……と震えていると、彼女はわたしの手を掴み自分の顔に近づけて観察した。
お世辞にも綺麗とは言えない手だ。
身体とのバランスが取れていないほど、そこだけが大きく発達している。
「良い手だな」と言った部長は「私じゃ手を見ただけで腕の良し悪しまでは判断できないけどな」と自嘲的につけ加えた。
そして、「ミーティングが終わったら聴かせてもらえる?」と先ほどとは打って変わった落ち着いた声で聞く。
わたしが「はい」と頷くと、手を離し振り返る。
「部長、それで良いよね?」と彼女は大きな声で問い掛けた。
「コンマスに任せる」という返事が部員たちの席の後方から返ってきて、わたしは部長だと思っていた人がコンマス――女性だから本来はコンサートミストレス――であることを知った。
瑠菜先輩は「ごめん、ほかの出演者から呼び出しがあったからちょっと行ってくるね。人気者はつらいわ」と駆け出して行った。
残されたわたしはひとり音楽室の外で待つ。
同じ音楽といってもピアノと吹奏楽ではかなり違いがある。
ただあれだけの人数でひとつの音楽を作り上げていくというのは吹奏楽の魅力だろう。
ピアノもオーケストラと一緒に演奏することはあるが、独演がまずあって合わせるのはそのあとという感じだ。
……バンド、うまくやれるかな。
でも、いまはそんな不安よりもこの吹奏楽部の部員の前で何を演奏しようという楽しみの方がわたしの心を占めていた。
††††† 登場人物紹介 †††††
高女吹奏楽部・・・県内屈指の強豪校。内部進学者も多いが吹奏楽部目当てで外部から来る生徒もいる。
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