第372話 令和4年4月12日(火)「魂を揺さぶるもの」麻生瑠菜
「いぶき、聞いてよ!」
あたしは寮に帰るなり隣室のいぶきの部屋に駆け込む。
彼女はちょうど部屋着に着替えたところで、制服をハンガーに掛けブラッシングしているところだった。
制服のままのあたしに「どうしたの?」と落ち着いた声で問い掛ける。
いぶきの顔を見るとテンションが変わる。
先ほどまでの興奮が消え去ったわけではないが、それとは別の感情がわき上がり心の中でそのふたつがせめぎ合っていた。
朝も顔を合わせているのに半日ぶりに会っただけでどうしてこんなに嬉しくなるのだろう。
彼女のなんでもない仕草を見るだけであたしは自分の幸せを噛み締めてしまう。
あたしが返答をしなくても彼女は急かさず自分の身の回りを整えていく。
それをボーッと眺め、いぶきがベッドサイドに腰掛けたところでようやくあたしはここに来た理由を思い出した。
「そうなの、すごい子を見つけたの!」
我が校は、間もなく開催される3校合同フェスにおいて開幕を飾るライブコンサートの準備を進めている。
あたしは実行委員としてそれに深く関わってきた。
出演するバンドや歌い手のオーディションも中心になって行った。
しっかり時間を掛けて取り組んできたので、残り半月ほどとイベントが迫ってきても比較的余裕があった。
そのせいで考えなくてもいいことまで考えてしまったのかもしれない。
……熱が足りない。
詳細が発表されたことで校内でもかなり盛り上がってはきている。
ただどうしても話題は初瀬紫苑に集中する。
彼女が高女に来るという一点だけがみんなの関心事項となっていた。
それが悔しい。
だが、オーディションを勝ち上がった面々が初瀬紫苑に対抗できるかというと残念ながら無理だろう。
失礼な言い方になってしまうが、しょせんはアマチュア。
そこそこ上手くて聴いていられないほどヒドいってことは決してないが、せっかくのこのコンサートをみんなの記憶に焼き付けるほどのパワーがあるかというと疑わしい。
だからといって代わりがいる訳ではない。
文句があるならお前がやれよと言われたら、頭を下げるしかないのだ。
春休みが終わってからそんな悶々とした思いに囚われていた。
おそらく舞台に立つ面々は脇目も振らずに本番に向けて練習を積んでいるはずなのに、あたしひとりがどこか冷めた目で見ていた。
放課後、音楽室が空いているかどうか確認してきて欲しいと頼まれて見に行った。
出演メンバーの練習場所の確保はあたしの仕事のひとつだ。
他の部の使用申請は出ていなかったので大丈夫だと思ったが、念のため音楽室まで足を運んだ。
ピアノの音が聞こえた。
誰かが遊びで弾いているというレベルではない。
あたしは小学生の頃に習い事として少し囓った経験がある。
最初は「憧れ!」って感じで始めたが、すぐに練習が辛くなってしまった。
バイエルとかよく弾いたなあと思いながら音楽室に近づくと、よりハッキリとピアノの音色が耳に届く。
……プロを目指すレベルだよね。
うちの高校から音大を目指す生徒も少数ながらいるので不思議な話ではないが、異世界に足を踏み入れたような気分がした。
いつも見ている建物の中なのに、厳かで空気の色合いまで変わってしまったようだ。
渦のように音楽が周囲を巻き込み、世界とともにあたしの心もたぐり寄せられていった。
素敵な体験は時間を忘れさせる。
あたしは曲が終わるまで入口のところで中から漏れ出るピアノを聞き入っていた。
音が止まったあとも余韻に浸るように立ち尽くし、なかなか部屋に足を踏み入れられない。
それでもこの感動を伝えずにはいられない。
あたしは大きく息を吐くとドアを勢いよく開ける。
ピアノの前にはまん丸い眼鏡を掛けた少女がひとり座っていた。
彼女は驚いた顔でこちらを見ると、「すみません!」と慌てて立ち上がった。
「注意しに来たんじゃないから謝らなくていいよ。それよりいまの曲スゴかったね、感動したよ!」
制服を見て彼女はすぐにあたしが上級生だと気づいたようだ。
フレンドリーに接したつもりだが、彼女はおどおどしている。
「あたしは麻生瑠菜。高等部2年。あなたは?」
「……依田こゆきです。1年生です」
あの堂々たる演奏をしていたとは思えないほど自信なさげな態度で彼女は答える。
あたしが外部入学かどうか尋ねると、恐る恐るといった感じで頷いた。
オーディションは中等部の子にも参加を募ったので、これほどの子がいたら噂くらいは聞いたはずだった。
「ねえ、あなた。ライブコンサートに出てみない?」
あたしは突然の思いつきをそのまま口に出した。
ライブコンサートでピアノの独演はちょっと浮くかもしれないが、それでもこれだけの腕だ。
もやもやと悩んでいたことへの解決策が目の前に現れたのだから飛びつかない訳にはいかない。
「む、無理です」
「どうして? スケジュールに問題ある?」
「そうじゃないですけど……」と彼女は肩をすくめる。
ここは押しの一手だ。
あたしは両手を合わせ身体を半分に折り曲げて頼み込む。
「お願い! ライブコンサートにあなたの力がどうしても必要なの!」
「本当に無理なんです。人前では力を出し切れなくて、コンクールではいつも入賞止まりだし……」
彼女は俯き、力なく答える。
その声には悔しさが滲んでいた。
「ピアノを辞めるかどうか迷っていたんです。環境を変えてみればと言われて高女に来ました。でも、大舞台でダメだったらもう二度と……」
あたしは身体を起こすと、下を向いたままの彼女をギュッと抱き締める。
このままだと消えてしまうんじゃないかと思うほどその姿が儚げだったから。
いつもいぶきからもらっているパワーを少しでも彼女に分けてあげたかった。
「『ごめんね、無理を言って』と謝って話は終わったの。余計なことを言っちゃったかな……」
事の顛末をいぶきに説明し終えると、あたしは溜息を漏らす。
どうすれば良かったんだろうとずっと考えているがさっぱり分からない。
「そんなことはないんじゃない。才能を認めているという点はちゃんと伝わっていたんでしょ?」
いぶきの長所はどんな時でも落ち着いているところだ。
ブレがないし、いつも真剣に向き合ってくれる。
その場のノリで楽しむ会話も嫌いじゃないが、いぶきとの対話は特別なものだ。
「ピアノだと独りでの演奏が多いから、この機会にグループで舞台に立つことを経験してみたらどうかな?」
「バンドってこと?」と聞くといぶきは頷き、「春休みに実家に帰ったときにお父さんがジャズを聴いていたんだ。妹の介護をしながら」と言葉を続ける。
彼女の妹は障害があり、介護が必要なのだそうだ。
いぶきは率先してそれをしていたが、負担は大きく耐えられなくなってしまった。
この寮に来た当初は逃げ出してきたと自分を追い詰めていた。
やがて自分を見つめ直し、冷静に過去を振り返られるようになる。
「完璧にしなきゃいけないって無理をしていたの。自分に対しても、家族に対してもそれを要求していた。いま思うと、自分の思い通りにならないことに癇癪を起こす子どもみたいだったよ……」
そんな風に打ち明けてくれたのは夏が終わった頃だった。
いっぱい苦しい思いをしたいぶきには幸せになって欲しい。
彼女はあたしにたくさん助けられたと言ってくれるが、あたしはいつもいぶきに助けられていると思っている。
「へぇー、ジャズかぁ」とあたしは過去を回想しつつ相づちを打った。
「聴いてみる?」といぶきは有線のイヤホンの片方をあたしに差し出した。
それを耳に装着すると、どこかで聴いたような音楽が流れてきた。
懐かしさを感じる音の響き。
いまの流行の曲とは全然違うけど、これはこれで良いよね。
そう思いつつ、あたしは「こうやって音楽を聴くのって、恋人同士っぽいよね」と笑った。
††††† 登場人物紹介 †††††
麻生瑠菜・・・高校2年生。鎌倉三大女子高のひとつ”高女”の生徒。ゴールデンウィークに開催予定の三校合同フェスの実行委員を務めている。
香椎いぶき・・・臨玲高校2年生。瑠菜と同じ寮で暮らしている。彼女も三校合同フェスの実行委員。
初瀬紫苑・・・臨玲高校2年生。映画女優。同世代に圧倒的な人気を誇る。なお、所属事務所は彼女がライブコンサートで何をやらかすか戦々恐々としている。
依田こゆき・・・高校1年生。高女の学生。ピアニストとしての技術の高さもさることながら、どっぷり陶酔しての演奏は情感豊か。しかし、人前ではその姿を見せるのが恥ずかしくてできない。
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