第368話 令和4年4月8日(金)「名前」

 今日は新入生のためのオリエンテーションが行われた。

 教師に先導されて校内のあちこちを歩き回っている。

 中学の時はキッチリ整列させられ私語も厳禁だった。

 だが、臨玲の特色なのか高校生扱いされているからかは分からないが、規律はかなり緩いようだ。

 早くもクラスメイトの間ではグループができつつあり、女の子たちの甲高い声が廊下に響いている。

 私は最後方からそれを眺めながら歩いていた。


 部室棟と呼ばれる校舎に入ったところで前に居た3人組が立ち止まり、こちらを振り返った。

 そして、その中のひとりが親しげな声音で「どう? 映画、ちゃんと観た?」と私に声を掛けてきたのだ。

 臨玲の制服を身に包んだ彼女たちは同じ歳のはずなのにどこか大人っぽい。


「え、あ、うん」


 まさか話し掛けられるとは思っていなかった。

 高校生になって変わろうと決心していたのに、いざこうして向かい合うとどぎまぎして言葉が出て来ない。


 しかし、彼女は私の返答に気を悪くした様子もなく「凄かったでしょ!」と興奮気味に話を続ける。

 ハッキリと顔を覚えていた訳ではないが、入学式の日に私が生徒会副会長について尋ねた人だ。

 あの時は勇気を振り絞って質問したことで臨玲祭で公開された短編映画の情報を知ることができた。

 帰宅してからこっそり見てみたところ、高校生が制作したとは思えないほど豪華で凝った映画だった。

 凄い凄いと思いながら繰り返し鑑賞したので彼女の言葉に何度も頷いて同意する。


「日々木先輩も素敵だったけど、あれを撮ったのは初瀬紫苑だからね! 信じられないよね。あの初瀬紫苑がこの学校にいて、あんな最高の映画を作ったりするんだから!」


 彼女はまるで自分が作ったかのように誇らしげに語る。

 さらに瞳をキラキラと輝かせ頬を紅潮させながら初瀬紫苑への思い入れを口にした。


「あたし、彼女の大ファンなの。『クリスマスの奇蹟』を観た時から推しているのよ! 臨玲にしたのも彼女に憧れてだし」


「へぇー、そうなんだ」


 彼女の熱気についていけず、感情の籠もらない相づちになってしまった。

 私は芸能界について全然詳しくない。

 初瀬紫苑さんも名前は知っているが、顔は朧気にしか覚えていない。

 しかし、そんなことを言うと嫌われるんじゃないかと聞き役に徹していた。


「まーちゃん、熱くなり過ぎ」


 歩くペースが遅くなったことを気にしたのか、それとも私が引き気味なことを察したのか、彼女と一緒にいた人が肩に手を置いて現実に引き戻そうとした。

 それに対して、邪魔をされた彼女はキッと睨むような視線を仲間に向ける。


「”まーちゃん”って呼び方は嫌だって言ったでしょ! パパに言いつけるからね」


 豹変という言葉が私の頭の中に浮かぶ。

 それまでの楽しそうな表情から一変し、怒りに満ちた顔つきになった。

 その威圧感は鉾先が向けられなかった私でさえ居竦んでしまうほどだ。


 ところが怒鳴られた当人はまったく気にした様子がない。

 軽い口調で、「”まゆり”なんだから”まーちゃん”で良くない?」と言葉を返す。

 それまで会話に参加していなかったもうひとりも怒っている子の存在に気づいていないかのように「すーちゃんはあだ名の付け方が雑。もっと、こう、”由比ヶ浜のたま百合”みたいな……」と雑談を続ける。


「それってあだ名って言うより二つ名なんじゃないの? だいたい”たま百合”って何?」


「たまのような百合。いま考えた」


 ふたりのそんな会話を聞いていた彼女は肩を震わせ「あ゛ん゛た゛た゛ち゛は゛……」といまにも怒気を爆発させそうだ。

 こめかみに青筋が立ち、拳は固く握り締められている。

 一触即発。

 そんな状況なのに、私はただ黙って見つめることしかできなかった。


「そこ、遅れていますよ」


 突然、鋭い声が飛んできた。

 かなり先行していた担任教師が戻ってきたのだ。

 表情は穏やかだが私たちを値踏みするような視線が私の背筋を凍らせる。


「申し訳ありません!」と真っ先に態度を改めたのは”まーちゃんと呼んで怒らせた人だ。


 彼女が真面目な面持ちで謝罪すると、それに釣られるように私たちも頭を下げる。

 怒り心頭だった子はまだ感情を持て余しているようだったが、言い訳をしようとはしなかった。


「いつまでも中学生気分でいてはいけませんよ」と窘め、担任は再びほかの生徒たちのところへ向かう。


 ……中学生気分か。


 私が口の中でそう呟きながら教師の後ろ姿を見送っていると、最初に謝った子が隣りに来て「巻き込んでゴメンね、中之瀬さん」と申し訳なさそうに告げた。

 私は姓を呼ばれたことでパニックになり、「え……、あ、いえ……」としどろもどろになってしまう。


 この人は私の名前も知っているのだろうか。

 クラス分けの名簿にも記載されていたから気づいている人はいるはずだ。

 机のネームプレートはすぐに鞄で隠したけど、私より先に来た人の目を閉ざす方法はない。


 私がそんな思考に沈んでいることに気づかず、「ごめん、ごめん。そんなに嫌なら”まゆまゆ”って呼ぶね」と彼女は怒りを収めていない少女にも詫びを入れる。

 そのへりくだった態度を見て、”まゆまゆ”はビシッと相手の顔を指差した。


「いいこと? あたしがパパにお願いしたらあなたのパパは首になるのよ!」


 いままでの鬱憤を晴らすかのようなドヤ顔だ。

 そして、「あたしのことは『まゆり様』と呼びなさい」と勝ち誇った態度で言い放つ。


「……悪役令嬢」ともうひとりの子がポツリと呟いた。


 その言葉の意味を問うよりも、いまはこの場を収めることが先だ。

 しかし、こんな場面でどうしたらいいかなんてさっぱり分からない。


 指を突きつけられた側は相手の言葉にひれ伏す様子もなく、後頭部に手を当てつつ溜息をひとつ吐いた。

 それから諭すような口調で「そういう態度はこの学校じゃ通用しないよ」と語った。


「この学校には本物のお嬢様がいっぱいいる。”まゆまゆ”のお父さんはトラブルを起こさないか心配して、あたしに頼み込んだんだ。見守って欲しいって」


 確かに彼女にはどこか危うさを感じる。

 コミュニケーション能力のない私が言うのもなんだが、高校生になったり臨玲という特殊な環境に足を踏み入れたりしたことへの自覚が乏しいようだ。

 厳しい言葉を突きつけられた”まゆまゆ”は目を大きく見開き、眉間に皺を寄せ、わなわなと震えている。

 先ほどまでの怒り一辺倒ではなく、どこか悲しげで幼子のように心細そうだと私の目に映った。


「……私、まゆり様って呼んでいい?」


 思わず出た言葉だった。

 いままでの私なら嵐が過ぎ去るまで気配を隠していた。

 関わらなかったとしても責められることはない。

 むしろ関わればツラい未来が待ち受けているかもしれない。


 でも、私は。

 変わるためにこの高校に来たのだ。

 中学生の時と同じことを繰り返すのならここに来た意味はない。


 まゆり様は驚いた顔でこちらを見た。

 私の存在が頭になかったかのようだ。

 そりゃそうだよね。

 お互いの名前もまだ知らないのだから。


「いいわ。そう呼ぶのを許してあげる」


 彼女も振り上げた拳をどうすればいいのか困っていたのだろう。

 いま癇癪を起こしても人が離れていくだけだ。


「それで、あなた、名前は?」


「中之瀬……」


「苗字じゃなくて下の名前よ」


「…………■■ナ」


 空気を震わせたかどうかさえ定かでない小さくかすれた声。

 私が抱える秘密に比べればどうということもないが、それでも口にしたくない名前だ。


「もっとハッキリ言いなさいよ」


 まゆり様の要求に対して、その背後に立っていた彼女の友人がこちらへ目配せする。

 彼女は私の姓を知っていた。

 おそらく名前も知っているのだろう。

 助けを求めれば間に入ってくれるはずだ。

 でも、それではいけない。


「コロナ、中之瀬コロナ」


 私は意を決して伝える。

 中学時代はこの名前のせいでいろいろと陰口を叩かれた。

 昔は大好きな名前だったのに、いまは口にするのも嫌だった。

 周囲に溶け込めなかった理由はこれだけではない。

 それでも反応が怖くて私は俯いた。


「堂々と言えばいいじゃない」


 怒っているように見えるが、彼女の態度には照れもあるのかもしれない。

 ここ数年、他人とこうして関わり合うことはなかった。

 久しぶりの感覚に戸惑いながらも、熱いものが胸にこみ上げてくるようだった。


「あたしは原田朱雀。こっちは鳥居千種。すーちゃん、ちーちゃんって呼んでね」


 原田さんは爽やかな笑顔を見せ、綺麗な顔立ちの鳥居さんは軽く会釈をしてくれた。

 呼び方に困惑しつつ「よろしく」と返事をする。

 初対面の相手をそこまで親しげに呼ぶのは私にはハードルが高い。


「あたしも変わった名前だからいろいろ言われたことがあるよ。だけど、コロナちゃん……、こーちゃん……、なんか違うな、そう、ロナっちも胸を張って名乗っていいと思うよ。ヤイヤイ言うような人は相手にしなくて良いんだから」


 見た目はごく普通の少女なのになんだか大人だ。

 高校生になればみんなこうなっていくのだろうか。

 そうであればいいなと思いながら私は「ありがとう」と礼を言う。

 それから”ロナっち”って私のこと? と驚愕したのだ。


「こいつの呼び方なんて朱雀で十分よ」とまゆり様が割って入る。


 それから顔を赤らめて「まーちゃんは最悪だけど、まゆまゆは許してあげなくもないわ。ロナっちもそう呼んでいいわよ」と言葉を続けた。

 私は生まれて初めてつけられた愛称にどういう顔をしていいか分からなかった。




††††† 登場人物紹介 †††††


中之瀬コロナ・・・臨玲高校1年生。とある秘密を抱える少女。


武田まゆり・・・臨玲高校1年生。私立中学に通っていたが初瀬紫苑に憧れて臨玲を外部受験した。中学時代は金回りが良いため周りからチヤホヤされていた。


原田朱雀・・・臨玲高校1年生。朱雀の父が、まゆりの父が社長を務める会社の社員という縁もあって臨玲を受験した。


鳥居千種・・・臨玲高校1年生。朱雀の幼なじみ。「可愛いが話の内容は中二病」という評価が中学時代は広まっていた。

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