第365話 令和4年4月5日(火)「入学式」

 校舎入り口に掲示されたクラス分けの名簿を確認する。

 自分の名前だけでなくそこに書かれた全ての新入生の名前を。


 ……良かった。知り合いはいない。


 同じ中学から臨玲に合格した生徒はいないと聞いていたものの確認しないと不安だった。

 私は胸をなで下ろす。

 まっさらな校舎に足を踏み入れると、これまで通っていた私立中学よりも最新の設備が出迎えた。

 スマホアプリで鍵を掛けられる下足箱。

 落ち着いた淡いグリーンの色合いの壁には大きなモニターが設置してあり、今日の入学式のスケジュールが表示されていた。

 開放感のある廊下を抜け、広々とした教室に入る。

 正面に電子黒板。

 教室の背後にはロッカーが設置してあり、ここもスマホで施錠できるようだ。


 机や椅子も中学のものより大きめのサイズになっていた。

 机にはネームプレートがあり、そこに記されたものが各自の席だ。

 私は最後列で自分の名札を見つけた。

 机の上に鞄を置いてから着席する。

 今日は荷物を持ってくる必要はないと通知を受けていたが、手ぶらというのもどうかと思いサブバッグか通常の革の鞄か迷った末に後者にした。

 周囲を見ると、オシャレなサブバッグで登校した生徒が多いようだ。


 教室にいるのは半分程度の人数だろうか。

 すでにいくつか数人のグループができている。

 それを横目にしながら私は重い腰を上げられずにいた。

 焦りはあった。

 私はやり直すためにこの学校に進学したのだ。

 その第一歩を踏み出さなければならない。

 いままでのままではいけない。

 そう頭では分かっているのに勇気はなかなか湧いてこない。


 私は鞄から水筒を取り出すと、コップ兼用の蓋を開け無糖の紅茶を一口分だけ注ぐ。

 マスクを外しまだ温かいそれを口に含むとふんわりと紅茶の香りが広がった。

 カラカラだった喉を潤すとほんの少しだけ落ち着くことができた。

 私はゆっくりと水筒をしまう。

 それから席を立って……と思い描く通りに行動する前に、ひとりの女生徒が近づいてくるのに気づいた。

 彼女の黒い瞳はじっとわたしの方に向けられていた。

 悪意はないはずだと思っていてもつい身構えてしまう。

 すぐ側までやって来た彼女は私の耳元に顔を近づけると「いまの、何だか色っぽかった」とクスリと笑った。


 ギョッとして目を見開く。

 こんなことを言われたのは初めてだ。

 私が反応できないことに気を留めず、彼女はそれだけ言うと自分の席へと戻って行った。

 追い掛けて何かを言った方が良いだろうか。

 だが、頭の中には何の言葉も浮かんでこない。


 悶々としているうちに、こざっぱりとしたスーツを身に纏った大人の女性が教室に入ってきた。

 このクラスを受け持つ担任教師のようだ。

 生徒全員が着席し、出席を確認したらすぐに講堂に向かう。

 私は先ほど話し掛けてきた少女を目で追うが、向こうはもう忘れてしまったかのようにこちらへの関心を失っていた。


 講堂は古びた建物だった。

 公立の小学校にあったものと似た感じで、とてもお嬢様学校の施設とは思えない。

 昨日ほど寒くはないものの、中はひんやりとしている。

 窓も開けているので私は自分の体調が持つかどうか心配になってきた。


「膝掛けが欲しい人は取りに来てください」という呼び掛けが聞こえてきた。


 前の方で上級生らしい人たちが膝掛けを配布している。

 こういう気配りがお嬢様学校らしさなのかなと思いながら私はそれを受け取りに行く。


 いよいよ入学式が始まった。

 小学校の入学式は記憶になく、中学校では事情があって出席できなかった。

 そういう意味では私にとって初めて迎える入学式だと言えた。


 とはいえ開会した時にはあった高揚感はすぐに霧散した。

 壇上に立った立派な人たちの話が終わらないからだ。

 ひとりひとりの話はそれほど長いという訳ではない。

 しかし、人数が多く、終わったと思ったら次の人という流れが続いた。

 新入生の間から私語が漏れるようになり、それを注意する先生たちの声も耳に届いた。

 これでは集中を保つことはできない。

 私は欠伸を噛み殺す。

 マスクをしていてもさすがに大きな欠伸をすればはしたない。

 だが、女子ばかりの環境だからだろうか周囲では人目を憚らずに欠伸をする光景が見られた。


 ようやく来賓のお話が終わり、校歌の演奏や担任の紹介などが行われる。

 新入生代表として私の後方から小柄な少女が壇上へと進み出た。

 艶のある長い黒髪が私の中のお嬢様イメージと合致した。

 彼女は幼い外見ながら堂々とした態度で壇上から私たちを見下ろした。

 スピーチの内容はオーソドックスなものだったので安心して聞いていられたが、喋り方は舌っ足らずな感じでハラハラしてしまう。


 続いて生徒会副会長がマイクの前に立つ。

 新入生代表に勝るとも劣らない美少女だ。

 見た目だけならどちらも高校生には見えない。

 強いて比べるならジンジャーヘアと顔立ちが幼さを強調する分、副会長の方が歳下だと言われても納得しそうだ。


 ただ彼女の美しさよりも私が気になったのは新入生たちの反応だった。

 それまで壇上に誰が立っても――新入生代表の時でさえ――ほとんど無反応だったのに、副会長が姿を見せるとどよめきが起きたのだ。

 有名人が現れたような周囲の動きに私は驚きを隠せなかった。


 ……なに、これ。知らない私がおかしいの?


 自分が芸能ニュースに疎いことは自覚していた。

 やはり、そういうことに精通していないと友だちとうまくやっていけないのかもしれない。

 そんな不安が押し寄せてくる。


 彼女は生徒会長を称える言葉を連発しつつ、臨玲高校がどんな風に生まれ変わったのかを力説した。

 新入生だから改革の成果と言われてもピンと来ないが、彼女の強い思いだけは伝わってきた。


「生徒会長の意志を受け継ぐために、新入生のみなさんには高校生の自覚と臨玲の誇りを胸にきじゃみ……こほん、刻みながら、えーっと……」


 副会長が困り果てたような表情で言葉に詰まると、「頑張ってー」と新入生の間から声援が飛んだ。

 大声を出さないようにと言われていたのに、「陽稲様!」だとか「女神様!」だとか次々と励ましの言葉が掛けられ彼女を後押しする。

 気を取り直した副会長は何とか言葉を続け、無事にスピーチを締めることができた。


 講堂から教室に戻る最中、私はたまたま隣りを歩いていた人に小声で「副会長って有名人なの?」と尋ねてみた。

 話し掛けることに決意が必要だったが、好奇心はそれを上回ったのだ。

 彼女は「知らないの?」と驚いた顔で私を見る。

 私が肩をすくめて頷くと、「初瀬紫苑の映画の主役だったじゃん」と教えてくれた。

 しかし、その説明では疑問はまったく解消されない。

 むろん、私でも初瀬紫苑の名前は耳にしたことがある。

 アイドルか何かだったはずだ。

 彼女がこの高校に在籍していることも聞き及んでいた。

 妹が羨ましがっていたから覚えていた。

 ただ映画と言われても何のことかさっぱり分からない。


「あー、そうなんだ」と私は分かった振りをする。


 みんなが知っていることを知らないというだけで仲間外れにされる。

 それが私がこれまでの人生で学んだことのひとつだった。

 副会長のことを知っていて当たり前、応援して当たり前の空気に逆らってはいけない。


 その時、背後から「あんな人が生徒会の副会長で大丈夫なの!?」という声が聞こえた。

 廊下を歩く生徒たちのざわめきのトーンが少し低くなり、みんなが聞き耳を立てているように感じられる。

 私は思わず振り返ってしまった。

 発言者は新入生代表だった少女だ。

 先ほどはいかにもお嬢様に見えた。

 だが、いまはどこにでもいるような普通の子という感じで隣りを歩く友人に話し掛けている。


「大海〈ひろみ〉お姉様が生徒会長ならいいのに。あんな人の下につくなんて考えられないよね」


 同意を求められた女子生徒は「陽稲様と姫香様が並んだお姿を拝見できて幸せです。これからもそんな光景が見られるかと思うと最高ですわ」とうっとりした表情で語っている。

 全然話が噛み合っていないようだが、ふたりとも気にした素振りはない。


 私は質問した相手に改めて「その映画ってどこかで見れるかな?」と尋ねた。

 彼女は自分のスマホを取り出すと「ほら、ここ」と教えてくれる。

 さらに「『臨玲、初瀬紫苑、映画』で検索すればすぐに分かると思うよ」と言葉を続けた。

 私もポケットからスマホを出し、慣れない手つきで操作する。

 何とか無事にその動画にたどり着き、私のスマホを覗き込むように見守っていた彼女に「ありがとう」とお礼を言った。


 私には”秘密”がある。

 それが知られると、きっと平穏な高校生活は送れなくなるだろう。

 それ以外にも不安材料はたくさんあった。

 灰色だった中学時代。

 そこから抜け出した1日目の今日、ほんの少しだけ希望を持つことができた気がする。

 それが1日でも長く続いて欲しい。

 私はそう祈らずにはいられなかった。

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