第355話 令和4年3月26日(土)「借金」日々木陽稲

「ど、ど、どういうこと!?」


 絶句していたわたしは声を詰まらせながらようやく問い返した。

 可恋の目元は笑みを湛えているが、ただの冗談だとは思えない。


「ひぃなの年商が1億円に届きそうにないんだ」と可恋が切り出した。


 臨玲高校入学時に可恋から『起業して年商1億円を稼ぐように』という課題を与えられた。

 とてもできそうにない課題だと思っていたが、臨玲の新しい制服作りを任されて見通しが立ちそうになった。

 無名の新人のデザイナー料ということでかなり低額に設定しているため、わたしの取り分は多くない。

 しかし、課題は売上額だ。

 今回がダメでも来年再来年なら……。


「高校の制服を毎年買う人は多くないので、来期からは新入生の分の売上しか入って来ないよね。細かなグッズの売上はあってもたかがしれているし」


 わたしは中学時代に毎年制服を新調しようとした。

 しかし、背が伸びていないからとお母さんに反対されてしまった過去がある。

 0.5 cm伸びたと食い下がったのに伸びたうちに入らないと却下されてしまったのだ。

 そんな酷いトラウマが頭を過ぎる。

 一方、可恋は淀みなく話を続ける。


「そこで、この五億円で紫苑とスポンサー契約をすることになったの」


 五億円融資すると言われた時も思考が停止してしまったが、またもどうリアクションしていいか分からなくなった。

 ポカンとしているわたしに可恋は言葉を続ける。


「役を演じている時を除いて、彼女がメディアに露出する時はすべてひぃながデザインした服を着てもらう。紫苑は露出が少ないから五億は高すぎる気もするけど、逆に少ないからこそ注目度が高いのでこんなものかな」


 ひとりで納得した可恋は「これを2年ね。つまり、ひぃなの借金は10億円ってことになるね」と爆弾発言をした。

 わたしはひっくり返った声で「しゃ……、しゃっきんっ!」と目を剥く。


 だって、そうだろう。

 確かに服飾に関してはお金の使い方が麻痺していると言われるが、それでも借金をして買うことはない。

 品行方正に暮らしてきたつもりだ。

 それがいきなり10億円の借金持ちになるなんて……。


「む、無理! 返せる訳がないよ!」


「大丈夫。なんとかなるって」と可恋は気楽に言うが、10億円なんてお金がそんな簡単に稼げるとは思えない。


「これはチャンスなんだ」


 可恋は一転して真面目な表情を見せた。

 当たり前だが可恋には考えがあってこういう話を切り出したはずだ。


「紫苑が主演でネット配信される映画が間もなく公開される。中国や台湾では既に彼女は高い評価を受けているし、これで更なるブレイクも期待できる。これからひぃなのブランドの知名度を獲得していく上でこのチャンスをつかみ取ることは絶対に必要なことなんだ」


「でも、10億って……。起業したのにほとんど儲かっていないんだよ?」


 わたしが正直な思いを口にすると、「儲けが出ないような契約をしたんだから当然だよ」とアッサリとした口調で可恋は答える。

 起業に際して可恋から勧められた本は読んだが、契約のことなんてさっぱり分からず可恋任せだった。

 言葉の出ないわたしに「デザイナー料を安く設定したのはひぃなじゃない」と可恋は言う。

 会社としてはわたしにデザイナー料を払う分だけ利益を出せばいいので、会社にお金が残らなくてもいいのだそうだ。


「単純な考え方だけど、100万円を元手に120万円稼いでも20万円しか利益が出ない。これが100億円で120億円稼げれば20億円の利益になる。経済では規模が大切なんだ」


 そう言って可恋は醍醐さんの話をした。

 彼女はOLとして働きながら副業で自分がデザインした服をネット販売している。

 わたしが制服作りで壁にぶち当たった時には何度もアドバイスをしてくれた面倒見が良いファッションデザイナーだ。

 実務能力が非常に高く、可恋が何度か好条件で引き抜こうとした人物でもある。

 そんな醍醐さんの服は副業としては結構稼いでいるそうだ。


「醍醐さんは自分の能力を客観視しているから、多額の投資をして宣伝広告にお金を掛けたところで売上がそれに見合った上昇をするとは思っていない。だから、趣味レベルで続けている」


 可恋が言うようによほど突出した才能でもない限り個人がファッションデザイナーとして成功するのは難しい。

 醍醐さんの服を望む人はいてもそれが多くの人に受け入れられるかはまた別の話である。


「一方、そういう趣味レベルのやり方からコツコツ続けていき、メジャーになれるかというと疑問だよ。可能性はゼロではないものの、宝くじに当たるような確率だろうね」


 そういうサクセスストーリーがない訳ではない。

 しかし、世界にはファッションデザイナーの卵がごまんといる中で成功したのはほんの一握りだけだ。

 多くが”その他大勢”の中に埋もれている。


「早く、確実に売れるためにはこれしかないんだよ」


 わたしひとりであれば、時間を掛けてコツコツ頑張るという道を選んだかもしれない。

 しかし。


「分かった。でも、本当に大丈夫?」


「ひぃなの才能を信じているから」と可恋は微笑む。


 わたしが頬を染めていると、「懸念があるとすれば2年間のうちに紫苑が不祥事を起こして芸能界から干されることかな」と可恋は自分の顎に人差し指を当てながら口にする。

 つまり、わたしはスポンサーとして紫苑が品行方正であるよう見張ったり指導したりしていかなきゃいけない訳ね。


「あと、融資した側からの要望なんだけど、今後ひぃなブランドで出す服は最低でも100万円という価格設定にして欲しい」


 今回即答ができなかったのは驚いたからではなく、値段の付け方がよく分かっていないからだ。

 臨玲ブランドのものはメーカー等との話し合いで決めている。


「そんな値段で注文が入るの?」と聞くと「ひぃなだって何着か持ってるでしょ」と言われてしまった。


 ……そりゃあ何着かは作ってもらったけどね。

 その時のように憧れる気持ちをもってもらえる服を、特別感のある服をわたしは作れるだろうか。


「桜庭さんが工房を作ったんだ。縫製だけでなく工業的化学的様々な製法を駆使するユニークな集団。いままで不可能だと思われた服作りを可能にするというのが触れ込み」


「へぇー」とわたしが関心を示すと、「ひぃなブランドとしての服作りはすべてそこで製作してもらうから」とわたしの知らないところで決まってしまっているようだ。


「入院中は仕事をしてなかったんだよね?」


「退院が決まるまではしていないよ」


 可恋によると臨玲入学当初からある程度のシナリオを描いていたそうだが、それにしてもである。

 わたしは断る気力もなく、言われるままに書類にサインをした。

 こうしてこれまでの人生の中で最大のインパクトにして最高額の誕生日プレゼントをわたしは最愛の人から受け取った。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・臨玲高校1年生。臨玲高校の新しい制服をデザインしたファッションデザイナー。幼少期から裕福な祖父から大量の服を買い与えられ、ファッションデザイナーを目指すようになった。


日野可恋・・・臨玲高校1年生。自身のプライベートカンパニーは陽稲の祖父との繋がりが深く、臨玲高校の校舎建替では中心的な役割を果たした。


醍醐かなえ・・・陽稲たちが中学2年生の時に見に行ったファッションショーで知り合った。OL兼ファッションデザイナー。桜庭とも旧知の仲。


桜庭・・・陽稲たちが中学2年生の時に見に行ったファッションショーの主催者。フットワークが軽く様々な分野に手を出している。可恋の経営面での師匠的存在。


初瀬紫苑・・・臨玲高校1年生。国内屈指の人気映画女優。昨秋公開された映画は東アジア地域全般で話題に。


 * * *


 そして今日は紫苑の所属事務所に行きスポンサー契約の調印だ。

 実は、わたしはこの事務所とマネージメントの契約もしている。

 紫苑が撮った映画に主演して顔が知られたのでトラブルが起きないようにという配慮によるものだ。

 今後も紫苑のスポンサーとしてやファッションデザイナーとしてメディア対応する時に事務所の力を借りることもあるだろう。


 紫苑専属のマネージャーさんに車で迎えに来てもらい、ひとりで事務所に乗り込んだ。

 可恋がついて来てくれなかったことは不安だが、話し合いはすべて終わっているので判を押すだけだと聞いている。

 それに紫苑も同席してくれた。

 周囲が大人ばかりだとさすがのわたしでも少しは緊張するのでとてもありがたかった。


「このあと記者会見を行います」と調印が終わってすぐにマネージャーさんから声が掛かった。


 ……キイテイマセンヨ。


 昨日から何度頭が真っ白になったことか。

 可恋なら「予測が大事」と言うだろうが、彼女のような人間は世界中を探してもほとんどいない。


「早く服を作って。それまではこの制服しか着るものがないから」


 紫苑の言葉で彼女がなぜ臨玲の制服姿だったのかと腑に落ちる。

 だが、それなら記者会見も当初の予定通りだったのではないか。


「記者会見なんて聞いてないよ」と小声で紫苑に抗議しても「陽稲なら余裕」と相手にされない。


 実際、厳しい質問はなく、笑顔で相手が欲しそうな言葉を返していれば滞りなく進行した。

 無事に大役は果たせた。

 でも、心臓に悪いから前もって教えておいてよ!

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